[ゆりかもめ]
2010年10月27日 17:00
前編では豊海橋・湊橋・茅場橋・鎧橋・江戸橋を御紹介しましたが今回は日本橋・西河岸橋・一石橋を御紹介いたします。
日本橋 (日本橋1丁目~日本橋室町1丁目)
慶長8年(1603年)徳川家康によって架けられる。
翌年に五街道の起点となり日本の中心として江戸の繁栄を支えた
。
明治に入って橋の中央が国道の基点と定められ東京市の道路元
標が立てられた。
現在の橋は2連アーチ橋で
明治44年(1911)に完成し来年は100周年をむかえる。
装飾を担当したのは建築家、妻木頼黄で麒麟と獅子のブロンズ彫刻が施されている。
橋中央の橋灯にある麒麟は繁栄を表し四隅の獅子は守護を表している。
一石橋 日本橋本石町一丁目~八重洲一丁目)
外堀の水が日本橋川に合流する場所に架かる橋です。
北の金座後藤庄三郎と南に御用呉服商の後藤縫殿助の屋敷があったことから後藤(五斗と五斗)で
一石橋となったそうです。
江戸の初期から「武州豊島群江戸所庄図」にはすでに「木橋」として見えています。
大正11年には(1922年)には鉄骨コンクリート花崗岩張りのモダンな橋となり関東大震災にも落橋せず、その後も重要な橋として使われて居りまし。
しかし平成9年には橋本体はすべて撤去され親柱1本だけが残されて当時の姿を忍ばせています。
親柱の左側に見えるのは「一石橋迷子しらせ石標」の案内板です。
説明を読めば江戸時代は住人全員が家族であったような錯覚をおこします。
まだ訪れた事のない方は是非、歩いて渡ってみて下さい。
西河岸橋 (日本橋本石町1丁目・日本橋室町1丁目~八重洲1丁目・日本橋1丁目)
日本橋から一石橋までの日本橋川右岸地域が西河岸町という地名であった事から「西河岸橋」と名づけられました。
初代は明治24年に架設、当時は最新式の鉄橋でしたが関東大震災で被害をうけました。
大正14年に現在の橋に架け替えられ、その後65年を経過した平成平成2年に修復し木造建築様式の木組みを取り入れた意匠で整備しました。
橋の架かっている道は日銀通りです。
[夕陽の丘]
2010年10月18日 10:12
旅行仲間と8月のもんじゃ焼に続き、築地でお寿司を頂きました。
築地市場内のおかみさんに教えてもらった 「岩佐寿司」 を訪ねた。
http://www.iwasasushi.com/
市場の中、行きかうターレットや自転車の 邪魔にならないようにしながら、お店を探す。
『ネタが新しく おいしいお寿司よ』 の推薦どうりだ。
「おまかせ」 を注文の後 追加で「カワハギ」のにぎりを注文。 全部おいしく頂いた。
特にアナゴはおいしく、鼻にふわっとした、優しい(?)食感が残り とても満足した。
友人たちの意見も一致。 水曜日はレディースデーで 女性達にはお土産が渡された。
店の人たちは きびきびとした動き
と 清潔感があり気持がよい。
カウンター席に限りがあるので、前
もって予約しておくのがよい。
HPより
おまかせ ¥3,600 にぎり12個 巻物1本 お吸い物付
浜離宮恩賜庭園へ入る
入り口でユビキタス・コミュニケータ (ガイド端末) の機器を借りる。
庭園内を散策していて 名所の近くへ行くと 自動的にその場所にかかわる説明を 音や映像
ではじめてくれる。以前銀座でも この機器を使わせてもらったが、自分の興味のある場所や
事柄について詳しく説明が聞け、興味がない時は説明を飛ばして次へ進める とても便利な機
器と思います。
他府県の友人たちは「都心にこん
なに大きくて 美しい公園があるの
はいいね」 と羨ましがっている。
花木園では
酔芙蓉(すいふよう)を 観察
朝、真っ白に咲いた八重の花が、昼
にはピンクに、夕方には紅色へと代
わっていく。
まるで白い花がお酒に酔って、ピン
クに染まっていくような感じがする不
思議な花。
次は 隅田川めぐりへ進む
