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中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

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髙島屋 日本橋店の新しいモノ発見  ①

[shikichan] 2013年3月25日 14:00

1933年(昭和8年)3月20日に日本橋高島屋は竣工し、百貨店初の全館冷暖房換気装置を導入したそうです。

 

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それから80年経ちました。その間、昭和27年、29年、38年、40年と増築を重ね、2009年(平成21年)に百貨店初の国の重要文化財に指定されました。

 

 開店当時の建物をジオラマ作家の山本高樹氏が制作したジオラマです。重厚な西欧の歴史様式に東洋的な要素を 加味した、高橋貞太郎氏の設計した建物です。当時は市電が走っており、今のような赤いテントはありませんでした。

 

 当時は8階建てのこの建物は遠くからもよく見えたのでTAKASHIMAYAの電飾看板は必要なかったのでしょう。

 

歌人の与謝野晶子さんが「 髙島屋  光る都の面積を 加えたるかな 楼を重ねて 」と詠みました。

 

苦労の「労」と楼閣の「楼」をかけて謳ったようです。

 

 

 

 

 

木挽町狩野画塾跡にて

[小江戸板橋] 2013年3月24日 09:00

銀座5丁目13-9~14付近。

中央区教育委員会の示す説明板から、「狩野画塾」は相応の広さがあったことが分かります。

昭和通りとみゆき通りが交わる北東側、サンビルの角に説明板が立っています。

その奥一帯に画塾があったようです。

4月に杮落しが行われる新装歌舞伎座から、南に1ブロックの位置です。

このあたりは、江戸の地名で言えば「木挽町」界隈。

江戸時代を通して脈々と続いた狩野派の画塾とはどんなものだったのでしょう。

 

狩野派と言えば、日本史の教科書にも、金色地に「唐獅子」や「松」などの花木を大胆に描いた障壁画が載っています。

室町幕府の御用絵師だった狩野正信を始祖とします。

室町以降も、信長、秀吉、徳川将軍家といった時の権力者と結びつき、画壇の中心に地歩を固めていました。

 

私の中にある、安土桃山文化の「絢爛豪華」というイメージは、狩野派の絵師たちが創りだした障壁画が強く影響しています。

宮内庁三の丸尚蔵館に収められている、狩野永徳の「唐獅子図屏風」からは、桃山の豪放な輝きを感じます。

 

江戸時代は、狩野四家が奥絵師として権勢をふるいました。

狩野探幽(守信)、尚信、安信の三兄弟が、それぞれ鍛冶橋、木挽町(当初は竹川町)、中橋に幕府からの拝領屋敷を持ち、各狩野家の祖となりました。後に、木挽町から分家した岑信の浜町狩野家と合わせて、狩野四家と称されました。

江戸の古地図を見ると、拝領屋敷は武家地の白で表示されています。

奥絵師は将軍へのお目見え帯刀が許されたといいますから、旗本と同等の格式を持っていました。

その奥絵師を狩野一族が継承していたのですから、勢いのほどが分かります。

 

絵の需要はあったのでしょうか。

江戸城の広間を囲む襖(ふすま)絵だけでも、膨大な量になります。

将軍家の権威を誇示する、格調高い作品群を創り出すとなると、建設工事にも似た組織的な制作体制が求められたはずです。

襖絵、屏風などから、、掛軸、扇子に至るまで、延々と制作と修復作業が続きます。

なるほど、プリンターの無い時代においては、熟練の絵師集団が必要になってくるものです。

そして狩野家は、絵師集団を率い、全体を指揮するプロデューサーでもあったのです。

 

狩野四家の中で最も繁栄を誇ったといわれる木挽町狩野家の画塾は、諸藩のお抱え絵師の子弟が14・5歳で入門し、10年以上の修行期間を過ごしたといいます。

常に50・60名を超える塾生が技を磨き、世に出る機会をじっと待っていました。

多くの塾生を抱え、多岐にわたる画材を蓄え、多様な作品をも収蔵していたのですから、屋敷も広大。

その画塾には、若き絵師たちの野望も渦を巻いていたことでしょう。

 

奥絵師の四家を頂点に、「表絵師」と言われた15家が幕府や寺社の画業に当たりました。

町人の需要に応えていたのは、「町狩野」と呼ばれた絵師たちです。

こうした絵師たちの活動が、江戸文化の基礎をしっかりと築いていったのです。

 

狩野派の学習方法は、お手本をひたすら模写することだったといいます。

集団による組織的な制作を行う上で、個性を出さないことが、ある意味、必要な要素でした。

しかし、庶民感覚からすれば、狩野派は形式的で停滞した画業として映り、自由闊達に個性を主張する浮世絵の方に拍手喝采するのです。

今もこの感覚は続いており、江戸期の狩野派の作品はあまり人気がないですよね。

しかしながら、室町中期から江戸末期に至る400年間、画壇の中心にあった狩野派は、日本文化へ大きな影響を与え続けた存在であることに変わりはありません。

 

狩野四家の拝領屋敷は、江戸城への登城に便利なように、みんな中央区内にありますよ。

 

 

 

 

久助、人の名前ではありません!?

