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「日本橋」、「江戸」そして「江戸っ子」(3)

[CAM] 2017年9月 6日 18:00

三.「江戸っ子」とは

(1)山東京伝による「江戸っ子」の定義

 「江戸っ子」の定義としては山東京伝(1761~1816)によるものが有名であり、「江戸城の鯱をみて水道の水を産湯とした」「宵越しの銭は持たない」「食べ物や遊び道具がぜいたく」「生粋の江戸のはえぬき」「いきとはりを本領とする」といった条件を満たすのが江戸っ子とされている。山東京伝著『通言総まがき』の原文は以下の通りである(『日本古典文学大系』第59巻「黄表紙洒落本集」岩波書店1958年)。

「金の魚虎(しゃちほこ)をにらんで、水道の水を、産湯に浴(あび)て、御膝元に生れ出ては、おがみづきの米を喰(くらっ)て、乳母日傘(おんばひからかさ)にて長(ひととなり)、金銀のささごはじきに、陸奥山(みちのくやま)も卑(ひくき)とし、吉原本田のはけの間(あい)に、安房上総(あはかづさ)も近しとす。 隅水(すみだがは)の鮊(しらうを)も中落(なかおち)を喰ず、本町の角屋敷をなげて大門を打(うつ)は、人の心の花にぞありける。 江戸ッ子の根生骨(こんじやうぼね)、萬事に渡る日本ばしの真中(まんなか)から、ふりさけみれば神風や、伊勢町(いせてう)の新道に、奉公人口入所といふ簡板(かんばん)のすぢむこふ、いつでも黒格子に、らんのはち植(うへ)の出してあるは・・・・」

 こうした江戸っ子の条件を最初に読んだときは、「水道の水を、産湯に浴て」という部分に目がとまり、なぜ「水道」が「江戸っ子」の要件となるのか、不思議な思いがした。この点については、永井荷風の「井戸の水」(明治9年)という随筆を読むとその背景をよく理解できる。

「水道は江戸時代には上水と稱へられて、遠く明暦のむかしに開通したことは人の知る所である。上水には玉川の他に神田及び千川の二流があつたことも亦説くに及ばない。子供の時分、音羽や小日向あたりの人家では、江戸時代の神田上水をそのまま使つてゐたやうに覚えてゐる。併し今日とはちがつて、其頃の水道を使用するには、上水の流れてゐる樋のところへ井戸を掘り、竹竿の先につけた釣鐘桶で水を汲んだのである。

江戸のむかし、上水は京橋、両国、神田あたりの繁華な町中を流れてゐたばかりで、辺鄙な山の手では、たとへば四谷また関口あたり、上水の通路になつてゐた処でも、濫にこれを使ふことはできなかつた。それ故おのれは水道の水で産湯をつかつた男だと言へば江戸でも最繁華な下町に生れ、神田明神でなければ山王様の氏子になるわけなので、山の手の者に対して生粋な江戸ツ児の誇りとなした所である。(むかし江戸といへば水道の通じた下町をさして言ったもので、小石川、牛込、また赤坂麻布あたりに住んでゐるものが、下町へ用たしに行く時には江戸へ行ってくると言ったさうである。)」(岩波版全集17-32)

 

 
(2)「江戸っ子」生成についての考察

 以上の永井荷風の文章を読むと、明治の初め頃でも、「小石川、牛込、また赤坂麻布あたりに住んでゐるものが、下町へ用たしに行く時には江戸へ行ってくると言った」ということが解る。よく「芝で生まれて神田で育った江戸っ子」などと言われるが、既に述べたように、元来は、神田や芝さえもが、「江戸」という地区には含まれていなかったのである。 

池田弥三郎氏は、以下のように述べる。(『日本橋私記』)

「歴史的には、江戸っ子とは、もし、将軍のおひざもとの江戸の町の出生者ということになれば、今の中央区の、旧日本橋、京橋区内の人々が、その中心をなしていて、ごく古くは、神田も芝も、江戸ではなかった。もちろん、浅草も江戸の外だ。しかし、時代とともに、芝で生まれて神田で育った者も、江戸っ子となって来たし、川向うの本所深川も、江戸の中にはいってきた。」

