[kimitaku]
2012年5月16日 08:30
「有りがたや いただいて踏む 橋の霜」
「初雪や かけかかりたる 橋の上」
この二句は、俳人 松尾芭蕉が
詠んだ句です。
新大橋ができた嬉しさを、句にしたためたものです。
新大橋は 元禄6(1692)年架橋後、何度も架けかえられ、明治45(1912)年に鉄橋として架
けかえられました。
両国橋のまたの名前「大橋」に続く橋として「新大橋」の名前がつきました。
中央区の浜町と 江東区の森下方面を結び、全長 170M 幅 24Mです。
橋を渡る途中には、
由来、元の橋、歌川広重の錦絵が レリーフとなっていますが、
ゆったり流れる隅田川に、橋の色とマッチして美しく、
足を止めて碑文を詠む人も多くいらっしゃいます。
この橋のまたの名は「人助け(お助け)橋」 由来を説明しましょう。
(これからの話は多く「区内散歩6巻 川端茅舎 の項」に寄ります)
大正12(1923)年9月1日昼間際
東京は未曾有の揺れに襲われました。
>>>「土蔵の多くはまたたくまに崩れ、砂煙が巻き、目も開けられない状態でした。直後は物音もせず静寂の状態が続いたそうです。人々は不安にかられました。
近くの倉庫からの火はたちまち広がり火の粉の雨を降らせました。すぐ鎮火したものの、神田方面からの火勢は、人形町を焼き尽くしていきました。
川では津波ように真っ黒な水が押し寄せて来たそうです。
火勢が迫る午後8時、茅舎家族は蠣浜橋までくると甘酒横町は半分以上燃え上がり、多くの荷物と車で身動きが取れない状態でした。
茅舎一家は細川邸の塀を破り、庭園に出たものの火の手が回り、大橋の袂に出ました。
橋の真ん中に必死に割り込み座り込み、一昼夜を過ごしたそうです。
橋の両傍から火に攻められた人々は死に物狂いで真ん中へ押してくる、中央でさえ堪らぬほど熱い。阿鼻叫喚の様相。自分たちも死に物狂いで踏み留まる、やがて、傍らの人並みは動かなくなる。
橋の袂の人は皆焼け死んだそうです。
吹く風は熱く、橋はハンモックのように揺れ、川は濁流が轟々と流れていたそうです。」<<<
新大橋は、鉄製の床板で敷き詰められていたため、消失を免れました、当時、隅田川5橋のうち、ただひとつの鋼鉄製の橋でした。
新大橋の右岸、橋を渡る手前の左側土手下に「新大橋避難記念碑」があります。
大変大きな碑で、由来が細かく記してあります。この橋の上で多くの人が助けられ「人助け」たことと、教訓が記されています。
なお 旧新大橋の一部は
愛知県犬山市の明治村に保存されています。
記念碑を読んでいる最中に、
若い女性が、碑に向かい
深々とく手を合わせていらっしゃいました。
[杏葉牡丹]
2012年5月16日 08:30
5月1日~5日は鐵砲洲稲荷神社の例大祭。
氏子達から「鐵砲洲さん」と呼ばれて親しまれているこの神社は、今年で御鎮座1172年という、大変に歴史のある神社です。
神輿渡御の3日4日は、あいにくのお天気でしたが、
3年に1度の本祭りだった昨年から1年延期になり、
待ちに待っていただけに、氏子の皆さんは元気いっぱいでした。
お祭りに付き物の半纏は、背中に各町会や様々な会の名前が入っていて、粋なものですが、その中に「木挽町」という半纏があったのをご存知でしょうか
実は、この「木挽町」、
今は無くなってしまった町名なんです。
場所としては、銀座中央通りからちょっと東に行って、今は埋め立てられてしまった三十間堀から始まり、昭和通りを越えて、築地までの細長い地域にあたります。
現在の正式な地名は『銀座』なので、雑誌などに「銀座とは思えない下町情緒の残っている地域」とか「裏銀座」などと紹介されることがありますが、それもそのはず、江戸時代からずっと「木挽町」だったのが、1951年に「銀座東」となり、1969年に「東」がとれて『銀座』になった、違う町なんですね。
ですから、同じ『銀座』でも、ここまでは鐵砲洲稲荷神社の氏子ですが、銀座中央通りの方は、日枝神社の氏子です。
もともと「木挽町」の名前は、江戸城改築の折に木挽(木曳)職人を多く住まわせたところから付いたといわれており、江戸三座の一つ「森田座」があった場所で、今では歌舞伎座があるという、芝居には大変に縁のある、由緒ある町名です。
そうした事もあって、三丁目の町会が「木挽町」の歴史を大事にしようと作ったのが、この半纏なのです。
当初は紅殻色だったとの事ですが、いまでは年季が入って、歌舞伎に縁の深い「柿色」に見えるのも、なんとも粋なものです。
今年は工事中だったので、できませんでしたが、お祭りのハイライトの一つは、なんと言っても、歌舞伎座前への、各神輿の渡御。
特に宮元の御神輿は、立派で姿形が美しく、風格があるので、三原橋方面から歌舞伎座に向かってくる姿が見えて来ると、失礼ながら、大向こうから千両役者に声をかけるように『宮元っ!』と叫んでしまいたくなる程です。
次のお祭りの時には、新しい歌舞伎座も完成しているはずなので、きっと、雄壮な姿が見られるはず。
「木挽町」の半纏も大活躍する事でしょう。
今からとっても楽しみです!
