8月に入り、ぐずついた天気が続きますね。
夏らしさを探しに、築地へ。
のぼりに書かれた「生寒天」の文字が目にとまりました。
店内の雰囲気は居心地よく、天草の良い香りに誘われて
「心太」を注文。
酢醤油か黒蜜をチョイスすることができます。
神津島産の天草を煮出し、
寒晒しをしていない生の寒天なので、
風味の良さ、ほどよい弾力、豊富なミネラルが魅力です。
夏の趣を堪能しました。
◆天まめ
東京都中央区築地2-8-1 築地永谷タウンプラザ 107号
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心太 夏らしい嗜好品
8月に入り、ぐずついた天気が続きますね。 夏らしさを探しに、築地へ。
のぼりに書かれた「生寒天」の文字が目にとまりました。 店内の雰囲気は居心地よく、天草の良い香りに誘われて 「心太」を注文。
酢醤油か黒蜜をチョイスすることができます。
神津島産の天草を煮出し、 寒晒しをしていない生の寒天なので、 風味の良さ、ほどよい弾力、豊富なミネラルが魅力です。 夏の趣を堪能しました。
◆天まめ 日本橋のデパートは化石の宝庫
日本橋の老舗デパート(三越本店・高島屋)の壁材に使用されている 大理石の中には、数億年前のアンモナイトやベレムナイトなど恐竜時代 の化石がたくさん含まれているということをご存知でしょうか。 日本橋三越だけでも約13,000個のアンモナイトの化石があるようです。 とりわけ本館1階中央ホールの2階へとつながる階段の壁には、はっきり とアンモナイトの姿が見てとれる化石があります。 これらのデパートの大理石はイタリア産で、アンモナイトが生きていた 当時のアルプス山脈やその地域は深い海になっていて、そこに石灰質 の泥がたまり、アンモナイトの遺骸が紛れ込んだと考えられているそうです。 ちなみに 「化石」の定義は次の通り(必ずしも「石」でなくとも良い) 1.自然に地中に埋没したもので人が埋めたものではないこと 2.地中に埋まって 1 万年以上経っている
店内の壁材を注意深く探してまわる、いわば『化石ウォッチング』を 楽しんでみてはいかがでしょうか。また子どもたちには夏休みの自由研究 になろうかと思います。 もし探せなくてもデパートの案内所で尋ねてみると、親切にその場所を 教えていただくことができます。
深川祭 神輿連合渡御
8月13日に深川富岡八幡宮の神輿の連合渡御がありました。お隣の江東区門前仲町にある富岡八幡宮の氏子には中央区の新川と箱崎も含まれています。今年は3年に一度の本祭で各氏子町会の55基の神輿が繰り出し、江東区と中央区を「ワッショイ、ワッショイ」と威勢の良い掛け声で練り歩き、沿道からは別名「水掛け祭」ともいわれるとおり、さかんに水がかけられました。深川八幡様のお祭りは神田祭、山王祭と並んで「江戸三大祭り」の一つ。朝早くに八幡様を出発した神輿は、江東区を練り歩いたのち、清洲橋を渡って中央区へ。箱崎を通り、新川でお昼を迎え、永代橋を渡って、再び八幡様へ。江戸時代にはこの永代橋が祭でごった返す中で崩落。大惨事になったことは有名で落語「永代橋」の題材にもなっています。この日の前後は天気が悪かったですが、この日は幸い雨も降らず、日の光に掛ける水がキラキラと反射し、熱気の中にも幻想的な写真が撮れました。 清洲橋を渡って中央区箱崎へ 永代橋を渡り、再び深川へ。水上バスの人の視線も橋上へ。 ◆ 東京駅八重洲口発のバスに乗って
土曜日の夕方の東京駅。いやぁ、今日も暑い1日だった。 これから中央区の勝どき駅に行かないといけないので、八重洲口から出ている「深川車庫前」行きのバスの乗り場を探した。
丸の内南口から出ているバスを使っても、勝どきに辿り着くことが出来る。しかも有楽町や銀座や築地の街並みを見ながら。でも今日は、八重洲口発の都営バスにしてみた。
このルートのバス停はたぶん、東京に詳しくない人だと、聞き慣れない名前が多いかもしれない。
17:46 東京駅八重洲口 17:47 通り三丁目 17:49 八丁堀二丁目 17:50 亀島橋 17:51 新川 17:54 新川二丁目 17:55 鉄砲洲 17:57 湊三丁目 17:58 明石町 18:00 聖路加病院前 18:01 築地七丁目 18:03 勝どき橋南詰 18:04 勝どき駅前
