[巻渕彰/写楽さい]
2012年1月10日 08:30
新しい年も松の内を過ぎた。江戸期、武家の正月行事には嗜好が凝らされていた。現在の兜町、かつてここに上屋敷を構えた九鬼家では大きな松飾りを立て、それに呪文を書いた札を正月七日間にわたり、徐々に大きくしていって下げた。最終日にはこの札を取るとその年は運を招くということで、人々は争って取りあう。「九鬼家の札切り(ふだぎり)」といわれた、江戸名物の正月行事があった。
九鬼家は丹波国(京都)綾部藩19500石の領主、九鬼式部少輔家。幕末期には約2900坪の上屋敷は楓(もみじ)川の東側で新場橋、新場河岸辺りにあった。現在の首都高速道沿いで中央警察署、坂本町公園付近一帯、いま大原稲荷神社が祀られている。永代通りの千代田橋跡も近い(写真=屋敷跡付近現況)。
京橋図書館『郷土室だより』第42号(昭和59.1.15発行、「八町堀襍記 二」、安藤菊二著)に、その模様が掲載されているので紹介してみたい。(注:原文を意訳・要約)
大名家の松飾りはいずれも大きく立派だったが、九鬼家のは特に堅固で、柱は8寸(約24cm)角で注連縄、海老や橙が飾られ、注連縄の中央に札が下げられる。札の裏には晴明九字(急々如律令 「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」)が書かれていた。元日は長さ1尺5寸(約45cm)、幅3寸(約9cm)くらいのものが、日々大きくなり、七日には長さ2尺(約60cm)、幅4、5寸(約15cm)くらいになった。門松の周りには6尺(約1.8m)棒を持った立ち番がいた。
七日の夕七ツ時(午後4時)になると、棒突きは門内に入り、大門を閉める。札を切ろうとする者は30-50人で組を作り、そういう組が3、4組も集まる。大門が閉まるのを合図に、注連縄の下へいっせいに駆けていき、札に飛びつく。高さが8、9尺(約2.7m)くらいあり、ようやく飛びつくと仲間も取り付いて一緒にぐるぐる回るので縄がねじれ切れる。各組は邪魔したり、防御したり、と激しい争奪戦を繰り広げる。
ついに札を取った組は、ねじ切った者を胴上げして、この周辺5、6丁をヨッショイ、ヨッショイと掛け声を出し、手を打ち、大声をあげて祝いながら巡る。札を切り取った家では、持ち船や神棚に飾り、その年は運が良いとして、友人を集めて祝宴を催す。
九鬼家の札切りは何百人も集まった名物だったという。諸藩大名家の正月飾りにはそれぞれ特色があった。佐竹家の人飾りは、松を立てず、門の左右に人を多く並べて置く。鍋島家は松飾りの上に藁で鼓の胴を作って飾る。南部家では橙、野老(ところ)、神馬藁(ほんだわら)、昆布に添えて、塩鯛を飾った。
今年は、明治145年。大名屋敷はなくなったが、正月行事や伝統の一部は受け継がれていく。●巻渕彰
[サム]
2012年1月10日 08:30
1月7日は「七草」。
6日年越し、7日正月を祝う地方もある通り、正月行事の一つの節目にあたり、この日の朝に、無病息災を願い、春の七草(せり・なずな・ごぎょう・はこべら・ほとけのざ・すずな・すずしろ)を入れた七草粥を食する行事。
ここ築地波除稲荷神社では、午前11時より祭典が行なわれ、その後境内にて約100名分の七草粥が無料で振舞われた。(別途新春お神酒も・・・)
古来中国では正月7日(人日)に羹(吸い物)にした7種の菜を食べ邪気を祓う風習があり、我国でも、平安期には正月最初の子の日に野に出て若菜を摘む古俗があり、正月15日(小正月)に七種粥といって7種の穀物で作った粥を供御する風習と結びつき、七草粥となったのであろうと云われている。さらに江戸時代に「人日の節句」(七草の節句)として五節句のひとつとして定着していったとされる。
正月の馳走に疲れた胃腸を労り、青菜の不足しがちな冬場の栄養補給の一面も見逃せず、古からの知恵をも感じさせる行事。
[銀造]
2012年1月 5日 08:30
1月4日は、日本橋三越から七福神詣でと決めていて、実際に正月に詣でるのは初めて。
さて、どんな風に詣でるかと言えば、まず日本橋三越本店の室町口で、受付に並んで
「七福神めぐり」の地図と参拝の証明を受ける用紙を貰いましょう。
<椙森神社で印を貰い、山本海苔店と日本橋三越屋上で記念品が頂けるのでした>
なに道順が分からない? コースには三越さん他のスタッフが立って、親切に案内してくれます。
まずは、強運厄除けの神様を祀る小網神社に詣でました。福禄寿、弁財天が祀られています。
そして、コース順に、茶の木神社、水天宮、松島神社、末廣神社、笠間稲荷神社、椙森神社、寶田恵比寿神社と詣でました。
水天宮様では、ご本殿にもお参りし、孫娘の安産を祈願しました。 そして、プレゼント!
三越さんからの絵馬手拭。 山本海苔店さんからの干支皿。 こいつは春から縁起が良いや!
三越さん、山本海苔店さん、道案内のスタッフの方々有難うございました。
読者皆様のご多幸を祈念申し上げます。 銀造、こと 二川昌弘