[滅紫]
2011年12月16日 10:00
師走は歌舞伎の「忠臣蔵」物の季節。「忠臣蔵」のSTORYほど長らく日本人に愛され語り継がれてきたものはないだろう。
「仮名手本忠臣蔵」は寛延元年(1748年)人形浄瑠璃、少し遅れての歌舞伎での上演以来「独参湯」(気付薬)と呼ばれ最もよく知られた歌舞伎狂言である。この12月も京都南座「仙石屋敷」、平成中村座は忠臣蔵外伝のひとつ「松浦の太鼓」が上演中、そして私は12月14日討入の日に国立で「元禄忠臣蔵」三部を観る事になった。(勿論、元禄15年(1702年)12月14日は旧暦ですが)。真山青果の「元禄忠臣蔵」全10作は「仮名手本忠臣蔵」の大ヒット以来数多生まれた忠臣蔵ものの中でも、綿密な時代考証でほぼ史実に忠実な作品としてまた息詰まるような名セリフの応酬で名作としての評価が高い。
今日の演目は「江戸城の刃傷」「御浜御殿綱豊卿」「大石最後の一日」の三部。このうち「御浜御殿綱豊卿」は中村吉右衛門さんの綱豊と又五郎さんの富森助右衛門、梅玉さんの新井勘解由、お喜世の方、芝雀、御祐筆江島、魁春さんです。
この舞台となった「御浜御殿」は現在の浜離宮で、浜離宮はこのブログでもよく採り上げられているのであらためて紹介するまでもありませんが、甲府藩主松平綱重が兄の四代将軍家綱から拝領して海を埋め立てて下屋敷とし、綱重の子の綱豊が六代将軍家宣となって「浜御殿」と呼ばれ将軍家別邸となりました。舞台は甲府宰相綱豊が下屋敷として使っていた頃です。
第一幕は「松の茶屋」今年復元されたばかり。芝居の中で「御台所は中ノ島の茶屋にいる」とのセリフもあるが両茶屋の成立年代は11代家斉の頃と云われている。
この綱豊が後の六代将軍家宣となり、愛妾お喜世の方が側室月光院、家宣の死後息子が七代将軍家継、ご祐筆江島が大奥大年寄江島となり12年後あの「江島生島」事件(1714年)が起きることになる。
この事件の原因となった江島たち大奥女中を山村座に招待したのが一石橋の名前の由来となった片方の「五斗」御用呉服商の後藤縫殿助、事件が起きた日は家宣の祥月命日の1月12日、幕府の沙汰が出たのは3月5日で木挽町にあった山村座は廃座、呉服商の後藤縫殿助は閉門。この後藤縫殿助の屋敷があったのが一石橋南側の江戸呉服町、但し、呉服商の後藤家は幕末頃まで続いていたらしい。
「江島生島」は幕府をはばかり江戸時代には歌舞伎には採り上げられず、明治期になって長谷川時雨の舞踊劇、昭和に入り、舟橋聖一作の小説を歌舞伎化した「絵島生島」が知られている。(余り上演されないので見たことがありませんので詳細不明)TVドラマ化されているのをご覧になった方も多いかも知れません。
国立劇場は今月上演中の「元禄忠臣蔵」に登場する場所を「ゆかりの地」として古地図をプレゼントしています。なかなかいいアイデアですね。
[ジミニー☆クリケット]
2011年12月 4日 14:48
吉良邸討ち入り 葛飾北斎画
今年も気がつくと、はや師走。今から300年以上前の12月14日(旧暦)の深夜、赤穂義士が吉良邸(墨田区両国3丁目)に討ち入りました。
中央区に残る赤穂義士にゆかりの史跡に、浅野内匠頭邸(明石町12先)があります。
ここは、赤穂藩主・浅野内匠頭長矩の江戸本邸跡です。
この赤穂浅野家鉄砲洲上屋敷図は、2007年、浅野家の子孫宅で見つかりました。
面積は、8,974坪8合(29,600平方メートル余り)で、赤穂城(兵庫県赤穂市)とほぼ同じ建物配置が見られるそうです。
「江戸城下変遷絵図集-御府内沿革圖書-」では、
元禄年中之形(1688~1704年)
享保年中之形(1716~1736年)
となっており、藩がとりつぶされた後、上屋敷があったところも分割された様子がわかります。
ただし、この上屋敷の裏門は、泉岳寺(港区高輪2丁目)にある赤穂義士の墓所の門として移築されています。
私が泉岳寺に行ったのは11月26日でしたが、赤穂義士の墓所には参拝に訪れる人が途切れず、義士一人一人のお墓にお線香を上げていました。
*なお、赤穂浅野家鉄砲洲上屋敷図の画像の掲載につきましては、収蔵者である、たつの市立龍野歴史文化資料館様の了解をいただきました。ありがとうございました。
[巻渕彰/写楽さい]
2011年12月 1日 08:30
幕末に漢方の名医で、14代将軍家茂の侍医も務めた、尾台榕堂〔おだい・ようどう=寛政11年(1799)-明治3年(1870)〕。出生地である新潟県十日町市の榕堂没後140年(2010)記念事業実行委員会によって、このほど住居跡付近の京橋1丁目に記念碑が建立された。
榕堂は越後国魚沼郡中条村(現・新潟県十日町市中条)の医師小杉家の四男として生まれた。文化11年(1814)、16歳で江戸に出て医師の尾台浅嶽に学んだほか、儒学を亀田綾瀬(鵬斎の嫡男)に師事する。その後、文政7年(1824)郷里に帰り、開業した。しかし天保5年(1834)に江戸大火で師の浅嶽が亡くなり、尾台家再興のために家督を引き継ぎ、通称尾台良作を襲名する。研究心旺盛に多数の医学書を著して、なかでも安政3年(1856)に出版した『類聚方広義(るいじょうほうこうぎ)』は漢方医学で高い評価を得ているという。
文久元年(1861)に幕府から侍医として要請を受け、このとき次の3条件、「今までどおり庶民の診療もできること」「いつも江戸城にいるのではなく、用事のあるときだけ登城すること」「剃髪はしないこと」を出す。この要求が認められたことで侍医を受諾し、将軍徳川家茂から単独謁見の栄誉を受けたそうだ。
榕堂が開業していた場所は、当時の北槇町(きたまきちょう)で、現在の京橋1丁目、八重洲通りの南側で柳通りに面した付近とされている。この地に、患者を診療している榕堂とその脇の薬研で調剤している女性が穏やかに彫像された「尾台榕堂之碑」が建てられた(写真上)。当時は近くの上槇町に住んだ浅田宗伯とともに江戸で名医の双璧と称され、その人柄は名声におもねることなく、人間愛にあふれ、貧しい人であっても親切に尽くして、つねに仁をもって治療に当たったという。
慶応3年(1867)、家督を師浅嶽の実子良卿(武雄)に返して巣鴨へ移住し、明治3年(1870)72歳で生涯を閉じた。墓は谷中の観音寺にあり、墓石脇には榕堂の事績を詳しく伝えた墓碑が添えられている(写真下)。●巻渕彰