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松山省三 1911カフェーの嚆矢『プランタン』開店

[与太朗] 2012年1月31日 08:30

 ♪一杯のコーヒーから夢の花咲くこともある・・・ (藤浦洸詞)

 

IMG_0535.JPG 百科事典によれば、コーヒーは江戸時代、長崎に来るオランダ人が持ち込んでいたが、日本人には受けなかったようですね。長崎勤務をしていた大田南畝(蜀山人)は、「焦げ゛くさくして味ふるに堪へず」と書き残しています。また、かのシーボルトは「熱い茶を飲み、交際好きな日本人がコーヒーに親しまないのは不思議だ」と記しているそうです。それが明治以降、喫茶店・カフェーが開業、だんだんと飲まれるようになり、統計では、今や日本人一人一週間に10杯以上、世界で第3位の消費量だそうです。


 明治44年春3月、カフェーと銘打った最初の店「カフェー・プランタン」が京橋区日吉町20番地(現在の銀座8-6)に開店します。東京美術学校で黒田清輝や岡田三郎助らに学んだ洋画家松山省三(1884-1970)が、友人の画家平岡権八郎(1883-1943、竹川町の料亭花月楼の養子)と共同で、ヨーロッパのカフェーを手本に開業、「プランタン」(春の意)の名付け親は小山内薫、経営のために維持会員を募り(会費50銭)二階を会員に供しましたが、その会員には、二人が師事した黒田清輝・岡田三郎助・和田英作などの画家、森鴎外・永井荷風・高村光太郎・北原白秋・長谷川時雨・谷崎潤一郎などの文人、市村羽左衛門・市川左団次・市川猿之助・伊井蓉峰などの舞台人等々、錚々たる面々がそろい、一大文化サロンとなりました。

 カフェーと名乗るのが初めてなら、手回しの蓄音機を置き、クラシックやダンスなどの洋楽をかける店も初めてでした。入口には葡萄棚、室内には松山省三が描いた大きな油絵がかけられたほか、白漆喰で塗られた壁に来客の即興、似顔絵などの落書きが描かれ、パリのカフェーに似た雰囲気をつくっていました。メニューの方は、コーヒーよりもむしろ洋食・洋酒が主役で、名物はホットサンドウィッチとマカロニで、酒は品ぞろえが豊富、当時日本では馴染みの少ない洋酒も用意されました。

 これだけ著名人が集まるといろいろな逸話も残されています。鴎外の娘森茉莉は「白い帽子のお化けのような幼女」のころ、「黒マントの男」(鴎外)に連れられての帝劇の帰り、ここで生まれて初めて珈琲を飲みますが、手元狂って熱い珈琲を胸にかけてしまいます。(『記憶の繪 カフェ・プランタン』) また、酔った押川春浪が巴家の八重次(のちの藤蔭静樹)を伴った永井荷風と生田葵(葵山)に喧嘩を売ったのもこの店でした。(生田葵『其の頃のプランタンの燈』) プランタンはのちに、ライオン(尾張町角)やパウリスタ(南鍋町)などの後続に圧されてしまいますが、一般人にはやや敷居の高い店だと思われたことも一因でしょうか。

 マカロニとモカの烟は立昇る

 カッフェー、プランタンの窓の外

 日吉町の通りの初夏の夜半(よふけ)   (永井荷風『即興』より)

 

IMG_0525.JPG なお、のちに手を引くことになる平岡権八郎は三越呉服店の琵琶を弾く「上代美人」のポスター(1913)の作者です。また、松山省三の子は俳優五代目河原崎国太郎(1909-1990)、孫は松山英太郎(1942-1991)・松山政路(1947- )兄弟です。調布市の明西寺の墓地には省三・国太郎・英太郎の三代が一つ墓で永遠の眠りについています。

 

【写真上】現在の並木通り、プランタンのあったあたり。

【写真下】調布・明西寺 松山家の墓。


 

