[滅紫]
2012年1月29日 08:30
三島由紀夫の「橋づくし」は昭和31年(1956年)「文藝春秋」発表の短編、三島が31歳の時の作品です。花柳界の女性4人(芸者2人、料亭の娘、その女中)が陰暦8月15日の夜に願掛けの「七つ橋渡り」をする話で、「願」を叶えるための条件は「同じ橋を2度渡らない」「誰とも口をきかず、話しかけられず」の2つ。さて、無事に渡りきることの出来るのは誰?
この「七つ橋渡り」というのは「満月の夜、誰とも口をきかずに七つの橋を渡ると願いが叶うという俗信が江戸時代に花街の女性の間で流行った」ものだそうです。作品発表当時の花柳界でまだ信じられていたのかどうか定かではありませんが、「金閣寺」「永すぎた春」「鹿鳴館」などを発表して当時人気作家だった三島の小説とあって発表後「七つ橋渡り」が流行したとか。「銀座ブロッサム」向いの三吉橋のたもとに碑があり、この「橋づくし」の一部と当時の橋の図があります。
これによると「この橋は築地川の屈曲した地点に楓川と結ぶ水路が開削され、川が三叉の形となったところに関東大震災後の復興計画の一環として昭和4年(1929)に架けられた。情緒ある風景も今は埋め立てられ高速道路と化し、陸橋となりました」
小説が発表された当時を想像しながら歩いて見ることにしました。小説当時だと築地本願寺まで1.2KM、15分程度の散歩だったはずですが。・・
まずは「話しかけられてもいけない」ので帽子、マスク、大き目のサングラス(コンビニ強盗スタイル!)で準備完了。さあ出発です。三吉橋の描写は次のようになっています。
「三叉の川筋に架けられた珍しい三叉の橋で橋の欄干は低く、三角形を形作る三つの角におのおの古雅な鈴蘭灯が立っている。三叉の2辺を渡ることで橋を二つ渡ったことになる。」
「築地橋は風情のない橋である。橋詰の四本の石柱も風情のない形をしている」
→かな子腹痛で脱落
「入船橋」の名は橋詰の低い石柱の緑か黒か夜目にわからぬ縦長の鉄板に白地で記された」
「毒々しいほど白い柱がゆくてに見えた。奇抜な形にコンクリートで気づいた柱に白い塗料が塗ってあるのである」
→小弓、知人に話しかけられ脱落
この暁橋と7番目の橋である「備前橋」は埋め立てられて「築地川公園」になっています。公園の入り口と出口に石柱が立っています。
本来は「暁橋」と「備前橋」の間に「緑に塗った鉄板を張っただけの小さな堺橋である」と説明されている「堺橋」があるはずなのですが見つかりませんでした。他の資料によると「築地7丁目2」あたりにあったものらしいのですが。・・
「緑の欄干に守られた備前橋は欄干も放物線をなして軽い勾配の太鼓橋になっている。三味線の箱みたいな形のコンクリートの柱に備前橋と記されその柱の頂に乏しい灯がついている。→満佐子、警官に尋問され返答して脱落。
結果7つ橋を渡れたのはひとりだけ。「願い」は叶ったのでしょうか。私は6つしか渡れず、写真撮りの都合上夜でもなく、おまけに渡り始める前に「願掛け」するのを忘れて!おりました。(今年も宝くじは当たりそうにない)
三島は「橋づくし」の小説発表後に西川鯉三郎のために舞踊台本も書いています。あの衝撃的な死から既に40年以上経ちました。亡くなった時はまだ45歳!歌舞伎の新作を沢山書いて「昭和の黙阿弥」になってほしかった!と橋の跡を歩きながら今さらのように残念に感じました。
[滅紫]
2012年1月11日 08:30
一月の東京は演舞場、国立、平成中村座、浅草公会堂、ルテアトル銀座と5館で賑やかに歌舞伎公演の幕が開いています。ルテアトル銀座では昨年に引き続き玉三郎さんの新春特別公演(26日千秋楽)が行われ、公演期間限定で特別メニューが用意されています。
B1ケーキショップでは公演演目の「妹背山婦女庭訓」に因み「三笠山」(5コ入り1,250円)、シェフパテイシエのオリジナルどら焼きです。お店の方の説明によると「銀座みつばちプロジェクトの支援で栽培されている無農薬のもち米(岡山・新庄村)のもち粉に沖縄の黒糖、ラム酒を加えた生地に熊本産の和栗を使ったクリームをサンドしたもの」とのこと。確かに和洋ミックスの従来のどら焼きの概念を覆す新鮮さです。
