[滅紫]
2018年11月22日 12:00
旧暦10月12日は新暦では11月19日に当たります。「桃青忌」「時雨忌」ともいいますので確かに季節感としては旧暦がぴったりきます。「桃青」というのは芭蕉を名乗る前の俳名です。芭蕉の句碑は佃煮の老舗・日本橋鮒佐さんの店先にあります。隣に説明板もあって「寛文2年1672、29歳の時伊賀上野から江戸に出た芭蕉は以後延宝8年1680年37歳までの8年間、ここ小田原町(現在の室町1丁目)の小沢太郎兵衛(大舟町名主、芭蕉門人 俳号ト尺)の借家に住んだことが知られている」とあります。この間「芭蕉忍者説の真相?」というキャッチに惹かれてベストセラーの「影の日本史にせまる」(磯田道史・嵐山光三郎)を読んでいたら定説では「芭蕉は俳諧の宗匠になるため江戸に出た」と言われているのだが、実は仕えていた藤堂家が神田上水の修復工事をすることになり、「水道工事人」として江戸にやってきた。藤堂家のつながりで日本橋に住み、余技としていた俳諧の弟子が増えていった」というのです。確かにこの説の方に信憑性が感じられます。句碑の説明にも「延宝6年俳諧宗匠として独立、その翌年の正月宗匠としての迎春の心意気を詠んだ句」と説明がありました。以前日経で「この句碑が出来るまでの経緯」を読んで「老舗の方たちは凄いな、流石日本橋」と感じたのを思い出しました。
そういえば蕪村の「夜半亭―与謝蕪村居住地跡」の説明板も近くにあります。福島県のアンテナショップの通りを隔てて丁度反対側、みなと銀行の看板の並びに「石町時の鐘」の説明板と並んでいます。「夜半亭は師の早野巴人が石町時の鐘のほとりに結んだ庵。若き蕪村は「宰町」という名で内弟子として同居。6年後の寛保2年1742巴人が亡くなり、一門が解散して江戸を離れる。」とありました。江戸の3俳聖の内2人が日本橋に住んでいたのは凄いですね。
[滅紫]
2018年11月 6日 12:00
1日南座、2日歌舞伎座と東西両座で平成最後の顔見世の幕が開きました。南座は2年半に及んだ耐震改修工事を終了しての新開場とあって11月、12月と2月続きの顔見世です。たまたま1日京都におりましたので東西顔見世初日の写真をご覧ください。ご存知の通り「顔見世」は江戸時代、各劇場が毎年11月から1年契約で役者を雇う制度だったとき(プロ野球の契約更新のようなものです)、新契約の役者を披露する興行です。現在は歌舞伎俳優全員松竹所属なので本来の顔見世の意味はありませんが名称はそのまま使用されています。名古屋の御園座は10月です。
やってきたのは歌舞伎座初日夜の部です。夜の部の話題は猿之助さんが初役で演じる「法界坊」。十八代目の勘三郎さんの当たり役で海外公演でも演じていたので「法界坊といえば勘三郎さん」というイメージが強いかも知れませんが、澤瀉屋さん系でも演じられています。ご存知のように法界坊は破戒僧ながら愛嬌があって憎めない歌舞伎のダーティヒーローですが、猿之助さんはインタビューで「ふざけようと思えばいくらでもふざけられる芝居ですが、あくまでも芝居で笑わせないといけないので匙加減が難しい。演じる俳優によっていろいろな法界坊があっていいと思います」と語っています。
花道に「釣鐘建立」ののぼりを持ちボロをまとった法界坊が登場するやわれんばかりの拍手!勧進の供衆との軽妙なやりとりで一気に観客を引き付けます。手代要助に身をやつした松若丸を演じる隼人さんを「歌舞伎界で一番いい男だと思っているだろう」などとアドリブで弄り、うつむいている隼人さんが笑いを必死に堪えているのが何とも可笑しい。おくみが右近、野分姫が種之助、五百平が巳之助と若手人気役者でそろえ、道具屋甚三に歌六、敵役の大坂屋源右衛門に團蔵という絶妙の配役で締めています。大当たり間違いなしの法界坊、新しい「法界坊」の誕生です。
夜の部は吉右衛門・菊五郎両重鎮の「楼門五山桐」、たった15分ですがこれぞ歌舞伎という豪華絢爛な舞台、雀右衛門さんの「文売り」。
昼の部は昨年清元栄寿太夫を襲名し歌舞伎役者との「二刀流」が話題の右近さんが清元で初のお目見得となる「十六夜清心」、他に「お江戸みやげ」「素襖落」です。右近さん昼の部も歌舞伎役者としても登場しますので大奮闘です。
「顔見世大歌舞伎」26日千穐楽
お問い合わせはチケットホン松竹0570-000-489
(10時―18時)