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中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

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地図御用所跡

[O'age] 2016年12月28日 09:00

ものしり百科に載っていない説明板をご紹介します。IMG_7222.JPG

所在地 中央区日本橋茅場町二丁目十二番付近

 
地図御用所は、実測による初めての日本全図を作製したことで知られる伊能忠敬(1745~1818)の住居に設けられていました。伊能忠敬は、51歳の時に下総国佐原(現在の千葉県佐原市)から江戸深川黒江町(現在の東京都江東区)に居宅を移し、幕府天文方高橋至時の門に入って天文学を学び始めました。寛政12年(1800)からは本格的に日本全国の測量をはじめ、以降17年間にわたって日本全国の沿岸を測量し、その総距離は約4万kmにも及んだといいます。文化11年(1814)、九州地方の測量から帰った伊能忠敬は、深川黒江町から八丁堀亀島町と呼ばれていた現在地付近へ転居しました。この屋敷の敷地は150坪ほどでしたが、伊能忠敬の居住地としてだけではなく、測量図を作製するための地図御用所として利用されていました。伊能忠敬は地図が完成する前の文政元年(1818)に亀島町の居宅で死去してしまいましたが、その後も伊能忠敬の居宅は地図御用所として使用され、文政4年(1821)門弟や天文方の下役等の手により「大日本沿海與地全図」が完成しました。平成17年3月 中央区教育委員会

 

伊能忠敬の深川黒江町(現在の江東区門前仲町付近の歩道上)住居跡の碑

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伊能忠敬のお墓台東区源空寺にあり、師であった至時の墓と並んでいます。

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カフェパウリスタ 銀ブラ証明書 アートのご紹介

[銀造] 2016年12月27日 12:00

 カフェパウリスタは、1911年12月に交詢社前に開店された「銀ブラ」の語源となったコーヒー専門店です。 ブラジルでは、リオデジャネイロ生まれの人を、「リオっ子という意味で、カリオカ」と呼ぶ様に、「サンパウロ生まれの人を、パウリスタ」と呼びます。カフェパウリスタは、サンパウロのコーヒー喫茶店という意味ですね。大正時代に新しい文化として、沢山の人達がコーヒーという新しい飲み物を求めて訪れたそうです。

 そして、文士や三田の学生たちの間で、カフェパウリスタのブラジル生まれのコーヒーを飲みに行くことを、「銀ブラ」と呼ぶ様になり、いつしか、「銀座をぶるぶら散歩する」という様に変化しました。

 以前にもご紹介しましたが、こちらでは「銀ブラ証明書」を発行してくれます。これは、銀座のカフェパウリスタでブラジルコーヒーを飲んだという証明書ですが、証明書を開くと証明印を押して、印が10個押されれば、コーヒー1杯無料となります。

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私は、何冊貰っても紛失したので、ガイドのネーム・ホルダーに入れて、持ち歩く様にしています。

 さて、カフェパウリスタの1階では、コーヒー農園で働く農夫を描いたエッチングの銅盤(コロンビア製)が飾られていることは、皆様ご存じのことと思います。 2階では、ブラジル在住日系人画家の絵画を中心に、多様な作品が展示されています。「カフェパウリスタ銀座店のご案内」のリーフレットを頂いて、絵画鑑賞もお楽しみ下さい。

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それでは、皆様楽しいクリスマスシーズンと明るい良い新年をお迎え下さい。 銀造

 Feliz Natal e Prospero Ano Novo 

 

 

松屋銀座特別展「白洲正子ときもの」開催案内

[達磨] 2016年12月27日 09:00

【日にち】  12月27日(火)~2017年1月16日(月) *1月1日休場

【開場時間】 午前10時~午後8時 (12月31日)午後10時~午後6時(1月2日)午前9時半~午後7時半(最終日)午後5時閉場

【会 場】  松屋銀座8階 イベントスクエア

【内 容】  白洲正子(1910-1998)が母から受け継いだ帯や能舞台に立った時の着物、白洲邸武相荘(1943‐白洲夫妻終生住居)での暮らしぶりを感じさせる季節ごとの愛用着物や和装小物、日常に用いた品々など150点を展覧して、正子が愛した"きもの"の魅力を紹介