もう1点は「歌舞伎ギモーブ」(1箱1,050円)
ギモーブ(guimauve)はフランス語でマシュマロのこと。歌舞伎座定式幕にちなんだ、チョコレート、アプリコット、抹茶の3色。こういう遊び心が嬉しいですね。こちらは昨年から作っているそうです。そういえば海老蔵さんが出演できなくなった1月の舞台を玉三郎さんが座頭となり大入りとなったことはまだご記憶に新しいことかと思います。
現在歌舞伎座で使用されている定式幕は舞台左手から「黒」「柿色」「萌黄」、国立は「黒」「萌黄」「柿色」、中村座は「黒」「白」「柿色」です。中村座が一番古く初代の中村勘三郎が幕府の御用船「安宅丸」の幕を拝領し、それに柿色を加えて3色にしたのが始まりで、現在の歌舞伎座の定式幕は「森(守)田座」、国立の定式幕は「市村座」のものを踏襲しているといわれてきました。ところが最近「通説は事実誤認に基づいていて歌舞伎座のものが市村座、国立のが「森(守)田座」のものと色調が同じである」という学説が発表されているそうです。(松竹の公式サイト)これから検証が進めば長い間の通説が覆されるかも知れません。興味津々です。
皆様ご存知のことと思いますがルテアトル銀座の中央通りを挟んだ反対側の交番の傍に「江戸歌舞伎発祥の地」の碑があります。そうです。ここが猿若勘三郎が寛永元年(1624年)「中橋南地」に開いた芝居小屋があったところなのです。ご参考までに右は京都南座の入り口にある「阿国歌舞伎発祥の地」の石碑です。こちらは慶長8年(1603)。「江戸歌舞伎発祥の地」の碑の近くに「大根河岸跡」の石碑もありますので観劇前後にちょっと散策されてみては如何でしょうか。
[滅紫]
2012年1月 7日 08:30
新年も3が日があっという間に過ぎ、4日の今晩は初芝居!
新橋演舞場の正面入り口には真ん中に「大入」と貼られた積物、門松、ロビー中央には鏡餅と大羽子板。ロビーを行きかう観客の和服姿も華やかな訪問着や振袖が多くお正月の劇場らしい雰囲気を一際目立たせている。
夜の「矢の根」は歌舞伎十八番の一つで定番正月狂言の曽我物。江戸歌舞伎で正月興行に「曽我物」を初春狂言として上演するのが定まったのは享保時代(1716~36)。活力の漲る荒事に一年の安泰と五穀豊穣を願う意味をこめてのことという。
「矢の根」は享保14年(1729)2代目団十郎が正月の中村座で演じたのが初演。正月から5月までの113日、5日間休んだだけで5度の日延べをする記録的な大入りで大当たりとなり、その大当たりの金で「矢の根蔵」という蔵を作った。この蔵のあとが今日の「矢の倉」の地名のおこり。―という説もあるが、今の東日本橋1丁目あたりに幕府が米蔵を建てた、以前は字句通り矢を保管する倉が近くにあったから。 ―という説もあり定かではありませんが、好みとしてはこの「矢の根」の大当たりというのが楽しいですね。
「正月に上演すると元旦に伊勢神宮に行って玉砂利の上を歩くような清浄感を味わえる狂言」と今回演じる三津五郎さんがインタビューで語っているのが本当にぴったりの演し物です。
舞台正面の市松障子が上がると曽我五郎が車鬢、仁王襷の荒事の主人公らしい出で立ちで登場します。大根を鞭にしていざ出発!あっという間の短い狂言ですがいかにも新春らしくて楽しめます。
夜の部は五代目富十郎追善の吉右衛門さんと鷹之資さんの「連獅子」、菊五郎さんの「め組の喧嘩」、30人余りの鳶が舞台一杯に勢ぞろいすると壮観。座敷に獅子舞も入って一層新春気分を盛り立てます。
昼の部は「相生獅子」「金閣寺」「加賀鳶」
新春歌舞伎は華やかで分かりやすい狂言が多いので初めてご覧になる方にもお楽しみいただけると思います。一味違った初春気分を味わいに劇場におでかけになりませんか?
チケットホン松竹:0570-000-489(10:00~18:00)26日千秋楽