[下町トム]
2010年12月20日 09:00
中央区の名物であり、隅田川最下流の橋としても有名な〔勝鬨橋〕は、周りの景色を楽しむのにも絶好の場所であり、ぼくのお気に入りのスポットでもあります。
築地市場を背景に川を行く船をのんびりと眺めるもよし、上流の高層マンション群が織り成す風景に親しむもよし、です。
橋のたもとには2種類の説明板がありました。勝鬨橋が1940年(昭和15年)に完成し、1970年(昭和45年)11月29日を最後に開閉しなくなるまでの歴史を偲ぶ事ができます。
また、築地方面に下ったところには〝かちときのわたし〟と記された記念碑が建っています。かつて橋ができるまではここに渡しがあったんですね。
その上流には〝月島の渡し〟や〝佃の渡し〟などもあったということですから、かつては、隅田川を行き交う舟のざわめきが周りにこだましていたんでしょうか。
「かちどき橋の資料館」もすぐ傍にあります。毎週、火曜日、木曜日、金曜日、土曜日、9;30~16:30 (12月1日~2月29日は、9:00~16:00、ただし、12月29日~1月3日は休館)
勝鬨橋に関する資料が展示・公開されていますので、是非一度のぞいて見て下さい。
それから、特筆したいのは、橋から見る〔東京タワー〕の姿です。いまやスカイツリーが評判ですが、やはり東京の顔としての東京タワーの存在は揺るぎません。
勝鬨橋からは築地市場の奥にしっかりとそびえるタワーを眺めることができます。ぼくの好きな風景一つです。
[巻渕彰/写楽さい]
2010年12月17日 08:45
『東海道四谷怪談』で知られる"お岩さん"の伝承を受け継ぐのが新川にある田宮於岩稲荷神社(写真上左右)である。もともとは怪談とか怨霊とかでお岩稲荷が祀られたのではなかった。
同社の由来によると四谷左門町に住む田宮家のお岩と伊左衛門夫婦は薄給で苦しい生活を送っていた。そのため奉公に出たり、日ごろから屋敷社を信仰したおかげで蓄財も増えたという。お岩は寛永13年(1636)、36歳で亡くなった。そこで「お岩稲荷」の祠を造って人々に参詣が出来るようにした。享保2年(1717)「お岩稲荷」を勧進し「於岩稲荷社」となった。それからは「四谷稲荷」「左門町稲荷」とも呼ばれ、開運や災難除けとして江戸の人気を得るようになったそうだ。
お岩死去から189年後の文政8年(1825)になって、4世鶴屋南北作『東海道四谷怪談』が中村座で初演された。配役は「岩」に3代目尾上菊五郎、「伊右衛門」を7代目市川団十郎が演じたという。実はこの作品のもとになったのは、『四谷雑談集』に載っていたものであったそうだ。元禄時代に起こった事件の噂話などを怪談として創作されたものであるといわれている。
作者の4世鶴屋南北は宝暦5年(1755)日本橋新乗物町(現日本橋堀留)で生まれた。父は紺屋の型付職人であったが狂言作家としての道を選び、文化8年(1811)に4世を襲名した。『東海道四谷怪談』をはじめ傑作を残したので、「大南北」と称された。文政12年(1829)深川の黒船稲荷地内の居宅で死去した。享年75歳。現在江東区牡丹の同稲荷社には説明板が設置されている(写真下右)。
新川の田宮於岩稲荷神社は、役者の市川左団次から「四谷は遠すぎるので、新富座のそばに移転してほしい」と要望があり、四谷左門町の社殿が明治12年(1879)火災で焼失したのを機会に現在地に移転した。境内の石造鳥居は明治30年(1897)造立のもの、また百度石は区内現存最古のもので、ともに中央区区民文化財に指定されている。四谷の於岩稲荷神社(写真下左)とは同体の神社で、現在、新川と四谷の2つの於岩稲荷がある。
[サム]
2010年12月16日 10:53
今や師走恒例のイベントとなった「ベートーベン第九コンサート」。