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正子は46歳の時に旧銀座西8丁目で、きものと染物工芸の店「こうげい」を始めました1956‐1970)。織や染めの作り手たちとの交流を深め、自身が美しいと感じる着物を世に広めています。「こうげい」からは田島隆夫、古澤万千子らすぐれた工芸作家が育っています。(武相荘年譜より)そのころの着物のたとう紙にはお店と住所が書かれています。

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特別展の総合デザインを担当した南雲デザイン/稲元美恵社長より・・「白洲正子の美意識と着物の魅力をデザインしました」・・日本の美ぜひご覧ください!!!なお、南雲デザインは旧白洲邸武相荘、全国の博物館・美術館・文学館に多くのデザイン作品があります。

   

 

 

日本橋の大老舗・小津和紙で絶対買うべきオススメ日用品!

[柴犬] 2016年12月26日 16:00


日本橋にある老舗の中でも有数の歴史あるお店、小津和紙さん。

なんと開業は承応二年(1653年)。伊勢の松坂から始まり、現在の江戸大伝馬町にやってきました。


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小津和紙さんは、一階の店舗の他に、中央区民有形文化財の登録を受けた古文書約千点の史料を誇る史料館(無料!ガイドもお願いできます)、様々な文化教室、全国の和紙ギャラリー、そしてワンコインで体験できる紙漉き教室など、1日楽しめるほど充実の施設です。


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500円でできる紙漉き体験。自作した紙はもちろん持ち帰れます



お土産も大充実なので何を買おうか迷ってしまう方もいらっしゃると思うのですが、そんな中で!絶対にオススメ、ちょっとした日本橋土産にもぴったりのサイズとお値段!!という商品があります。


それがこちら!!

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なんだかお分かりになりますでしょうか?


(ちなみに横に置いてあるお人形は銀座八丁神社巡りでいただける干支の土鈴です)

これはミクロ繊維で作られたレンズ拭きなのです。


商品名は 『Optical Lens Cloth めがねクロス』 となっていますが、拭けるのはもちろんメガネだけではありません。スマホやパソコンの画面、カメラレンズ、指先の油汚れ。さっと拭うだけで本当に綺麗になります。スマホ画面についてしまった結構な汚れなども何度か優しく撫でるだけで取れます。しかも、一度拭いたらポイではなく、破れるまで繰り返し使えます。

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和紙の老舗が開発したミクロ繊維の不織り布。目の細かさが伝わるでしょうか?

箱入りでも数百円、小さいポケットタイプもあります。


これは初めて使うと皆な「おお...!」となるので、実用的かつお土産にも適した商品かと思います。

お店ではレジの横に置いてあることが多いのですが、ちょっと見つけづらいかもしれないので店員さんに聞いてみたら良いかと思います。


小津和紙さんの史料館や体験教室を詳しくお知りになりたい方は是非サイトをチェックしてみて下さい。英語が堪能な店員さんもいらっしゃるので外国の方でも安心です!


小津和紙 ホームページ ←こちらをクリック。


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復活 馬喰町の旅籠、北斗星

[あすなろ] 2016年12月23日 09:00

落語「御神酒徳利」「宿屋の富」の舞台になったのが馬喰町。

噺の中からも馬喰町が宿場町であった諸相を伝えてくれます。

より一層の賑わいは、いつしか、問屋街に様変わり、

JR馬喰町駅を中心に近代的なビルが立ち並ぶ

オフィス街としても発展しています。

 

そんな中、往時を偲ぶかのように、宿泊施設が誕生しました。

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<トレインホステル北斗星>

 

惜しまれつつも引退した寝台列車「北斗星」の車内備品を

利用したホテルがJR馬喰町駅直結ビルにできました。

憧れの存在だったブルートレインを体感できる新感覚の

宿泊施設です。宿泊費も2500円からととてもリーズナブル。

寝台車の雰囲気に浸りたい方、ご利用されてみてはいかがですか。

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Train Hostel 北斗星

所在地:東京都中央区日本橋馬喰町 1-10-12
アクセス:JR総武線快速「馬喰町駅」4番出入口直結
 

 