[コージー]
2012年5月14日 15:48
明石町バス停脇にあるサクランボが今年もたわわに実っています。
写真は5月11日に撮影したものです。
中央区に桜の木は数多くありますが、食べられるほどの果実がつく木は珍しいのではないでしょうか。
しかも街路樹として植栽されている桜です。一粒食べてみると酸味が強く特においしい、というわけでもないけれど野性味を感じさせる味ではありました。
去年はちいさな子供たちがお母さんとサクランボを採っていました。都会の中の貴重な自然体験といったところでしょうか。ちなみにこの通りにはソメイヨシノだけでなく、サトザクラ、ウコンといった八重桜系の木が植えられており花の頃は通行する人たちの目を楽しませてくれます。
そういえば佃公園にもサクランボの木はあります。昭和63年に山形県東根市から贈られた桜です。東根市とはこの寄贈を縁に中央区との友好都市としてのお付き合いが始まったそうです。早速、見に行ったのですが、こちらのサクランボはまだ青く食べられるまでに時間がかかりそうです。
[銀造]
2012年5月12日 08:30
勝鬨橋西の築地6丁目にあるニチレイ東銀座ビル。
いつも通る度に、このモニュメントは何だろうと思っていました。
たまたま、メンテナンスのお仕事をなさっていた荒川さんという方に尋ねると、
これは、井上武吉という芸術家が「海と生命」をデザインした、「巻貝と種の広場」という作品だそうです。桜の木の左の月の様なデザインのモニュメントは、東京都庁でも見たことがありますね。なるほど、アンモナイトの様だなと思った銀造の感性は間違っていないなと思いました。
また、はとば公園の球体のモニュメントは、「my sky hole 」というシリーズで制作されたものだそうです。全国の公園でもご覧になれるようです。
隅田川テラスの散歩が楽しくなりますね。
[さとけん]
2012年5月 9日 08:30
大型連休も残り2日となった5日、思い立って銭湯に行ってきました。
子供の頃と学生時代に銭湯にいってましたが、久しぶりの銭湯行きでした。
最初に行ったところが、人形町にある「世界湯」です。
うっかりすると見落としてしまいそうな、周りの住宅に溶け込んだ雰囲気の佇まいです。
開店してすぐに行きましたが、既に15人位のお客さんが入っていました。
番台もあり、子供のころいっていた銭湯を思い出しました。
お決まりの富士山の絵や古い体重計、小さな日本風の庭があって、初めて行ったのに懐かしかったです。
お風呂は二つあって、一つはやや深くて中で座ることはできません。
温度は44度で、自分には熱かったです。やはり江戸ッ子は熱いのが好きなんですね。
これからの季節、風呂上がりに甘酒横丁で一杯して涼むのも一興ですね。
次はどこに行こうかな。
[ジミニー☆クリケット]
2012年5月 9日 08:30
五月晴れの休日の午後、
佃大橋の上(ちょっと佃島寄り)から
中央大橋越しに、
いよいよ5月22日に開業予定の
東京スカイツリーを
眺めていると・・・
ご存知
松本零士氏デザインによる
水上バス『ヒミコ』が、
雨で濁った隅田川の水を蹴立ててやって来ました。
まるで、
スカイツリーから来たようでした。
んな訳ないんですが・・・
ともかく、
超高層電波塔と、
おしゃれな斜張橋、
それに宇宙船の組み合わせは、
佃大橋からの眺めとして、
中央区百景に加えて
いいんじゃないでしょうか
この季節、隅田川を渡る風も気持ちよいですよ