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都旧跡 浅野内匠頭邸跡と芥川龍之介生誕の地

[みのり] 2017年8月 9日 18:00

こんにちは、みのりです。

 

浅野内匠頭邸跡と芥川龍之介生誕の地に行ってきました。

浅野内匠頭邸跡の近くに芥川龍之介生誕の地の説明板があったのでびっくりしました。

 

ck1303_201708092.jpg【都旧跡 浅野内匠頭邸跡】

もともと赤穂藩浅野家上屋敷は、浅野内匠頭邸跡の石碑のある聖路加国際病院と西南二面が築地川に面している八千九百余坪の地で、赤穂藩浅野家五万石 浅野内匠頭長矩の上屋敷でした。

浅野内匠頭長矩は浅野采女正長友の子で、長友が若くして世を去ったため、わずか九歳で家督を相続、十四歳にして十五位下に叙せられ内匠頭に任じられました。

元禄14年(1701)に勅使の接待役に推されたが、指南役の吉良上野介義央に江戸城内大広間と白書院をつなぐ松の廊下で切り付けたため切腹を命ぜられました。その後、江戸屋敷は幕府に取り上げられ、赤穂藩浅野家は断絶しました。

聖路加国際病院の敷地内には、浅野内匠頭邸跡を示す石碑と説明板が設置されています。東京都指定文化財です。

 

 

ck1303_201708091.jpg【芥川龍之介生誕の地】

その近くにあるのが芥川龍之介生誕の地の説明板です。

芥川龍之介(1892-1927)は、牛乳販売会社「耕牧舎」を経営する新原敏三の長男として、東京市京橋区入船八丁目一番地(現在の中央区明石町十番)で生まれました。生後まもなく母親のフクが発病したため、龍之介は母の実家の芥川家に引き取られて成長しました。夏目漱石門下で、『鼻』『羅生門』『河童』『或阿呆の一生』などの多くの文学作品を残しました。聖路加国際大学前に生誕地を表す説明板が設置されています。

 

<参照>

図説忠臣蔵 西山松之助監修 河出書房新社

江戸っ子が惚れた忠臣蔵ー赤穂義士の実像と虚像に迫る 菅野俊輔作 株式会社小学館

都旧跡 浅野内匠頭邸跡の説明版 中央区教育委員会

芥川龍之介生誕の地の説明版 中央区教育委員会

中央区ものしり百科 中央区観光検定委員会監修

 

 

ヤン・ヨーステン像 八重洲地下街と八重洲通りの分離帯にあり

[銀造] 2017年8月 9日 09:00

 ヤン・ヨーステンの像は、東京駅地下街と八重洲通りの分離帯にあります。

東京駅の地下街の銅像は、10年以上前に行ったきりで、場所は随分移動していました。

八重洲中央口から下りたメイン・アべニュー地下街にある案内所の方に、とても親切な応対で、所在地を教えて頂きました。

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 東京駅八重洲口からなら、八重洲中央口から下りて、ソフトバンクの角を右折、中国料理の「鳳鳴春」を過ぎて、ラーメン店「遊亀亭」の隣に、ヤン・ヨーステンと九州の大分県臼杵に漂着したオランダ船「リーフデ号」と同船が辿った航路が図示されています。

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 大西洋をひたすら南下して、チリの最南端ケープ・ホーンから、(私が読んだ本では、そこからチリの内陸を通っている運河を航行し)、

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 ハワイ沖、日本の大分の臼杵へ漂着したということです。

この時、英国人船員ウイリアム・アダムスも乗船していました。ウイリアム・アダムス(後に、三浦按針と名乗る)は、日本橋に屋敷を与えられて、按針町という町名が誕生したのですね。

 

 

 八重洲通りの分離帯には、中央区が平和宣言した1年後に設置された「平和の鐘」と一緒にヤン・ヨーステンの顔の銅像が置かれています。 毎年、暑い夏に思うことですが、世界が紛争の無い平和であって欲しいと願っています。

平和の鐘の説明は、こちらです。

http://www.city.chuo.lg.jp/heiwa/monument/kane/