[海舟]
2009年11月 9日 09:00
寛政5年(1793年)9月、11代将軍・家斉、前老中首座・将軍補佐・松平定信以下
幕閣が列座するなか、鎖国下、遭難・漂流のすえ10年に亘りロシアに逗留、
首都ペテルブルグにおいてエカテリーナⅡ世に謁見、かの地の国情を見聞し
奇跡的に帰国した2人の伊勢漂流民・大黒屋光太夫と磯吉は、江戸城内吹上御所にて
尋問を受けました。
様ざまな尋問の結果、南下政策をとるロシアは、日本の社会、文化、地理等
各種広範囲に渉る情報を収集していることが判明、更にロシアにおいて周知されている
日本人として桂川甫周、中川淳庵の名が挙げられます。
光太夫の口から発せられた「カツラガワホシュウ」の言葉を聞いたとき、
当の桂川家4代・甫周国端(くにあきら)の驚きと感慨はいかばかりであったでしょう。
そして今、面前に陪席、尋問している人物こそが桂川甫周その人であると分かったとき、
光太夫もまた驚きを隠せなかったでしょう。
将軍家斉に与えた感銘は深く、列席する幕閣周辺より賛辞を得ます。
その後、この訊問は引き続き場所を他所に移し詳密に実施され、幕府及び甫周に
多大な情報を提供しました。
後日(寛政6年)、この研究成果は桂川甫周『北槎聞略』に結実します。
桂川家はこれ以降も、将軍侍医(奥医師)として誠実に役割を勤めると共に
市井にあっては自由闊達で温厚な家風の下、徳川幕府崩壊まで、江戸蘭学の宗家として
オランダ流外科の学風を守り、江戸蘭学界において大きな役割を果たしました。
参考図書 : 戸沢行夫 『江戸がのぞいた<西洋>』 教育出版
山下恒夫 『大黒屋光太夫』 岩波書店
[巻渕彰/写楽さい]
2009年11月 6日 12:00
前回に続き、「京橋」の話。京橋は江戸初期、日本橋と同じころの創架といわれている。京の都へ向かう橋だから「京橋」と名付けられそうだ。日本橋や京橋は幕府直轄の御公儀橋として擬宝珠が施されていたのが特徴である。
現在、南北両橋詰に中央区民文化財である、明治8年(1875)に建造した京橋の親柱が残っている。橋名揮毫は明治期の詩人・漢学者佐々木支陰〔南・北町奉行などを歴任した佐々木顯発(あきのぶ)長男。ちなみに人形町甘酒横丁にある菓子舗とご関係があるらしい〕。
南詰西側(銀座一丁目交番脇)の親柱には「きやうはし」と彫られ、「きやう」は「きょう」の旧仮名遣いであることは、判別できる。現代表記でないのが古き時代を語っている。
一方、北詰東側(警察博物館前)に残る漢字の親柱とその脇にある昭和13年(1938)設置の来歴銘板をよく見ると、「亰(=京の異体字、下記注参照)橋」と刻まれている(写真)。お気付きのように、「亰」は「京」の「口」部の中に「一」が入っている。つまり「口」でなく「曰」になっている異体字である(図参照)。
〔注〕最近のパソコンでは、「京」は口でない異体字の曰の字=「亰」もフォント処理できるが、Webサイトなど機種によっては異体字が扱えない場合がある。
明治前期には「東京」の「京」を「口」でなく「曰」とする異体字の「亰」と表していたことがあった。これを「トウケイ」と発音し、この時期を「東亰=トウケイ時代」と呼ばれた。江戸時代や旧幕に対する追慕から、「京=キョウ」という上方風を嫌い、「京=ケイ」つまり「トウケイ」と読み、さらに「京」でなく異体字の「亰」を使った人々が多くいたといわれ、当時の文学や随筆などにもよく見られる。
「京」の読み方は、「キョウ(キャウ)」と読むのは呉音、「ケイ」は漢音、「キン」は唐音。「京浜=ケイヒン」などは漢音の読みであり、「北京=ペキン」は唐音である。よって「東亰(京は口でなく曰)=トウケイ」と漢音の呼び方がされた。もう死語になってしまったのだろうか。