[巻渕彰/写楽さい]
2012年2月 9日 08:30
関東大震災(大正12年(1923))で東京が壊滅的な打撃を受けた2年後の大正14年(1925)、復興が進む銀座の街頭で、町ゆく人々の服装などを、今 和次郎(こん・わじろう)が丹念に調査した。現在、生涯の業績をまとめた「今和次郎 採集講義 展」がパナソニック汐留ミュージアムで開かれている。会期3月25日まで、月曜休館、入館料一般500円、同館HP こちら>>。
今和次郎(明治21年(1888)-昭和48年(1973))は、民俗学の柳田國男に師事し、民家などを調査・研究。全日本建築士会初代会長など歴任した。
大正14年(1925)年5月、4日間をかけて京橋から新橋までの区間で、街路を歩く人たちの服装、行動などの風俗をカードに記録した。これが、「考古学」に対し「現在を調べる」とする自身の造語、「考現学」と名付けた最初の調査「1925初夏 東京銀座街風俗記録」であった。
画面では見にくいかもしれないが、同展パンフ(写真)の中の図版は、記録風俗の調査項目である。
ここには銀座通りで調べた、男女の洋・和装比率が図示されている。男性は洋装67%、和装33%で、女性は洋装1%、和装99%となっている。特に女性のほとんどが和装だったことが分かる。よく銀座のモボ・モガといわれるのは、これより後の時期のようだ。
男性の服装を見ると、外套はスプリングコートがレインコートより多かった。ネクタイは蝶結び11%、普通89%。靴は黒靴より赤靴、短靴よりアミアゲ靴が多い―などを集計している。女性の服装では、和服のうち、9割が外出着であったという。これについて「他の町では見られない銀座の銀座たるところで、驚いている」、と論じている。
「銀座そのものは、東京の風俗カルチャーの一大中心と認められ、その伝播は東京の周辺へ、また、わが国のほとんど全地方へと行きわたる性質を持っている」、と銀座を記した。歴史には表れにくい庶民の様相、しかも銀座の街角を凝視した、大正末期の瞬間といえる。
この調査を一緒に行ったのは日本橋浜町生まれで、京橋尋常小学校に通った吉田謙吉だった。氏が調べたものに、「1931年(昭和6年) 銀座街広告細見」や「銀座の露店」などがあるという。時代をスケッチした銀座通りの今昔が見えてきそうだ。●巻渕彰
[巻渕彰/写楽さい]
2012年2月 2日 08:30
中央区立郷土天文館(タイムドーム明石)で、企画展「銭!ぜに!ゼニ!~中央区から出土したお金たち~」が開催されている。慶長17年(1612)、銀貨鋳造の銀座役所が新両替町(現在の銀座二丁目付近)に設置されて、ことしは「江戸銀座開設400年」にあたる。会期は1/28-2/26、月曜日休館、入場無料。
中央区には江戸期、金座と銀座が置かれたが、銭座は存在しなかった。
金座は江戸、京都、佐渡、駿河に開設された。江戸金座は日本橋本町で現在の日本橋本石町、日本銀行本店の場所である。江戸開府とともに初代後藤庄三郎光次(みつつぐ)のもとに金貨鋳造がされ、以後、後藤家が世襲した。
銀座の開設場所は江戸、京都、大坂、長崎であった。江戸に置かれたのは慶長17年(1612)で、現在の銀座二丁目あたりである。銀貨鋳造は代々、大黒常是(だいこくじょうぜ)が請け負った。江戸後期、展示解説によると、享和元年(1801)〔(注)現地の中央区教育委員会設置説明板には、寛政12年(1800)と掲載されている〕に日本橋蛎殻町(現日本橋人形町)へ移った。鋳造を江戸に統一した公儀組織となり、蛎殻銀座と呼ばれた。維新後の明治2年(1869)、金座とともに廃止された。
江戸期の貨幣制度は「三貨制度」で、金貨・銀貨・銭貨が流通した。「江戸の金遣い・大坂の銀遣い」といわれるように、東国と西国では通貨の使い方に違いがあったようだ。
展示では、区内の遺跡発掘現場から出土した貨幣が並ぶ。金貨は日本橋一丁目では宝永一分金、八丁堀二丁目からは天保一分金などが見つかっている。銀貨は少なく、明石町から嘉永一朱銀が出土したそうだ。銭貨は広く一般に流通した銅製貨幣で、「寛永通宝」が多数出土した。ひとくちに寛永通宝といっても、何と6種類もあるという。その違いを展示会場で確かめてはいかがだろうか。ほかに渡来銭や雁首銭、模造銀貨も出土している。
貨幣は代金決済に使われただけではなかった。墓に埋められたり、トイレ(埋め甕)に沈めたり、穴蔵、植木植栽跡などからも見つかっているという。まだどこかに埋蔵金が眠っているかもしれない。町人、職人、商人そして武家たちが暮らした江戸。出土した貨幣は何を語っているのだろうか。
会期中、学芸員によるギャラリートーク(展示解説)が2月4日・18日の各土曜日、午後2時から1時間、参加費無料で開催される。●巻渕彰
○詳しくは、中央区ホームページ >>こちら