[銀造] 2013年3月22日 14:00

「中央区和生菓子組合のご案内図」を持って、それぞれのお店の代表商品を買い求めています。 runそんな時、あるお店で"割れた煎餅」を販売していて、その袋に「久助」と書かれていました。

 へえェ、「割れた煎餅を久助と呼ぶ」のだと知りました。sign03そう言えば、杏葉牡丹さんに、そんな事を教わった事を思い出しました。 辞典で調べると、久は同じ発音のQ → nine を意味し、完璧な10に対して一つ足りないことから、こう呼ぶこととなり、主にお煎餅の業界で使われる業界言葉だそうです。 洒落ていますね!flair 

いつも出かける時に持参している「中央区和生菓子組合のご案内図」、とても役に立ちます。加盟店は38店あり、今のところ、20店を訪問し、そのレシートを地図に貼り、スタンプ・カード代わりにしています。 とても楽しいです。 happy01 皆さんも、ご一緒に如何でしょうか?なお、中央区和生菓子組合のご案内図は、加盟各店の店頭で頂けます。 詳しくは、「NPO法人中央ネット」さんの、こちらのご案内をご参考にして下さい。 http://www.tokyochuo.net/sightseeing/wagashi/index.html

 

 

80th Anniversary を迎えた「高島屋東京店」 

[滅紫] 2013年3月21日 14:00

昨年末にナガーいスキンケアを終えた高島屋日本橋店が3月20日、80歳の誕生日を迎えました。念の入ったお手入れの効果抜群で、80歳にしてこのお肌!ちょっと羨ましい限りです。

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京都創業の高島屋さんが東京に現在の店舗を新築したのは昭和8年(1933)。地下2階、地上8階建てで全館冷暖房完備。当時のコピー「東京で暑いところ、高島屋を出たところ」というのは有名ですね。その後、村野藤吾氏による増築も行われ平成21年(2009)百貨店建築としては初めて重文指定となりました。


開店80周年企画として3月20日から4月2日まで様々なイベントが予定されています。オープニングを飾る今日の「中央区城東小学校児童によるミニコンサート」は見逃してしまいましたが、22日には市川染五郎さんのトークショー、各フロアではアニバーサリーパックの名で800円、8000円均一のお買い得商品PAKが目白押し。

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上記左は開店当時のお店を再現したミニチュア。隣は開店以来のお店の歴史をパネルにしたものです。

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高島屋さん名物のマスコット、「ローズちゃん」人形がフロアのそこここでそれぞれ違った着物姿でちょっと恥ずかしげにしているのも見ることができます。

今年のさくらは気が早いのか日本橋さくら通りも花はもう3分咲き。

お花見を兼ねて日本橋にお出かけになりませんか?


 

 

こんなところまで中央区 1

[りょうきち] 2013年3月21日 09:00

ジョギング好きが高じて、走っていろいろなところに行くことがよくあるのですが、つい先日、暖かくなったこともあり、「中央区の境界線を巡る旅」をしてみました。どのように回るかで距離は変わるものの、小さい中央区でも20km超にはなります。

コースは清洲橋からスタート、両国橋で神田川方面に進路を変更、柳橋、浅草橋辺りを行きます。地図上、浅草橋駅近辺の神田川南岸は千代田区と入り組んでいて境界の判定が難しい場所でした。ほぼ境界を進みます。靖国通りを渡り、馬喰町、神田の問屋街は比較的わかりやすいところに境界があります。ただし道路上ではないようです。私はできるだけ、中央区の一番端の道か、その外の区(このときは千代田区)の近い道を進みました。

小伝馬町周辺、十思公園近辺を抜けさらにいくつか通りを渡り、進んでいくと神田駅の辺りにたどり着きます。そしてJR山手線の内側までこの境界は続きます。中央区が山手線内側にまであることを知っている人は少ないのではないでしょうか? 