 

三島由紀夫の小説 『鏡子の家』

[CAM] 2016年12月22日 16:00

 三島由紀夫の小説『鏡子の家』の冒頭に、勝鬨橋とその近辺の描写があることは知られているが、勝鬨橋とその近辺の取材について、『裸體と衣装』の昭和33年3月10日(月)の部分で述べられている。

>毎日、書下ろし長篇「鏡子の家」を書き出さうと思ひながら、なかなか怖くて書き出せない。千枚となると脳裡の模索は何にもならぬ。月島の先の晴海町あたりの景色をプロローグに使ひたいので、タクシーに乗つて行つてみる。丁度午後三時、勝鬨橋の上る時刻である。これは使へる、といふ直感があつて、車を下りて、橋の上るさまをメモをとる。いよいよ晴海町へ行くと、數年前「幸福號出帆」(完全に失敗した新聞小説であるが、自分ではどうしても悪い作品と思へない)を書くためにここへメモをとりに来た時と比べて、完全に一變した景色に一驚を喫する。あんまりメモをとる感興が起らない。さらに晴海埠頭の對岸の東雲の突端まで行く。海に向つて數人の男が相談してゐる。密輸の相談にしては、声は高く、海はうららかで、それらしくない。(28-28)

 三島由紀夫の小説『鏡子の家』は、昭和33年(1958)、雑誌『声』創刊号に1章と2章途中まで掲載された後、翌年昭和34年(1959)に新潮社から、「第一部」「第二部」の2冊が同時に、単行本刊行された。その書き出しは下記のようである。

>勝鬨橋のあたりは車が混雑してゐるのが遠くからわかる。どうしたんだらう、事故でもあったのかな、と収が言った。が、様子で、開閉橋があがる時刻だとわかつた。峻吉は舌打ちした。ちえつ、埋立地はあきらめようや、じれったい、と言ふ。しかし夏雄と鏡子が、まだ一度も見たことのない、その橋のあがるところを見たがったので、可成手前に車をとめて、みんなでぞろぞろ鐵橋の部分を渡って見に行った。峻吉と収はいささかも興味のない顔をしている。

 中央部が鐵板になつてゐる。その部分だけが開閉するのである。その前後に係員が赤旗を持って立つてゐて、停められた車がひしめいてゐる。歩道のゆくても一條の鎖で阻まれてゐる。かなりの数の見物人もゐるが、通行を阻まれたのをさいはひ油を賣つている御用聞きや出前持などもゐる。

 電車の線路のとほつてゐる鐵板が、その上に何ものも載せないで、黒く、しんとしてゐた。それを両側から車と人が見戌つてゐる。

 そのうちに鐵板の中央部がむくむくとうごき出した。その部分が徐々に頭をもたげ、割れ目をひらいた。鐵板はせり上って来、両側の鐵の欄干も、これにまたがつてゐた鐵のアーチも、鈍く灯った電燈を柱につけたまま、大まかにせり上がつた。夏雄はこの動きを美しいと思つた。

 鐵板がいよいよ垂直にならうとするとき、その両脇の無数の鐵鋲の凹みから、おびただしい土埃が、薄い煙を立てて走り落ちる。両脇の無数の鐵鋲の、ひとつひとつ帯びた小さな影が、だんだんにつづまつて鐵鋲に接し、両側の欄干の影も、次第に角度をゆがめて動いて来る。さうして鐵板が全く垂直になつたとき、影も亦静まつた。夏雄は目をあげて、横倒しになつた鐵のアーチの柱を、かすめてすぎる一羽の鷗を見た。

・・・・・・・・・・

 ずいぶん永く待つたやうな氣がした。・・・・・

 車は勝鬨橋を渡り、月島の町のあひだをすぎて、さらに黎明橋を渡つた。見渡すかぎり平坦な荒野が青く、ひろい碁盤の目の舗装道路がこれを劃してゐた。海風は頬を搏つた。峻吉は、米軍施設のはづれにある滑走路の、立入禁止の札を目じるしに車をとめた。かなた米軍の宿舎のかたはらには、數本のポプラが日にかがやいてゐた。(11-10)