[巻渕彰/写楽さい]
2013年5月23日 09:00
中央区やさしい歴史講座「江戸の成り立ちと江東地域」が5月22日、区立女性センター「ブーケ21」で開かれた(写真)。中央区の歴史を学ぼうと企画した公開講座で、まち歩きボランティアガイド団体の中央区文化財サポーター協会が主催した。
講師は江東区中川船番所資料館次長の久染健夫さん。近世(江戸時代)研究者の視点から語る、歴史散歩の楽しみ方は参考になる。
地勢的な面から江戸の形成を紐解き、「首都・江戸」の町づくり、都市機能はどのように発展していったかについて、江戸の中心地であった日本橋・京橋・八丁堀・新川地域などを取り上げて解説された。江戸前期から市街地拡大にともなって隅田川東部の深川・本所地域も開発されていく。
延宝8年(1680)絵図『葛西志』によると、寛永18年(1641)桶町(現・八重洲辺)の火事で焼け出された本材木町(現・日本橋)の"元祖木場"が深川に移転した後の「木置場」が小名木川の南、隅田川沿岸に描かれ、その周辺は堀割が縦横に張りめぐらされている。同図で興味深いのは「富岡八幡宮」が海辺に面していた位置にある。現在の東京メトロ東西線の木場駅や東陽町駅付近は海の中だった様子にもみえる。
改めて周辺地域からみた中央区の歴史を知ることによって、265年にわたって築き上げられた都市江戸の奥深さと広がりを再認識させられた。@巻渕彰
[巻渕彰/写楽さい]
2013年5月17日 09:00
新生歌舞伎座の正面を飾る絵看板。演目と登場人物を配した絵看板は300年以上にわたって鳥居派の絵師によって描かれている。天明期に美人画で活躍したのが鳥居派4代目当主の鳥居清長(とりい・きよなが)であった。清長は日本橋本材木町で生まれ、没後は両国回向院に葬られたが墓碑が消失していた。そこで、このほど没後200年を記念して「鳥居清長碑」(写真)が再建された。
鳥居清長は宝暦2年(1752)、本材木町(現・日本橋)の本屋・白子屋に生まれた。この地は楓川の西側で新肴場(通称新場)があったところから「新場の清長」とよばれたそうだ。
19歳で清長を名乗り、役者絵を専門とする鳥居派の画風を脱し、美人風俗画を得意としてその手腕を発揮したという。江戸名所を背景に八頭身のすらりとした美人画様式は「江戸のヴィーナス」と称される。鈴木春信・歌麿・写楽・北斎・広重と並び、6大浮世絵師として評価されている。
天明7年(1787)に鳥居家4代目を襲名。以後は鳥居家の家業の絵看板や番付、黄表紙、絵本などに専念したという。文化12年(1815)64歳で生涯を閉じた。
墓所の両国回向院では震災や戦災などの災禍で清長の墓碑が失われていた。没後200年を迎えるにあたって、画業をたたえる墓碑の再建が計画され、4月に新たな清長碑が建立された。高さ2.1m、幅2.0mの小松石で、代表作「大川端夕涼み」をイメージしたブロンズプレートが中央に埋め込まれている。@巻渕彰