12月12日17:00より、晴海トリトンスクエアのロビーにて「中央区第九の会 晴海トリトンスクエア公演」が開催された。
「毎年12月に晴海トリトンで第九演奏を!」を合言葉に、今年で第4回目を迎える演奏会。
今年は第1部は信長貴富編曲「ヴィヴァルディが見た日本の四季」が、第2部は「ベートーベン交響曲第9番<合唱付>歓喜の歌」が、「中央区第九の会合唱団」150名と中央区交響楽団により美しいハーモニーで奏でられた。
[北遊人]
2010年12月 3日 11:15
隅田川沿い(浜町河岸通り)の土手に遊歩道が整備され、期を同じく東日本橋一丁目の日本橋中学校の校庭の中にありました昭和天皇臨幸記念碑が通り側に移されました。
角に案内板が新しくできました。
説明板を拡大してみます。
道路沿いに廻ってみますと、立派な記念碑が設置されています。
後ろが日本橋中学の校舎です。
新しい説明板を拡大してみます。
説明板には現代語訳と但し書きが付いてます。
昭和の初めに建てられたものですがもう現代人には読めないのでしょうか。
鳥は鳳凰ですね。
題字揮毫は鈴木貫太郎とあります。
臨幸の時期は、昭和5年、目的は関東大震災の復興状況をご覧になられた。
その時通られた道が現在の"御幸通り"ということです。
浜町河岸通りを越えるブリッジがすぐ傍にあり、隅田川テラスへ出るのにとても便利です。
ブリッジの上からスカイツリーを撮ってみました。
正面を横切っているのは向島線、左下から伸びているのは両国橋です。
[O傘]
2010年12月 3日 11:15
中央区の北西の端をJRがわずかにかすって通っています。そのガードの一つにレトロな雰囲気を残している居酒屋横丁「今川小路」(いまがわこうじ)があります。
中央区の端を通りぬけるJR線には、3つのガード(架道橋)があります。
南側から順に、
大きな外堀通りを通す「龍閑橋(りゅうかんばし)架道橋」、
「本銀橋(ほんしろがねばし)架道橋」、
そして今川小路のある「白幡橋(しらはたばし)架道橋」です。
今川小路には、車が通りにくい狭い道の両側に、昔ながらの小さな居酒屋さんが軒を並べます。
神田、有楽町、新橋などのJR駅付近のガード下は、ご承知のようにレストランや居酒屋さんなどが多く見受けられますが、
中央区内のガード下の飲食店としては、この今川小路が唯一です。
実はこの今川小路のお店ですが、
南側が中央区本石町で、
北側は千代田区鍛冶町(神田)
に所属し、中央の道路が区境になっています。
上の地図ですと、ちょうど日本橋本石町の北端(区境)と交差しているJRのガード下に「今川小路」があります。
この道路は、中央通りや昭和通りを突っ切って、昔の距離の単位で八丁(町)(約870m)ほど、ほぼ直線的に浜町方面(北東)に伸びています。
また、この道路は、江戸時代の日本橋川と浜町川を結んでいた龍閑川(江戸時代の名称は「神田堀」)といわれた川を埋め立ててできた道路です。【参考】
龍閑川は、昭和22年まで当時の「日本橋区」と「神田区」の区境川(くざかいがわ)でした。その後、昭和25年に龍閑川を埋め立てられてできた道路(龍閑新道)が、中央区と千代田区の区境道路になりました。
この付近のJRガードの名称にも、龍閑川の橋名や当時の町名が使われています。
この白旗橋ガード下の今川小路には、
昭和26年頃から居酒屋さんなどが並び始め、
最盛期には30軒ほどの小さな居酒屋さんが集まったそうです。
白幡橋ガードの大きさは、幅が約10m、長さが約50mで、
ここに居酒屋さんがひしめき合っていたそうですが、
最近、東北縦貫線の工事のため、今川小路の東側半分の約20mには残念ながら店舗がなくなってしまいました。
それでも今川小路の西半分には、中央区側に「神田(じんた)」、「まりせ」、「里(さと)」、「耕(たがやす)」、「があどした」の居酒屋さんが、
