[杏葉牡丹]
2013年10月18日 08:56
朝晩の気温も大分下がってきて、いよいよ味覚の秋となりました。
美味しい食べ物が揃う町と言えば、なんといっても「食の町 築地」です。
恒例となった「築地 秋まつり」は10月12日、13日の二日間行われましたが、今年は「美味しさで経済支援!」ということで、テーマはそのものズバリの『食ベーノミクス』。
イベントの目玉の一つが、特設会場で七輪を貸し出して、築地で買った食材をそのままそこで焼いて食べられる!ということで、パンフレットの表紙は「食」という文字が七輪を連想させるユニークなもの。
網で焼くのは美味しいと分かっていても、家では煙が気になってなかなかできないもの。
当日は汗ばむくらいの好天の下、煙が立ち込める会場では、期間限定のプレミアムビールの他に、正露の卵焼き・幸軒のシュウマイ・近江屋のステーキ等築地の美味しいお店の販売ブースが並び、皆さん秋の味覚を満喫していらっしゃいました。
13日は、銚子から直送のサンマを、その場で焼くブースに 大行列ができました。
そして、もう一つできた行列は「かつお節削り」体験のブース。
初めて触ったという子供から、あら懐かしいというご婦人も。
男性も結構並んでいたのが意外でした。
当日販売された「お買い物チケット」は、築地場外市場の加盟店で使える物ですが、1000円で1100円分のチケットがついている上に、築地の銘品が当たる大抽選会の抽選券まで付いているスグレもの。
私は残念ながら抽選には当たりませんでしたが、残ったチケットは10月31日まで使えますので、近日中にまた買い物に来ようと思っています。
[杏葉牡丹]
2013年10月 5日 09:00
『新橋』というと、現在は港区にある地名になっているので、なぜ中央区?と思う方もいらっしゃるかと思います。
でも『新橋』はかつては銀座の先の汐留川に架かっていた「橋」で、江戸時代には芝口橋と呼ばれていた時期もありました。
汐留川は、終戦後に徐々に埋め立てられてしまいましたが、我が家にあった戦争直後の写真には、親柱と、右端に少しだけ欄干が見えます。
(←クリックすると大きくなります)
この親柱は現在も残っていて、銀座8丁目の博品館の斜め前、スーパーのハナマサの入口前の高速の下に、今でもその姿を見ることができます。
この新橋があった場所のすぐ近く、博品館の裏通りには、江戸時代に能楽の金春流の屋敷があったため、現在でも金春通りと呼ばれています。
幕末にここに住んでいた常磐津の人気の女師匠が、しばしば宴席などに呼ばれるようになり、幕府から「酌取御免」のお墨付きをもらいます。
これが所謂「新橋芸者」の始まりです。
料亭や待合なども、この周辺から木挽町(現在の銀座の東側)、築地辺りにあります。
ですから「新橋の花柳界」というのは、港区の新橋にあるのではなく、「新橋」という橋の中央区側の周辺の事なのです。
そして大正14年に建てられた『新橋演舞場』が、新橋駅からかなり離れているにも関わらず『新橋』とつくのは、「新橋芸者」の技芸向上の為に建てられた為であり、出資したのは料亭や置屋や芸者衆などの新橋花柳界の関係者たちです。
昭和15年からは松竹と興行契約を結び、その傘下となりましたが、今でも経営陣の中には、料亭のご主人が名前を列ねています。
新橋芸者衆によって、毎年5月に4日間催される「東をどり」は、かつては春秋の年2回行われて、川端康成・谷崎潤一郎・吉川英治らが戯曲を書き下ろし、踊りの名手「まり千代」のブロマイドが売られて女学生のファンの列ができたのだそうです。
なお、新橋花柳界が何故発展したかといえば、薩長等の幕末の志士で明治政府の要人となった人々は、当時まだ若く、西国の無粋な人たちと見られて、江戸時代に一流とされた柳橋などでは歓迎されなかった為、新興の新橋での宴席を好んだからだそうです。
現在でも有名な文学賞の、芥川賞・直木賞の選考会場となっている料亭「新喜楽」(初代女将の当時は「喜楽」といっていた)は、伊藤博文が大変ひいきにしていて、朝鮮総督として京城に在任中に、女将が訪ねて行ったところ、とても喜んで、女将を讃えた漢詩を揮毫して記念に送ったということです。