 

 

三島由紀夫「橋づくし」を歩くー三吉橋から備前橋までー

[滅紫] 2012年1月29日 08:30

三島由紀夫の「橋づくし」は昭和31年(1956年)「文藝春秋」発表の短編、三島が31歳の時の作品です。花柳界の女性4人(芸者2人、料亭の娘、その女中)が陰暦8月15日の夜に願掛けの「七つ橋渡り」をする話で、「願」を叶えるための条件は「同じ橋を2度渡らない」「誰とも口をきかず、話しかけられず」の2つ。さて、無事に渡りきることの出来るのは誰?


この「七つ橋渡り」というのは「満月の夜、誰とも口をきかずに七つの橋を渡ると願いが叶うという俗信が江戸時代に花街の女性の間で流行った」ものだそうです。作品発表当時の花柳界でまだ信じられていたのかどうか定かではありませんが、「金閣寺」「永すぎた春」「鹿鳴館」などを発表して当時人気作家だった三島の小説とあって発表後「七つ橋渡り」が流行したとか。「銀座ブロッサム」向いの三吉橋のたもとに碑があり、この「橋づくし」の一部と当時の橋の図があります。


100_0366.JPG

これによると「この橋は築地川の屈曲した地点に楓川と結ぶ水路が開削され、川が三叉の形となったところに関東大震災後の復興計画の一環として昭和4年(1929)に架けられた。情緒ある風景も今は埋め立てられ高速道路と化し、陸橋となりました」


小説が発表された当時を想像しながら歩いて見ることにしました。小説当時だと築地本願寺まで1.2KM、15分程度の散歩だったはずですが。・・

 

まずは「話しかけられてもいけない」ので帽子、マスク、大き目のサングラス(コンビニ強盗スタイル!)で準備完了。さあ出発です。三吉橋の描写は次のようになっています。

100_0367.JPG

「三叉の川筋に架けられた珍しい三叉の橋で橋の欄干は低く、三角形を形作る三つの角におのおの古雅な鈴蘭灯が立っている。三叉の2辺を渡ることで橋を二つ渡ったことになる。」


100_0382.JPG

「築地橋は風情のない橋である。橋詰の四本の石柱も風情のない形をしている」
→かな子腹痛で脱落


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「入船橋」の名は橋詰の低い石柱の緑か黒か夜目にわからぬ縦長の鉄板に白地で記された」


100_0368.JPG「毒々しいほど白い柱がゆくてに見えた。奇抜な形にコンクリートで気づいた柱に白い塗料が塗ってあるのである」

→小弓、知人に話しかけられ脱落

この暁橋と7番目の橋である「備前橋」は埋め立てられて「築地川公園」になっています。公園の入り口と出口に石柱が立っています。


100_0370.JPG本来は「暁橋」と「備前橋」の間に「緑に塗った鉄板を張っただけの小さな堺橋である」と説明されている「堺橋」があるはずなのですが見つかりませんでした。他の資料によると「築地7丁目2」あたりにあったものらしいのですが。・・

「緑の欄干に守られた備前橋は欄干も放物線をなして軽い勾配の太鼓橋になっている。三味線の箱みたいな形のコンクリートの柱に備前橋と記されその柱の頂に乏しい灯がついている。→満佐子、警官に尋問され返答して脱落。



結果7つ橋を渡れたのはひとりだけ。「願い」は叶ったのでしょうか。私は6つしか渡れず、写真撮りの都合上夜でもなく、おまけに渡り始める前に「願掛け」するのを忘れて!おりました。(今年も宝くじは当たりそうにない)


三島は「橋づくし」の小説発表後に西川鯉三郎のために舞踊台本も書いています。あの衝撃的な死から既に40年以上経ちました。亡くなった時はまだ45歳!歌舞伎の新作を沢山書いて「昭和の黙阿弥」になってほしかった!と橋の跡を歩きながら今さらのように残念に感じました。


