[銀造]
2017年6月10日 16:00
今日は、江戸時代から続く老舗巡りと歴史散歩です。
先ずは、扇子と団扇の専門店、創業天正18年(西暦1590)の「伊場仙」さん。
店内で素敵な扇子などを拝見し、贈答用のプランを練りました。 こちらは、店舗の右側が、「伊場仙まちかど展示館」になっていて、浮世絵と共に、これからの季節の必需品、浮世絵を印刷した素敵な団扇も展示されていました。
お店のHPは、http://www.ibasen.co.jp/index.html
お店を出ると、椙森神社に向かいます、途中、堀留一丁目の舗道には、素敵なタイル模様が。椙森神社では、無病息災、宝くじ当選祈願を致しました。
続いて、少し北上した角から右手に見える「東京スカイツリー」を遠望して、そこへ行くまでの大伝馬町には、歌川広重が描いた名所江戸百景の「春7景 大てんま町 木綿店」「秋74景 大伝馬町ごふく店」があったのだなと、手元の「広重の大江戸名所百景散歩」を眺め入ります。
そして、その少し向こうには、「蔦屋重三郎の耕書堂」があったのだと、同版元が世に出した天才画家、東洲斎写楽の代表作品、「三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛」、「市川鰕蔵の竹村定之進」をを脳裏に思い起こします。
次に訪れたお店は、こちらも江戸時代から続く、刷毛の専門店、創業享保3年(西暦1718)の「江戸屋」さん。こちらでは、馬毛を使用した歯ブラシを購入しました。ここ5年ほど、ずっと愛用しています。
お店のHPは、http://www.nihonbashi-edoya.co.jp/
お店の向かい側には、「旧日光街道の本通り」の碑が建立されています。
次に少し北上して、道の角にある「馬込勘解由屋敷跡」の説明碑を見て、
宝田恵比寿神社に参拝。神社のご由緒書きを拝見し、「べったら漬」の名前の由来などを学びました。
老舗巡りの締めとして、承応2年(1653)創業の「小津和紙」さんの店舗とミュージアムを訪問。新旧のお店周辺の地図を拝見しました。
世界文化遺産に指定された和紙の数々について、勉強するとともに、素敵な和紙製品の数々を拝見しました。 こちらの2階では、接客用に無料の給茶機を設置して頂いており、本当にありがたいおもてなしです。
お店のHPは、http://www.ozuwashi.net/
[みのり]
2017年6月10日 12:00
こんにちは、みのりです。
聖路加ガーデン近くの「ヘンリー・フォールズ住居跡」と、明石小学校の校庭の外壁にある「築地外国人居留地跡」に行ってきました。
いい天気の暑い日でした。
【築地外国人居留地跡】明石小学校の外壁にあります
●居留地時代のレンガ塀遺構
イギリス積みで積まれたレンガ塀は、明治期に居留地の40番と52番に建てられたもので、明治期に外国人居留地があったことを示す貴重な遺構。
●ガス街灯の柱
上部左右にある腕金や下部に施された帯状の繰り型など、特徴的なコリント式の装飾がみられる。照明ランプは電気灯として使用されていたものを修復し、後年に取り付けたもの。鋳鉄製の柱は、形状や材質から明治末年頃のガス街灯の柱と推定される。
【ヘンリー・フォールズ住居の跡】聖路加ガーデン近くにあります
明治初期にあった築地居留地18号地で、明治7年(1874)から明治19年(1886)まで居住しました。
宣教師であり医師である英国人ヘンリー・フォールズは、スコットランド一致長老教会の宣教師でした。キリスト教の布教のかたわら、築地病院で医療に従事しておりました。
築地病院は、のち明治35年(1902)宣教師トイスラーにより聖路加病院と改称して発足し、大正6年(1917)には聖路加国際病院と改められました。