そして千代田区側に「大松(だいまつ)」、「柳水(りゅうすい)」などの居酒屋さんが健在で、昭和30年頃のレトロな雰囲気でお店を続けています。
その中の、中央区側の一番東側に位置する居酒屋さん「神田」(じんた・・と読む)に入りますと、8人も座ると満席になるL字型のカウンターがあり、常連さんが手作りの料理に舌鼓を打ちながら 人気の焼酎の緑茶割りを飲みつつ、ママさん相手に話に花が咲いていました。
通信カラオケもあり、古い歌から新しい歌まで幅広く歌われているそうです。最近は勤め帰りの若い人も増えているとか。
また、この今川小路は、昭和30年頃の時代設定で、夜の巷(ちまた)の居酒屋横丁のシーンの映画撮影によく使われるそうです。
居酒屋「神田」には、俳優の「根津甚八(ねず じんぱち)」さん、「村田雄浩(むらた たけひろ)」さん、そしてママさんのスリー・ショットの写真が飾ってありました。今川小路でのロケのときに寄ってくれたんだそうです。
中央区で唯一つのガード下の居酒屋横丁「今川小路」、レトロな雰囲気を今に伝える「今川小路」に足を運んでみてはいかがでしょうか・・・、中央区にもこんなところがありました。
【参考】 龍閑川と橋
龍閑川は、江戸時代(天和年間とも元禄4年(1691年)ともいわれますが)に掘られたそうで、当時は「神田堀」(別名:銀(しろがね)堀、神田八丁堀、火除(ひよけ)堀)といわれました。
十返舎一九(じゅっぺんしゃ いっく)の傑作「東海道中膝栗毛(ひざくりげ)」の弥次さん・喜多さんは、この神田八丁堀に住んでいた想定になっています。
この堀は幕末の安政4年(1857年)に一度埋め立てられ、明治16年(1883年)に再び掘られて川の名前を「龍閑川」としました。
龍閑川の名前の由来は、神田堀時代の日本橋川の出口にあった「龍閑橋」が明治16年の再掘まで捨てられずに残っていて、その名に因んだようです。龍閑の名前は、お城の接待役坊主の「井上龍閑」が近くに住んでいたからと言われています。
龍閑川は、その後次第に水質が悪化して下水化したため、昭和25年に川底におおきな下水管を埋設してそこを流すようにして、川は埋め立てられて道路(龍閑新道)になり、今日に至っています。
龍閑川の埋め立てについては、龍閑新道を今川小路から東に進み、昭和通りに出るところに区立地蔵橋公園があり、そこに埋め立ての経緯を記した碑があります。
龍閑川の橋ですが、武揚堂で出版した「地図物語 あの日の日本橋」によれば、明治40年頃の龍閑川には、日本橋川との合流点から浜町川の合流点に向かって順に、①「龍閑橋」、②「白幡橋」(乞食橋)、③「西仲之橋」(主水(もんど)橋)、④「今川橋」、⑤「東仲之橋」、⑥「地蔵橋」、⑦「火除(ひよけ)橋」(待合橋)、⑧「九道(くどう)橋」、⑨「甚兵衛(じんべい)橋」、⑩「竹森橋または玉出(たまで)橋」(幽霊橋)の10の橋が架けられていたそうです。
なお、()内の名称は、その橋の江戸時代の呼び名で江戸切絵図(嘉永3、近江屋五平板)などに載っています。
その中の「今川橋」ですが、江戸時代に地元の名主「今川善右衛門」から名付けられた橋と言われ、
日本橋から中山道を歩いて最初の橋が今川橋でした。
「熈代勝覧」(きだいしょうらん)や「江戸名所図絵」に描かれていて、
今川橋の付近には瀬戸物屋が多かったようです。(上の写真は、ちくま学芸文庫「新訂 江戸名所図会」より)
現在は、今川橋の跡に碑が立っています。
また、「大判焼き」や「回転焼き」などともいわれる、例の「今川焼き」ですが、
この橋のそばで焼き菓子を売っていたところ「今川焼き」の名がついたとも言われています。
大正15年(1926年)に架けられたコンクリート製の「龍閑橋」が、今川小路の道路が外堀通りに出るところに保存されています。
日本橋川の龍閑川の入り口と思われる川岸に、埋設された下水道の水門を見ることができます。