 

 

中央区鉄道ものがたり <その4> 「消えた駅名」

[下町トム] 2012年1月25日 08:30

中央区の鉄道にまつわるお話、今日は第4回目です。
今回は少し視点を変えて今はもうなくなった駅名を探訪します。


都営日本橋駅標_R.JPG

 まず最初は、都営・浅草線「日本橋」」駅です。駅入口は昭和通りに設置されています。地下通路を通じて、東京メトロの銀座線や東西線と繋がっていますが、〔高島屋〕や〔コレド日本橋〕などがあって賑やかな立地の2つの路線駅に比べると、浅草線の駅はほんの少し落ち着いた静かさを感じます。


都営日本橋駅出口_R.JPG


それもそのはず、そもそも浅草線の〔日本橋〕駅は別の駅だったのです。浅草線(開業時は〝都営1号線〟と称しておりました)が1963(昭和38)年に開業した当時は〔江戸橋〕駅でした。

確かにすぐそばには〝江戸橋〟があって、駅名としてはそのほうが素直な気がします。pencil


江戸橋近く_R.JPG その後、東京メトロ(当時は〝営団地下鉄〟)との乗換客が増えたこともあり、一体的にする目的で、1989(平成元)年に〔日本橋〕に改称されました。

ちなみに、〔江戸橋〕という駅名は、遠く三重県津市に近鉄の駅の駅として存在します。東京から消えた駅名が今は遠くに存在するなんて不思議な気もします。


中央区内に存在したもう一つの駅としては〔西銀座〕駅があります。

東京メトロ丸ノ内線はほんの少しだけ中央区内を走っています。ちょうど数寄屋橋付近ですね。最近改装して〔阪急メンズ館〕と〔ルミネ〕が開業して賑わう〔有楽町マリオン〕が目前に目立つ数寄屋橋の交差点に、丸ノ内線の〔銀座〕駅の入口がありますが、まさしくここはかつて〔西銀座〕駅だったのです。subway  

丸の内線・銀座駅_R.JPG


丸ノ内線が1957(昭和32)年に開通したときには〔西銀座〕駅としてスタートしました。既に銀座線の〔銀座〕駅があって、少し離れていたこともあったようです。 


その後、1964(昭和39)年に日比谷線が開通したときに、同路線の〔銀座〕駅開業とともに、丸ノ内線の駅も〔銀座〕に改称されました。〔西銀座〕は、わずか7年弱のネーミングでした。


数寄屋橋交差点_R.JPG

今でも高速道路の高架下のショッピングモールに〝西銀座〟の名前が残っています。

フランク永井さんの歌った流行歌に「西銀座駅前」というのがあります。佐伯孝夫作詞、吉田正作曲のこの歌は「ABC・XYZ」で始まるモダンな歌です。日本の高度経済成長の黎明期である1958(昭和33)年に発売されヒットしました。その前年に発売され大ヒットした「有楽町で会いましょう」とともに、きっとこのあたりの雰囲気が新しい感覚に満ちていたことがあったのでしょう。note 


 西銀座アーケード_R.JPG

廃止されてしまった都電の駅名(電停名)まで含めると、区内には様々な名称があったわけです。例えば、〔三原橋〕や〔越前堀〕など味わいある名称は風景が目に浮かぶようです。eye

 

今回は地下鉄の2つの消えた駅名をしのび、中央区の戦後の歴史を振り返ってみました。少しは懐かしい気持ちをお持ちにになっていただけたでしょうか。 


 次回もまた鉄道に関わるエピソードをお届けしたいと思います。よろしくお願いします。cat 


 

 

築地市場の歴史的変遷 1の1(河岸の資産価値は、過去に2億円)