そして、

「金銭についての気質を説くにしても、江戸の本町を中心にした、商人の階級に属する人々を対象にした時には、宵越しの銭は使わないどころか、堂々と貯めた人々の気質をみつけなければならない。講釈や落語の世界に出没する概念の江戸っ子から気質をひき出すことは、危険が多いのである。」

「江戸っ子」については、西山松之助『江戸っ子』(吉川弘文館、1980年)という書が委細を尽くしているが、『平凡社大百科事典』における竹内誠氏による説明が簡明でわかりやすいので、以下、これによると(引用はDVD-ROM 1998年版による)、

「江戸っ子という言葉は,18世紀後半の田沼時代(1760~86)になってはじめて登場してくる。(筆者注;山東京伝は1761~1816)・・・・それには二つの契機が考えられる。一つは,この時期は経済的な変動が激しく,江戸町人のなかには金持ちにのしあがる者と,没落して貧乏人になる者との交代が顕著にみられた。 おそらく,この没落しつつある江戸町人の危機意識の拠りどころ=精神的支柱として,江戸っ子意識は成立したといえよう。」

「田沼時代には,江戸に支店をもつ上方の大商人たちが大いに金をもうけ,江戸経済界を牛耳っていたので,とくに経済的に没落しつつあるような江戸町人にとって,『上方者』への反発は大きかった。・・・・・『宵越しの銭を持たねえ』と突っ張るのも,金もうけの上手な上方者に対する経済的劣等感の,裏返し的な強がりとみられる。」

「もう一つの契機は,農村では食べていけなくなった貧農たちが,この時期にいまだかつてないほど大量に江戸へ流入したことである。そのため江戸には,田舎生れが大勢生活するようになった。しかもこれら『田舎者』が,江戸者ぶりをひけらかすことに対して,江戸生れどうしの強烈な〈みうち〉意識が芽生えた。」

 西山氏は、「江戸ッ子という人たちは、単純な階層による単純な構造をもつ特定の存在ではなく、二重構造をもっている」として、「主として化政期以降に出現してきた『おらぁ江戸ッ子だ』と江戸っ子ぶる江戸っ子」(自称江戸っ子)と、「日本橋の魚河岸の大旦那たち、蔵前の札差、木場の材木商の旦那たち、霊岸島や新川界隈の酒問屋とか荷受商人というような、元禄以前ごろから江戸に住みついて、江戸で成長してきた大町人ならびに諸職人たち」(本格的江戸っ子、高度な文化を持った豊かな人たち)とに分けられる」とする。

 

 

 関西人である私は、「江戸っ子」という言葉というか人種に対して生理的嫌悪感を感じ、海保青陵(1755~1817)による「江戸ものは小児のやうなり、馬鹿者のやうなり、甚だ初心なり」(升小談)という論に共感、同感してきたのであるが、「元来の江戸」というべき日本橋の歴史・文化を知り、はじめて、「江戸」、「江戸っ子」に対して、反感のない理性的認識を持つことができるようになったと思う。

(おわり)

 

 

本銀通り 日本橋室町4丁目から本石町付近まで

[銀造] 2017年9月 6日 12:00

昭和通りに面した、中央区立地蔵橋公園に、

『 千代田区神田「竜閑川埋立記念」中央区日本橋 』という札が立っています。

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ここが、中央区と千代田区との区境で、中央区立地蔵橋公園です。ここを真っ直ぐ進むと「福田稲荷神社」が鎮座されています。

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この一つ南側の昭和通り沿いの陸橋の下に、交番があり、そこから西に向かって「本銀通り(HON-SHIROGANE-DOORI)」が伸びています。

