[滅紫]
2011年11月 4日 08:30
旧暦十月の最初の亥の日を祝う「玄猪」、今年は10月9日今の暦で11月4日が亥の日に当たります。
「十月亥の日に餅を食べると病気にならない」という中国の俗信が平安時代に貴族の間に広まりました。丁度稲刈りの時期でもあったため、次第に収穫祭の意味合いが強くなり農村部にも広まり西日本各地での「亥の子祭り」「亥の子搗き」、東日本での「十日夜」(とおかんや)となったと言われています。源氏物語」(葵の帖)に「その夜さり、いのこもちまいらせたり」とあるのが初出のようです。
この宮中行事の流れを汲むものとして江戸時代には五節句や嘉祥などとならぶ登城日の一つとして「玄猪御祝儀」がありました。斉藤月岑の「東都歳事記」には「玄猪御祝儀、諸侯申中刻(午後4時ごろ)御登城。大手門ならびに桜田御門にて御篝を焚かせらるる。貴賎、餅を製し時食とす。(武家にては公の例にならひて白赤の餅を家臣にたまはるなり」との記述が見られます。篝火の焚かれる中を衣服を改めた大名や旗本たちが総登城して亥の子餅をいただくというのも想像するとなんだか可笑しいですね。
また、イノシシは「火を防ぐ動物」と考えられ、この日に火を入れると火災にあわないとされていたことからこの日から囲炉裏や掘りごたつを開きました。「茶の湯」でも風炉から炉に切り替える炉開きをし、流派によって異なりますがその時のお菓子は「亥の子餅」を用います。
「とらや」さんでは11月1日から1ヶ月季節限定で亥の子餅が店頭に並びます。
「とらや」さんは室町後期の天正14年京都での創業で当初より御所御用を勤めていた説明の要のない老舗ですが、東京へは1869年東京遷都に伴い進出。1879年に銀座に開設。お邪魔した日本橋店は1946年喫茶「みかく」として開店。1948年から銀座につぐ直営の「日本橋店」として営業されています。「亥の子餅」は黄粉、胡麻、干し柿を混ぜた生地であんを包みイノシシの子どもに見立てた素朴な姿で鎌倉時代の文献にある製法を参考に平成11年から作っていらっしゃるそうです。
炉開きに使用する菊の葉、塩、切り火です。年に一回だけのちょっと厳粛な気分になる「炉開き」セレモニー。
これから6ヶ月間お世話になる「炉」に感謝しながら、とらやさんの亥の子餅を皆でいただきました。
とらや日本橋店:中央区日本橋1-2-6TEL3271-8856
平日:09:00~19:00、(土祝は18時まで)
亥の子餅は1個420円、生菓子は予約をおすすめします。
[巻渕彰/写楽さい]
2011年11月 3日 08:30
10月28日の目黒不動龍泉寺縁日は「甘藷まつり」で賑わう。江戸中期の儒者・蘭学者で、「甘藷先生」こと青木昆陽はここに葬られている。命日は10月12日(旧暦)だが、戦後、縁日に合わせて「甘藷まつり」が開かれるようになったという。日本橋に生まれ、八丁堀の与力屋敷で開塾した。サツマイモ栽培の普及で飢饉を救い、さらには蘭学の祖ともいわれる、中央区ゆかりの人物である。
青木昆陽は元禄11年(1698)、江戸日本橋小田原町の魚問屋に生まれた。通称文蔵、昆陽は号。京都で儒者・伊藤東涯に学び、江戸に戻って、八丁堀の町奉行所与力・加藤枝直(かとう・えなお)屋敷内で塾を開く。当時、与力の拝領屋敷は200-300坪あり、その一部を商人には貸せないが、医者や儒者には貸すことができたそうだ。この地で父と母の死にあい、それぞれ3年ずつ服喪した。この間の様子を、目黒不動境内に建てられた「昆陽青木先生之碑」(写真上左)には「・・・其の喪に居るに自ら酒肉を禁じ、且夕粥を食う・・・」と伝えている。ひたすら親の恩に感謝する過ごし方を見た加藤枝直が、昆陽を町奉行・大岡忠相に推挙したという。
昆陽は『蕃藷考(ばんしょこう)』を著し、甘藷が救荒作物に適していることを説いた。この書が8代将軍吉宗に呈上されて、幕府施策としてサツマイモ栽培が認めれるようになった。享保20年(1735)に小石川御薬園・養生所のほか、与力給地である下総馬加村(しもうさまくわりむら=現・千葉市花見川区幕張)と上総不動堂村(現・千葉県山武郡九十九里町)の試作地で栽培された。現在、幕張の地(「京成幕張駅」近く)には「青木昆陽甘藷試作地」(写真下左)と「顕彰」の碑があり、千葉市教育委員会設置の説明板に「・・・現在地(幕張)のみが成功し、(中略)幕張における甘藷栽培は次第に増え、天明の大飢饉にも甘藷のおかげで餓死者は皆無であった・・・」と記してある。道路を挟んだ反対側には「昆陽神社」(写真下右)があって、「芋神さま」として祀られている。
吉宗は西洋学問の導入に熱心で、昆陽にはオランダ語を学ばせた。長崎屋でオランダ商館長にも面会して、著作をまとめる。前野良沢は昆陽からオランダ語の手解きを受けていたという。その結実は『解体新書』の刊行につながっていった。わが国の蘭学研究は昆陽にはじまるともいわれる。元文4年(1747)には評定所儒者になったのち、木挽町4丁目(現・歌舞伎座右斜め前付近)に屋敷を拝領した。明和6年(1769)72歳で生涯を閉じ、目黒不動龍泉寺に墓(国指定史跡=写真上右)がある。●巻渕彰