[kimitaku] 2012年1月21日 08:30

築地市場には、多くの魚介類を扱う魚類部と、青果類を扱う青果部とがあります。
どちらも早朝から営業し、多くの客で賑わっています。

  sakanabu.jpg seikabu.jpg青果部は市場内の新大橋通り沿いに、魚類部は隅田川沿いにそれぞれ位置しています。

魚類部に比べれば、青果部は大声の飛び交うことなく、静かに営業されています。
魚類部は、世界最大の取り扱い規模を誇っています。

 

 いま 築地市場は移転問題で、いろいろと話題にあがっています。昨年末からは、本格的に移転交渉も始まったようです。11月には都側の桟橋調査でも、いろいろあったとのこと。まだ、先は大変かも知れません。

TUKIJISANNBASI.png ところで、市場では、魚介類を扱う場所を河岸と言います。河岸の権利はバブル期には2億円と評価されていました。
これは金融機関が、この権利を抵当して2億円を融資する価値があると査定した額なのです。いまはそれほどの価値は無く、数百万円が相場ではないか(関係者の話)と言われています。

 

 ここで、市場の歴史を、江戸時代からひも解いてみたいと思います。

 江戸城は中世、江戸氏の館跡に長禄元年(1457年)太田道灌が築城しました。

当時は、人口も3000人に満たぬようで、天正18年(1590年)徳川家康移封までは、市場は、芝浜:今の港区芝神明(立川談志の落語:芝浜で有名)、それに、皇居平川門の前(いまの毎日新聞社前)に四の日に市の立つ四日市場(主に干物類)がありました。

  HIRAKAWAMON.jpg 家康は、入城後、江戸振興策の一貫として、神田山を崩し、その土砂で日比谷入江を埋め立て、日本橋一帯を造成しました。 その際に北から南に流れる平川の流れを東に変え、それが日本橋川となりました。
日本橋が架けられてのち、日本橋川の両岸に市が立ち、各方面から、魚介類、青果、またあらゆる物資がもたらされ、江戸の町を潤しました。
また、青果類は、関東一円、特に川越方面から、荒川を下り、魚介類は、江戸湾、佃島、芝や、遠く行徳方面から船で運ばれ、隅田川を上り、日本橋川に入り、河岸に並びました。


次回に続きます。

 

 

 

平家物語と水天宮

[北遊人] 2012年1月19日 08:30

NHK大河ドラマ "平清盛" がスタートしました。


日本橋七福神で、また安産・子育ての御宮として信仰を集めている"水天宮"は日本橋蛎殻町2丁目にあります。

 先ず東京水天宮の本殿です。

newyear 020.JPG

 参道階段下に"御由緒"を書いた説明板があります。

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紹介します、

 

 <御 由 緒>

御 祭 神  天御中主大神 (あめのみなかぬしのおおかみ)

        安徳天皇   第八十一代

        建礼門院   高倉天皇の中宮、安徳天皇の母君 御名 徳子

        二位ノ尼   平清盛の妻 御名 時子 安徳天皇の祖母 建礼門院の母


 当社は文政元年(一八一八)港区赤羽に在った有馬藩邸に当時の藩主有馬頼徳公が領地(福岡県久留米市)の水天宮の御分霊を神主に命じて藩邸内に御分社を祀らせたのが創めです。

久留米の水天宮は今からおよそ七百年程前に創建されたと伝えられております。 彼の壇ノ浦の戦で敗れた平家の女官の一人が源氏の目を逃れ久留米付近に落ちのび、一門と共に入水された安徳天皇、建礼門院、二位の尼の御霊をささやかな祠をたてて御祀りしたのが創めです。


江戸時代の水天宮は藩邸内に在った為、庶民は普段参拝できず門外より賽銭を投げ参拝したと言います。 ただし毎月五日の縁日に限り殿様の特別の計らいにより藩邸が開放され参拝を許されました。その当時ご参拝の妊婦の方が鈴乃緒(鈴を鳴らす晒しの鈴紐)のおさがりを頂いて腹帯として安産を祈願したところ非常に安産だったことから人伝てにこの御利益が広まりました。 その当時の水天宮の賑いを表す流行り言葉に "なさけありまの水天宮" という洒落言葉があった程です。