話題の卑弥呼は 残念ながら休航日(10/12,13) でした。 船は浜離宮から直接に浅草
へ向かうのではなく、一度、日の出桟橋へ寄った後、浅草へ行くという。
友人達には思いかけないプレゼ
ントになった。
船からフジTV、レインボウブリッジ等
見ることができた。
築地市場の建物が 川側へも
開かれているのを見て、市場
へは物資が 海からも運び込
まれていたのが分かった。
中央大橋の上流側に
メッセンジャーの像があること
を紹介した。(船が浅草へ向
かっているので 像の存在を
知らない人には 気づき難い)
浅草・吾妻橋で無事下船。
東京スカイツリーの大きさに感激。
又の再会を約束して解散。
地下鉄・築地駅集合 ⇒ 岩佐寿司 ⇒ 浜離宮散策 ⇒ 日の出桟橋経由で浅草へ
約6時間のご案内でした。
[下町トム]
2010年10月18日 07:38
中央区は水辺の多い土地です。海や川に面している場所も多いですが、水運のための運河も多かったことは有名です。
今では埋め立てられてしまった川や運河も多いのですが、新川近辺には、亀島川や日本橋川がかつての雰囲気を残してくれています。
〔写真は、新川付近今の姿。右の写真は佃リバーシティーを望む〕
この辺りは、明治期くらいまでは、酒や醤油の水揚げの舟が行き交ったといいます。東京の商業の物流を支えた運河も、今は水面に新しい町の姿を映して、静かにたゆたうかのようです。
時には下町水辺散歩もいかがでしょうか。
[ゆりかもめ]
2010年10月 8日 08:30
スカイツリーが478メートルになり中央区から見ても存在感があり隅田川があるお陰でビルに邪魔されず、しっかり見る事ができるのは中央大橋からです。
永代橋の真中にスカイツリーを入れて撮りました。
帰り道・・・・・
中央大橋の上から眺めると冬鳥が数多く遊んでいました。
そろそろ日本に渡ってきた早いグループなのでしょうね・・・・・
薄くピンクに見える水面は少しだけ夕日があたっていました。
パリ広場の辺りで水上バスを見つけました。
この日の最後の御客様を水上バスから下し、任務を終えての帰り道のようです。
同じ場所を曳船が通りました。
台船を引っ張っていたのですが、、同時に写す事はできませんでした。
この曳船は晴海埠頭に大きな船が着く時、船を横や後から押したりして岸壁に着ける為に大活躍しています。
回りがゴムで囲まれているのは何処にぶっつけても良いようにだと思います。
[サム]
2010年10月 5日 13:00
明治25年東京湾埋立第1号地として造成された現在の月島。
一帯は多くの工場や倉庫が続々と立地、併せて多くの職工・労働者用住宅も建造され、人口が急増した。西仲通りはこうした住民の食料・日用雑貨調達の商店街として、明治末に形成されたと云われる。
大正から昭和初期にかけて人口は更に増え、通りには露天商も並び賑わったと聞く。幸いにもごく一部を除き街は戦災を免れ、戦後もいち早く復興。昭和21年には個々に分かれていた商店街を統合、「月島西仲共栄会商店街」として新発足している。
昭和62年、セミモール方式の下町らしい共同施設(現在の切妻式屋根がついたアーケード、街路樹、ゲート、案内板、カラー歩車道等)が完成、現在に至る。
新装なったものの、アーケードの後ろには昔ながらの「出桁造り」「看板建築」に加え、一目で業種が分かる往時の看板の痕跡が随所に見られる。
元々駄菓子屋が子供相手に始めた「もんじゃ焼き」が今では来街者を引きつけ「もんじゃストリート」としてすっかりお馴染みの西仲通り。
周囲の環境変化と共に、アーケードの後ろの往時の看板にある業種からの業態変更、もんじゃ焼き店への転業等々を見るにつけ時代の変遷を実感。
週末ともなれば多くの来街者で賑わいますが、もんじゃ焼きだけでなく、昭和の面影が残る街並みに加え、是非上方も見上げて商店街の歩みもお楽しみください。