ヘンリー・フォールズは、日本の拇印と古代人の指紋をヒントに「指紋は個人認識に利用できる」ことを発見し、犯罪捜査に大きな効果をもたらしました。
<参照>
築地外国人居留地跡記念碑
ヘンリー・フォールズ住居の跡碑
『歩いてわかる中央区ものしり百科』監修中央区観光検定委員会 より
[yaz]
2017年6月10日 09:00
先日元江戸東京博物館都市歴史研究室長・淑徳大学人文学部客員教授である小澤弘氏の『200年前の日本橋繁盛 熈代勝覧(きだいしょうらん)』という講義を聞きました。聴講内容の印象が薄れないうちに書いた方が良いと考え、ブログ・ネタは他にもあるのですが選択しました。Wikipediaでは得られない面白い情報を紹介します。
この絵巻は西暦2000年にドイツのプロシア文化財団ベルリン東洋美術館(現ベルリン国立アジア美術館)で日本の絵巻が展示されました。それは200年前の日本橋通りを描いた『熈代勝覧』という絵巻でした。この絵巻がいつドイツに渡ったのかは不明ですが、ベルリン自由大学のキュステル教授夫妻がこの美術館に寄託したコレクションの中の一点でした。
その後熈代勝覧は2003年1月に日本に里帰りし、東京都江戸東京博物館の江戸開府400年・開館10周年記念特別展「大江戸八百八町展」で初めて全巻をくり広げて展示されました。2006年に1月にも三井記念美術館の会館記念特別展II「日本橋絵巻展」へ再来し、2009年11月には東京メトロ"三越前駅"地下のコンコース西側(三越側)に、熈代勝覧の複製絵巻が展示されるようになりました。本園2月18日から4月9日まで開催された江戸東京博物館の特別展"江戸と北京-18世紀の都市と暮らし"で熈代勝覧を実際に見ることができました。
熈代勝覧の絵巻は日本橋から神田今川橋に至る日本橋通り(中央通り)のおよそ7町(760m)の西側を俯瞰図法で描いています。88軒の店舗とその前を行き交う人・犬・馬・牛・サル・鷹を描き、江戸の武士・町人・僧侶・乞食などの日常生活を生き生きと描いています。丙寅の大火の前年である文化二年(1805年)の焼失する前の街並みが書かれています。題箋に『熈代勝覧 天』と書かれていますので、他に「地」「人」の巻があったと思われます。3巻のうちの1巻なのですね。
「地」「人」の巻には何が書かれていたのでしょうか?例えば、どちらかの巻物には日本橋通りの東側(三越の反対側)が描かれていたかもしれません。それが存在すれば、私が興味を持っている「長崎屋とオランダ館、時の鐘」についても詳細な情報が判ったでしょう。あるいは今川橋の先の神田方面が書かれているという話もあるようです。これがどこかで発見されれば、大発見です。
犬や馬、牛なども書かれていて江戸時代の生活が良く分かります。
熈代勝覧の末尾には日本橋の高札が描かれています。お触書(御定書)が三つ。
一つ目は、正徳元(1711年)5月に奉行から出された御定書
* 親子兄弟夫婦をはじめ諸親類にしたしく、下人等に至迄是をあわれむべし。主人有輩は各々方向に精出すべき事
* 家業を専にし惰る(おこたる)事なく、万事其分限に過べからざる事
* いつわりをなし、又は無理をいひ、惣じて人の害になるべき事すべからざる事
* 博打の類一切に禁制の事
* 喧嘩口論をつつしみ、若其事ある時みだりに出合べからず。手負たる者かくし置べからざる事・・・・・・・
二つ目はキリシタン宗門禁令、三つめは享保6年の鉄砲に関する法令。
「御定書」の内容などは、江戸時代ばかりでなく現代にも通用する言葉ですね。ドラッグや博打で逮捕される芸能人2世には耳の痛いお触れですね。芸能人の家の前に「高札」を立てたらどうでしょうか?