明治維新により藩邸が接収され有馬邸が青山に移ると共に青山へ、更に明治五年十一月一日現在の蛎殻町に御鎮座致しました。


関東大震災では神社も被災しましたが、御神体は隅田川に架かる「新大橋」に避難し難を逃れました。その後御復興も相成り、昭和五年流れ造りの社殿が完成、時移り昭和四十二年現在の権現造りの社殿となりました。



 それでは本宮の方をネットで覗いてみましょう。

 福岡県久留米市瀬下町に在る" 全国総本宮 水天宮 "の画像です。

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 祭神・由緒の説明文を紹介します、

  御 祭 神

    天御中主神 (あめのみなかぬしのかみ)

    安徳天皇 (あんとくてんのう)

    高倉平中宮 (たかくらたいらのちゅうぐう)

    二位の尼 (にいのあま)

 

  由 来

寿永四年(西暦1185年)三月二十四日 壇ノ浦の戦の後、高倉平中宮に仕えていた官女 按察使局(あぜちのつぼね)伊勢は千歳川(現筑後川)の辺り鷺野ヶ原(さぎのがはら)に遁れ来て初めて水天宮を祀った。この頃は未だ筑肥の界も明らかでなくただ荒漠たる原野であったという。今日、川を隔てて下野村があるが、近くの鷺ヶ鼻と言う地名は当時の古名が残ったものであると言われる。


伊勢は後に剃髪して名を千代と改め、里人に請われるままに加持祈祷など行っていたが、御霊験のあらたかにして、尊崇するもの日増しに多くなり尼御前と称え慕い社名を尼御前神社と呼ばれるに至った。


その頃中納言 平知盛 卿の孫(従四位少将 平知時の四男 右忠すけただ)肥後より千代女を訪ね来てこれを養いその後嗣とした。 千代女逝去の後、里人その墓を営み松を植えて千代松明神とあがめ奉った。 同女は大和国石上布留神社(現石上神宮)の神官の娘にして、墳墓は久留米市内株式会社アサヒコーポレーションの正門前に在り、奥津城祭(墓前祭)は毎年春に奉仕されている。

当社は古来農業、漁業、航海業者間に信仰が篤いのみならず、子供の守護神、安産の神として或いは病難、火災などの除災招福の御霊験高きを以て聞こえ、畏くも明治天皇御降誕の砌、孝明天皇は当宮へ御祈誓遊ばされた。

かくの如く御霊験あらたかなるを以て明治元年十月三日、禁裏御祈祷所(勅願所)に仰せ付けられた名社である。


 鎮 座

筑後川のほとり鷺野ヶ原に建久初年(西暦1190年)創建せられ、その後兵禍を避けて諸所に移し、還御の遺跡と伝えられる所は幾多あり。 慶長年間に至り久留米市新町一丁目に遷り、更に慶安三年(西暦1650年)9月 久留米藩第2代藩主 有馬忠頼公は社地と社殿を寄進し現在のところに遷し奉った。

爾来御神威弥増に輝かせ給い、第9代藩主 有馬頼徳公殊に尊崇せられ、文政元年11月1日江戸三田の藩邸に御分霊を勧請された。その後明治4年現在の中央区日本橋に御遷座されこれが現在の東京水天宮である。

このほか、国内・ハワイ等各地に鎮座する水天宮はすべて当社を本宮とする御分霊社である。因に当宮境内には幕末の激しい動乱期に勤皇派の旗頭として、王政復古に一生を捧げた明治維新の先覚者 真木和泉守保臣先生(第22代の水天宮宮司)を祀る真木神社がある。

 

 以上のとおり、平清盛 の二番目の妻 時子(二位の尼)との間に生まれた 徳子が 高倉天皇に入内し生まれたのが安徳天皇である。つまり水天宮には、安徳天皇、その母徳子(建礼門院),祖母に当たる時子(二位の尼)が祀られているのです。