ここで出会ったのが、龍閑橋の跡。所在地は中央区常磐4丁目。

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ここはかつては神田と日本橋を分つ龍閑川があり、そこに橋が架かっていた場所でした。そして川が埋められ、橋が撤去されても、その橋の一部が残されています。それは、日本の鉄筋コンクリートトラス橋の先駆けとしての意義があるからのようです。ちゃんと説明のプレートがあります。

写真の右奥には新常磐橋方面に向かう道で、JRのガードがあります。この写真に写っているのは中央区側。右や後ろは千代田区となっています。私は左後方から来て、正面に進んでいき、日本銀行の前を抜け東京駅八重洲口、さらに銀座方面へと進んでいきます。しかしながら、その先についてはまたの機会といたします(まだまだ先は長いです)。
 


 

 

文豪と丸善(その二)  夏目漱石と万年筆

[与太朗] 2013年3月14日 09:00

IMG_0685.JPG 「丸善 世界の万年筆展 展示即売会」 先日、日本橋の丸善に通りかかるとこんな案内が目に留まりました。丸善は維新の日本に洋書だけでなく、西欧の文具を招き入れたパイオニアだったのですね。万年筆については百科事典にも「日本では1895年(明治28年)に東京の丸善(株)が少量だがウォーターマンのものを店頭で発売したのが最初で、本格的な輸入は1902年(明治35年)以降のことである。」(日本大百科全書(小学館))とあります。


 その後、万年筆は急速に普及し、丸善が1912年(明治45年)に発行した「萬年筆の印象と図解カタログ」という小冊子には、著名人多数が文章、スケッチ(万年筆で描いたもの)などを寄せています。その巻頭を飾るのが夏目漱石(1867-1916)の『余と萬年筆』です。


 この文章で漱石は、万年筆を使い出して間が無く、親しみが薄いと言っています。十二年前の英国留学の際、親戚(鏡子夫人の妹時子さんのこと)から餞別としてもらった万年筆は、船中で「器械体操のまね」(鉄棒)をして壊してしまいました。三、四年前、丸善で「ペリカン」を二本買いますが、「不幸にして余のペリカンに対する感想は甚だ宜しくなかった」ようで元のペン書きに戻りますが、インク壷にペンを浸す煩わしさから「離別した妻君を後から懐かしく思う」ような感がしたと言っています。そして「この原稿は魯庵君(当時丸善の顧問をしていた内田魯庵(1868-1929)のこと)が使って見ろといってわざわざ贈って呉れたオノトで書いたのであるが、大変心持よくすらすら書けて愉快であった」と書いています。この冊子には漱石が「オノトG」で書いたこの文章の原稿の写真も掲載されています。


 万年筆のPR冊子に載せるにしてはいささか宣伝臭が無さ過ぎる文章ですが、魯庵の書いたものを読むと、「夏目さんは頼まれごとをよく快諾する人だった。私は万年筆のことを書いて下さいと頼んだが、別に嫌な顔はされなかったが、「僕は困る」といわれた。そこで、いえ、悪くさえ言わねばいいから、重宝なものだくらいに書いて下さいと頼んだ」とあります。また、のちに新聞に掲載された漱石の談話には「今用いているのは二代目のでオノトである。別にこれがいいと思って使っているのでも何でも無い、丸善の内田魯庵君に貰ったから、使っているまでである」と正直?な感想を述べています。便利さは買っても、それほどの思い入れはなかったのでしょう。なお、魯庵によれば、漱石は硝子のインキスタンドが大嫌い、またインキはブルーブラックが大嫌いで、セピア色を好んだそうです。 


 漱石入社当時の朝日新聞社は、石川啄木(1886-1912)の歌で知られるように京橋区瀧山町(現銀座六丁目)にありました。漱石同様、主筆の池辺三山(1864-1912)の招きで朝日に入った杉村楚人冠(1872-1945)によると、漱石は出社することは少なかったが、水曜日に開かれる編集会議に出てくると、口数少なく、にこにこ笑いながら人の言うことを聞いていたが、口を開けば思いがけない警句をすまして言うのでその度毎に皆は笑い、賑やかになったそうです。こんなときの漱石の手にはオノトの万年筆があったのでしょうか。


 漱石も愛用?したオノトは高級万年筆として一世を風靡しますが、戦後、製造元の英国デ・ラ・ルー社は万年筆の製造を止めてしまいます。現在は丸善がオノトの名を冠した「復刻版」の高級万年筆を販売しているそうです。日本橋丸善では万年筆売り場は地下一階。超高級品から普及品まで見事に並べられた売り場を見て回るうちに、もう長い間万年筆に縁が無くなっていた自分に気づくと同時に、五十数年前のこどもの頃、今は亡き両親に初めて万年筆を買ってもらったときの感激がよみがえってきました。