中央区の中でも下町色の濃い、ディープなエリアを通るこのバス。本数こそ少ないが、乗るたびに違う味がしてくるので、たまに乗りたくなってしまう。列に並び、バスに乗り込んで、今日は初めてバスの一番前に陣取ってみた。
バスは東京駅から八重洲通りを真っ直ぐに、新川・佃方面へと走っていく。八重洲通りの左側が昔の日本橋区、右側が京橋区だったので、その境を走っている。 中央通りとの交差点にある『 平和の鐘』を横目に過ぎていくと、不思議な名前のバス停「通り三丁目」に停まる。 名の由来は、八重洲通りでもなく、中央通りでもない。昔の町名「通(とおり)」から来ているらしい。 今の中央通りは江戸時代、日本橋を起点として延びていた東海道の道筋で、その東海道の最初の区間、日本橋と京橋の間の道沿いに賑った細長い町の名前が「通」。江戸時代の初めから栄えた商業地だ。 昭和48年にその町名は消えてしまったものの、バス停にその名前を残してくれている。なんとも嬉しいバス停である。
バスはビジネス街を抜け、亀島川に架かる亀島橋を渡り、新川地区に入っていく。
「新川」の名前は、かつて東西に流れていた運河の名前に由来するというが、今はもう、埋め立てられてしまっている。
今度の日曜日の深川八幡祭りでは、この辺りも55基のお神輿が巡行する。隅田川の人気のある2つの橋をお神輿が渡るので、とても好きな夏祭りだ。 深川から清洲橋を渡ってきて、箱崎や、ここ新川地区を通り、永代橋で隅田川を渡り直して深川の富岡八幡宮へと戻っていく。特に永代橋辺りは見物人の溢れる人気エリアとなっている。
この祭りの特徴でもある「水かけ」の風景は各所でみられ、それを見ているだけでも、この祭りにかける人々の情熱を体感でき、感動もできる夏祭りである。
また新川地区は、昼食のための休憩タイムにあてられているエリアなので、その間、お神輿の博物館状態になる場所でもある。まじまじとお神輿自体を見物してみたい人には、良い場所かもしれない。
さて、このまま八重洲通りを真っ直ぐに進んでいくと、「中央大橋」で隅田川を渡ることになる。しかしバスは八重洲通りをサヨナラして右に曲がる。
曲がったかと思えば、すぐ「新川二丁目」のバス停で停まり、発進したら目の前にある「高橋」を渡らずに左へと折れる。何だか慌ただしくなってきた。 この慌ただしさは、バスが亀島川を渡るのにわざわざ「南高橋」を選んでいるせいではないのか、という疑念を生じさせる。
南高橋は、この辺りの橋の中でも、粋な作りの橋だ。関東大震災の復興で架け替えられた旧両国橋の部材を使っているので、レトロ感が満載である。川を渡るのにこの橋を選ぶとは、このバスも、なかなかニクいことをしてくれるものである。
バスは、鐵砲洲稲荷神社の前にさしかかる。バス停も「鉄砲洲」。面白い名前である。かつて隅田川の河口辺りにあった洲が、鉄砲のような細長い形をしていたから、とも言われているが、面白い名前にしては、少し理由がつまらない。
佃大橋の高架の下をくぐった先が明石町。やたらと「◯◯発祥の地」という、石碑やら記念碑やらの多いエリアに入っていく。 この辺りは開国後「築地居留地」として、東京の中でも新しい外国の文化が、いち早く入ってきたことがその理由だが、そもそもこの明石町という名の由来は、兵庫県の明石の浦の風景に似ていたから、という説がある。 江戸時代の人は、明石町の海の先に浮かぶ佃島を淡路島に見立てていたに違いなく、きっと綺麗な江戸の海の風景が広がっていたのだろう、と想像ができる。
『平和の橋』の下にある「聖路加病院前」のバス停で停まった。この『平和の橋』の名付け親は、先日105歳で永眠された日野原重明先生なのだそうだ。 微かに鐘の音が聞こえてくる。聖路加病院の18時の鐘の音である。雰囲気のよい場所には、よいメロディが流れるものだ。この鐘の音とともに、日野原先生の平和への想いも、ここ明石町の空の下で受け継がれていくのであろう。
そしてバスは、昔、小田原町と呼ばれていた街を抜けていく。この辺りを裏築地と呼ぶ人もいて、隠れた名店が多いところであるが、路地裏の道に入っていったりすると、思わぬ建築が目の前に現れたりして、ビックリする場所でもある。