平清盛は最初の妻(明子)との間に平重盛、時子(二位の尼)との間に平宗盛、平知盛、盛子、徳子をもうけています。


「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり、、、、」で始まる"平家物語"はどなたも御存じと思います。


建礼門院は壇ノ浦の戦で平家が敗れた時一門の者と一緒に入水したが助けられ、京都大原の寂光院で一生を送ります。 平家物語では、後白河法皇が建礼門院を訪ねる"大原御幸"は有名なくだりです。


歌舞伎でお馴染の"鬼界ヶ島"は、鹿ケ谷事件により俊寛たちが流刑になる話ですが、御赦免船が参ります、、、。この恩赦は、安徳天皇を妊った建礼門院の安産祈願によるものとのことだった、、。

水天宮に祀られている御三人に想いを馳せながらテレビドラマを楽しみたいと思います。

 

 

 

 

中央区鉄道ものがたり <その3> 「JRの地下駅」

[下町トム] 2012年1月11日 08:30

馬喰町駅_R.JPG

新年を迎え、皆様つつがなくお過ごしでしょうか。

中央区の鉄道の歴史やエピソードを紹介するシリーズを再開します。今回は区内を走るJRの地下駅を取り上げてみたいと思います。fuji


JRの前身は日本国有鉄道(国鉄)ですが、1972年(昭和47年)に国鉄初めての地下線路として、東京-錦糸町間が開通したときに、区内に「新日本橋」と「馬喰町」が設置されました。当時はけっこう珍しがられたものです。


馬喰町交差点_R.JPG
「馬喰町」駅はご存知問屋街で有名な馬喰町周辺にあって、都営浅草線・新宿線との乗換駅としても活用されています。
駅の上は車が行き交う都内の風景が広がり、この下にJR幹線が走るなんて創造しづらいものです。

この「馬喰町駅」は開業以来「日本で最も低い駅」として有名でした。


京葉線東京駅_R.JPG地下約30メートルにホームがあります。

その後さらに深いJR京葉線の東京駅ができたり、海抜では最も低い海峡線(青函トンネル内)の吉岡海底駅ができたりしたので、その呼称は返上したようですが、長くディープな駅として慕われています。


国鉄時代には最も高い駅として有名である「野辺山」駅(小海線)と友好関係を結び、その記念オブジェが駅構内に設置されています。apple 


新日本橋駅_R.JPG



そのお隣の「新日本橋」駅はといえば、日本橋室町にあります。

すぐ近くに地下鉄「三越前」駅がありますし、「神田」駅にも近い便利な場所です。


長崎屋跡掲示板_R.JPG 

この辺りには江戸時代に、長崎のオランダ商館長(カピタン)が将軍家に拝謁のため江戸に来る際に滞在したという〔長崎屋〕があったということで、説明版が設置されています。

 

参考:中央区民文化財   中央区民文化財67「長崎屋跡」


 八丁堀駅_R.JPG

もう一つ、忘れてはならないのが、JR京葉線の「八丁堀」駅です。
こちらは、1990年(平成2年)に開業しました。地下鉄日比谷線との乗換駅です。
江戸時代に与力、同心の住まう町であったと同時に、水運を生かした物流の拠点でもあったこのあたりは、ほとんどの水路が埋め立てられた今でも、かすかにかつての雰囲気を感じることができます。
隅田川までぶらぶら歩くのにもいいですよ。shoe 


中央区の地下を通勤電車だけでなく、〔成田エキスプレス〕や〔わかしお〕〔さざなみ〕などの特急電車が疾走していると思うと、やっぱりこの町は様々な人の行き交う町なんあだなぁと思います。 


さぁ、今日も電車に乗って中央区の魅力発見にGo! train 

 

続きを読む: 中央区鉄道ものがたり <その3> 「JRの地下駅」