[ゆりかもめ]
2009年5月29日 08:45
私は5月の第一報で「波除稲荷神社の枝垂れ銀杏が珍しい・・・・」と云う記事を掲載いたしましたが先日、浜離宮恩賜庭園を散歩していて ボタン園の前に大きな枝垂れ銀杏があるのを見つけました。
決して珍しい事ではなかったのです。植物を正確に見る目を持たなければならない・・・と反省して居ます。
緑に包まれた広い庭園の中には 都会の中なのに山の中に居るような雰囲気に包まれる場所があります。
今は松の「みどりつみ」が終わり 花菖蒲が美しく咲いています。
松のみどりつみ・・・新芽を摘むのですが 鋏を使わないで庭師の方が適当な長さを決めて 指先で摘んでいきます。 5月中頃から行います。
又、この庭園は国指定の「特別名勝及び特別史跡」になって居り 貴重な庭園です。
平日、9時の開園と同時に入園するとまだ来園者も少なく 静かなお庭を独り占めしている気分になります。
土日祝の9時と2時より 庭園の無料ガイドボランティアの説明があります。
中央区浜離宮庭園1-1 (03-3541-0200)
[北遊人]
2009年5月27日 09:15
中央区は南北に細長く、輪郭を眺めると洋服の型紙のようにも見えます。
この首から肩のあたりの北の街を紹介します。
東に隅田川、北に神田川、この神田川が北端であってこの川の隅田川へ流れ込む右端が中央区の最北端、現在は東日本橋2丁目になります。
神田川河口に架かっている橋が柳橋で橋向こうが台東区です。
また突端の近く隅田川側に大きな橋が架かっていますのが両国橋で、武蔵の国(こちら側)と下総の国(あちら側、現在の墨田区)の両国を結ぶ橋とのことでこの名前がついたと言われています。
橋詰西側(こちら側)はいわゆる日本橋両国で、明暦の大火後火除け地として両国広小路が設けられた所でもあります。江戸時代中期以降盛り場として大変賑わった所だそうですが、現在はビジネス街、マンション街としてビルが立ち並んでいます。
あまり人も訪れないマイナーな場所ですが、次回からゆっくり歩いてみたいと思います。
[下町トム]
2009年5月20日 20:23
初夏の香りも広がり始めた5月下旬の夕べ、築地本願寺境内で「和を尊ぶ調べ」が催されました。
オペラユニット〝LEGEND〟の5人組の皆さんが美しいハーモニーを聞かせてくれました。
和洋の名曲が境内に響き、都会の喧騒をふと忘れるひとときです。
古来より、神社仏閣は文化の発信フィールドでしたが、現代でもこうやって多くの皆さんが集うのは嬉しいものです。
中央区にはほかにも歴史ある社寺が多くありますので、たまの散策にいろいろ訪ねてみたいと思っています。
区民の幸せと発展を祈りつつ・・・・。
[ゆりかもめ]
2009年5月19日 15:14
松竹大谷図書館は昭和33年7月に開館した演劇・映画の専門図書館です。松竹株式会社が収集・所蔵してきた資料を広く一般に公開し、社会文化の発展に寄与する事を目的に設立されました。
資料の内容は演劇(歌舞伎・文楽・新派・商業演劇)、映画、日本舞踊、テレビ等に関する種々の資料を収蔵しています。約300年前の浄瑠璃正本など資料数は350,000点に及んでいます。
入館料は無料ですが閉架式の図書館ですので書庫には入れません。
この松竹大谷図書館のあるADK松竹スクエアは、公共性・市民への開放を重視して、1階エントランスホールは3階まで吹き抜け自然木で構成された階段状の床を利用してファッションショーや試写会、小コンサート等にも利用されています。イベントのない時は待ち合わせや気軽に友人同士でお喋りの場所に利用されています。そしてビルの中にはカフェ・ダイニングや人気のうどん店・台湾料理店や寿司店もあります。ビルの外は竹と松が植えられ銀座の隣にありながらビルの中は以外に静かに纏まっています。 (東京都中央区築地1-13-1)
[三日月]
2009年5月17日 21:03
5月9日と10日に、2年に一度の神田祭りがありました。
神田祭は日本三大祭りの一つであり、私の住む日本橋は神田、大手町、丸の内、秋葉原とならび神田明神の氏子町会です。氏子町会108カ町のお神輿が約200基もでるので、9日と10日は一日中お囃子やお神輿をかつぐ威勢の良いかけ声や山車をひく元気な子供達の声で、街中が活気にあふれ沢山の人がお祭りを見に来られます。
江戸の伝統を今に繋げる神幸祭巡行は装束姿の方や馬や牛が目の前をとおり、時々神主が見物客に御祓いをしてくれたりもします。
都心にいながら江戸時代にタイムトリップした気持ちになれる神田祭は、とくに歴史好きの方にお勧めです。次回は2年後ですがぜひお越しいただいてはいかがでしょうか
[巻渕彰/写楽さい]
2009年5月13日 17:16
ふとしたところに過去の面影が残っていたり、歴史を伝えていたりしているところがある。
中央区を歩きながら見つけたこれらをシリーズで紹介していきたい。それらは決して表舞台には登場しない知られざる足跡かもしれない。しかし、歴然と歴史を語っているのだった。
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第1回は「霊岸島」。現在の新川であるが、江戸からの歴史ある旧町名がなくなったのが昭和46年(1971)、住居表示制度改正のときであった。
ところが今もしっかり存在しているのだ。「霊岸島交差点」(写真:2009年5月撮影)にその名を刻んでいる。亀島川の新亀島橋を東へ向かったすぐの交差点である。
霊岸島の歴史は、江戸初期に八丁堀先の東方海上を埋め立て、雄誉霊巌上人が霊巌寺を建立したことにはじまる。霊岸橋もこれに由来するといわれ、「こんにゃく島」との里俗名もあった。明暦の大火後、霊巌寺は深川に移転するが、霊岸島の地名は、霊岸島はもとより、霊岸島塩町、霊岸島四日市町などとして継がれ、酒問屋・酒蔵が集積し、初物好きの江戸っ子連に新酒 を扱っていた。関東大震災後は区画整理で一帯が旧霊岸島の町名となり、旧越前堀・旧新川とともに親しまれた地域であった。
中央区内の交差点名称で旧地名が残っているのは珍しい。交差点名やバス停には懐かしい橋名などがつけられた場合が意外にある。
次回は、
中央区内で、今はもう存在しない橋の名を伝える交差点を取り上げてみたい。