晴海通りを左に曲がるとすぐ勝鬨橋。この橋が一番格好よく見えるのは、自分で車を運転して渡る時だと、この前運転して思った。なので今日は一番前に陣取って橋を見てみたかった。やっぱり自分で運転した時のほうが、格好良く見えたと思う。
橋を渡った先が勝どき。いろいろな所を巡ってきたが、意外とあっという間である。
時間があったので「勝どき橋南詰」のバス停で途中下車した。今日は隅田川の夕暮れが綺麗そうなので、勝鬨橋まで少し戻ってみようと思ったからだ。
隅田川テラスにおりて、夕涼み、といきたいところだったが、駅に向かわないといけない。仕方なくこの場所を後にし、勝どき駅まで歩いて、ちょっとした小旅行を終わらすことにした。
一石橋(八ツ見橋)
一石橋は、常盤橋・銭瓶橋・道三橋・呉服橋・日本橋・江戸橋・鍛冶橋と一石橋自身の計8つの橋が見えることから、当初八ツ目橋と言われていました。 木橋の架け替えが最後に行われたのは明治6年(1873年)、その当時の記録によると橋長=14間(25.2m)、幅員=3間(5.4m)と言われています。想像ですが、江戸時代の橋もこの程度の大きさだったと予想されます。 満よひ子の志るべ江戸期~明治期にかけて付近はかなりの繁華街であり、迷い子が多く出ました。当時は迷い子は地元が責任を持って保護するという決まりがあり、地元西河岸町の人々によって安政4年(1857年)2月に「満よひ子の志るべ(迷い子のしるべ)」を南詰に建てました。しるべの右側には「志(知)らする方」、左側には「たづぬる方」と彫られて、上部に窪みがありました。使用法は左側の窪みに迷子や尋ね人の特徴を書いた紙を貼り、それを見た通行人の中で心当たりがある場合は、その旨を書いた紙を窪みに貼って迷子、尋ね人を知らせたということです。このほか浅草寺境内や湯島天神境内、両国橋橋詰など往来の多い場所に数多く設置されたようです、現存するものは一石橋のものだけです。 昭和17年9月に東京都指定旧跡に指定され、昭和58年5月6日に種別変更され東京都指定有形文化財(歴史資料)に指定されています。 一石橋が話題に出てくる「十徳」という落語を一席紹介しますので、お寛ぎ下さい。 *********************************************************** ふだん物知り顔な男がおりまして、髪結床で仲間に「このごろ隠居の着ている妙ちくりんな着物は何と言う」と聞かれたが、答えられず、恥をかいたのがくやしいと、早速隠居のところへ聞きにまいりました。 隠居は自分が来ている着物を見せて、「これを十徳という。そのいわれは、立てば衣のごとく、座れば羽織のごとく、ごとくごとく(5+5)で十徳だ」と教えました。(以下の2枚の写真は十徳を着た様子です。参考に示します) (立てばシャクヤク、座れば牡丹という言葉がありますが、落語では「立てば衣のごとく、座れば羽織のごとく」と余り色気がありませんな) 「一石橋という橋は、呉服町の呉服屋の後藤と、金吹町の金座御用の後藤の二人が地震で倒壊した橋の架け替えのために金を出し合ったから、「ゴト(五斗)とゴト(五斗)で一石だ」とウンチクを一くさり。ここまでは良かったのですが、八さんは髪床に戻って、物知り顔で話し始めたのについた時にはきれいに忘れてしまって大弱り。一部省略 ・・・・「違った、立てば衣に似たり、座れば羽織に似たり、ニタリニタリで、うーん、これは(2+2)したり」 結局八さんは、ごとくごとくで十徳という説明をする積りが、(2+2=4)したりとなってしまう一席でした。 ******************************************************** このように名称のいわれが落語に出てくるほど一石橋の名称の由来は有名なものでした。 落語は文章を読むものではなく、聞くものですね。お粗末。Youtubeで談志等の「十徳」を聞くことができます。ブログを見ながら聞いて笑っていただければ幸いです。 |
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