参考資料:東京シティガイドクラブ平成29年度第一回セミナー: 200年前の日本橋繁盛 熈代勝覧 講師 元江戸東京博物館都市歴史研究室長・淑徳大学人文学部客員教授 小澤弘氏
[下町トム]
2017年6月 7日 16:00
新川にある「越前堀児童公園」は最近リニューアル工事が完了し、きれいに整備されました。子どもたちの遊び場としてはもちろん、地域住民の憩いの場としても親しまれています。また近隣のオフィスで働く人にとってもお昼休みに一息つくオアシスとして愛されています。地域のイベントである「児童館まつり」もつい先だってこの場所で開催されました。
この辺りは江戸時代に掘割があり、福井藩・松平越前守の中屋敷があったことから「越前堀」と呼ばれたそうです。その名前が今でも公園の名に残されているのは興味深いところです。
また、「新川」の地名は江戸時代初期に「江戸中島」と呼ばれていた地域を江戸幕府が整備し、さらに掘割を設けて二つの地域に分割しました。北側を「箱崎島」、南側を「霊巖島」と呼びました。新しく掘削された運河は「新川」と呼ばれ、今の町名につながっています。
越前堀児童公園の一角に「霊巖島」のゆかりを示す石碑が建っています。かつてこの地にあった霊巖寺に因んでいることが説明されています。寺院そのものはその後深川に移転しましたが、地名にはその名が残りました。
池波正太郎の人気作品「鬼平犯科帳」第7集に所蔵されている「掻掘(かいぼり)のおけい」に霊巖島が登場します。その記述を追ってみると・・・。
「新川は、もとの霊巖島を南北二つに割っている川で、両岸には酒問屋がびっしりとたちならんでいた。新川には西から東へ、一ノ橋から三ノ橋まで三つの橋がかけられてい、・・・」
当時の面影は今やほとんど残っていませんが、近くの亀島川の雰囲気にはどことなく往時の香りを感じることができます。
歴史の香りを楽しみながら散策するのもいいのではないでしょうか。是非お立ち寄り下さい。
[株式会社 彦晴]
2017年6月 7日 09:00
築地へ行って来ました。築地と言って、やはり外せないないのは波除稲荷神社です。
「つきじ獅子祭」には、まだ少し早いけど茅の輪くぐりをしてお参りしてきました。
境内は枝垂れ銀杏の新緑がとても鮮やかです。
波除稲荷神社の天水鉢と獅子頭は区民有形民俗文化財となっております。
『民衆の間における神仏に対する信仰の念は頗る盛んで、盂蘭盆会・彼岸・灌仏・涅槃会・宗祖の忌日にはいたるところ寺詣の雑踏をみ、神仏の開帳、開龕などいうことも盛行した。ー中略ー 何々講と称する信仰団体を組織して、神社仏閣巡拝し、祈祷神学を捧げ、あるいは社前に鳥居・燈籠・幟石・天水槽などを奉納する風も頗る盛んで、これがまた商家の宣伝にもなった。「中央区史」より』
波除稲荷神社の天水鉢も一つの例として「中央区史」に記載されています。
江戸の先人たちには現代人の我々にはない神仏に対する信仰の念と見栄と意気があったのでしょう。
それから、浴恩園の跡地にある日本海軍発祥の地「旗山」の石碑、そして石碑の奥が魚河岸水神社となっています。
もちろん海幸橋の親柱もチェックしたのですが写真を撮るのを忘れてしまいました。
お昼にはまだ少し時間があったのですが、せっかく築地に来たので海産物が食べたくなり築地場外市場にある築地魚河岸小田原橋棟へ行って来ました。
一階部分に小売店が入っており、そこで購入した食材を三階のフードコートのテーブルで頂くことができます。
因みに、マグロ赤身¥800 うちわエビの刺身¥700 タコぶつ¥300ととてもリーズナブルな価格でした。生ビールは中ジョッキで¥500です。昼飲みする人にはには打ってつけな場所となっております。築地にいらした方は是非利用してみてください。ただし飲みすぎには気を付けてくださいね!
[銀造]
2017年6月 2日 14:00
「銀座文化碑」に番号が付けられているのをご存じですか?
「銀座柳の碑」は、2。
「銀座発祥の地」碑は、3。
京橋の「煉瓦銀座の碑」は、4。
となると、何処の碑が一番なのかと、ずっと探していました。 銀座4丁目のミキモトが、本館建替えの為、ずっと確認できませんでしたが、
やっと、2017年6月1日の竣工を迎えて、入り口前に改めて設置されています。「真珠王記念碑」です。 こちらは無番です。これが最初の銀座文化の碑で、その後、付番されていったのだと思います。ミキモトさんが真珠の養殖で成功され、世界の女性に愛されて大成功された事ともに、これからも銀座が世界に文化を発信し続けて行って頂きたいと、強く願っております。