この界隈は、日本橋室町4丁目で、沢山の企業が活発に営業なさっているので、飲食店も多いです。

この通りでは、「匠上 日本橋室町本家」という焼肉・しゃぶしゃぶ・すき焼きの店を見つけました。日本橋室町4-6-5室町CSビルB1Fです。沢山ある肉類のメニューからランチを選びましたが、生憎写真を撮影するのを忘れてしまいました。()

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 親切な店員さんが、「夕方5時から30分間、¥500の飲み放題プランがありますよ!」と教えてくれたので、次回は仲間を誘って行こうと決めました。

 

そして、中央通りまで来て、案内板を確認してみました。区境がハッキリ確認出来ました。

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ここから中央通りを越えて直ぐの右側に「家内喜稲荷神社」が鎮座されています。案内板の間から、鳥居が見えますでしょうか?

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 ここを真っ直ぐ行くと、左側には蕎麦の名店「室町砂場」があります。(写真は逆方向からの撮影)

「室町砂場」は、天ざる・天もり発祥の店と、中央区はじめて物語マップで紹介されています。そこには、『「そばの芯だけを挽いた更科粉を卵でつないだ「天ざる」を創案したといわれています。暑い夏でも天ぷら蕎麦を食べやすい様に、つけ麺状にしたものが天ざるのはじまりといわれています。』

 

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室町砂場から、堀田丸正と進んでいくと、竜閑橋のところまで到達するのですね。 

 

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達成感で充実した2週間がかりのツアーでした。

 

 

 

逍遥 龍閑川の痕跡

[あすなろ] 2017年9月 6日 09:00

明暦の大火(1657年)後に掘り割られた人口の運河
「龍閑川」がありました。

 

千代田区大手町付近の日本橋川より始まり、小伝馬町付近
で浜町川に合流。流れは直角に折れ、浜町川として、浜町、
人形町、箱崎を経て、隅田川へ流れ込むものでした。

 公園内.jpg

 

この川は、千代田区と中央区の区界となり、昭和25年に
埋め立てられたあと、龍閑児童公園(千代田区)、龍閑児童
遊園(中央区)と2つの名前を持つ公園ができました。

 龍閑児童公園s.jpg 龍閑児童遊園s.jpg

 

公園の隣には、江戸七森の一社である竹森神社が
お祀りされています。

 竹森神社.jpg

 

◆龍閑児童遊園/龍閑児童公園
東京都中央区日本橋小伝馬町19-5
/千代田区岩本町1-14-1

 

◆竹森神社
東京都中央区日本橋小伝馬町19-4

 

 

「日本橋」、「江戸」そして「江戸っ子」 (2)

[CAM] 2017年9月 5日 18:00

二.「江戸」の成り立ちと範囲

こうして、日本橋地区からさらに現中央区の歴史に触れていくうちに、今まで不勉強であった「江戸」の成り立ちなども知るようになった。現東京都中央区の前身である日本橋区・京橋区が正式に成立・発足したのは明治11年(1878)であるが、その直前に作られた「区画改正に関する下調書類」によると、そこには日本橋区・京橋区の名称がなく、北江戸区・南江戸区の名がある。つまり、原案者は、日本橋・京橋両区の地域を「江戸」と考え、これを南北二つに分けて、北江戸区・南江戸区と称しようとしたものらしい。『中央区史』は「往時、神田堀を境界とし、以南を江戸とし以北を神田とした」という文献(『再校江戸砂子』『江戸往古図説』)を引いているが、このような考えは、明治11年になっても存していたことがわかる。なお、中央区成立の際(1947年)にも、新区名を「江戸区」「大江戸区」とする案も有力であったという。

そもそも、「江戸」の語源は「江処」であると考えるのが妥当ではないか。「え」というのは海岸からはいりこんだ、船がかりするのに絶好な水域のことである。家康公「江戸お打ち入り」(天正18年:1590)の前の東部の平地は、どこもかしこも「汐入りの芦原」であって、これを築填する大土木工事によって、"江処"というべき、お城の前面の町がおよそ出来上がった。その後、文禄2年(1593)には、日比谷入江が埋められ、そこに散在していた民家は芝口の南に移された。さらに慶長8年(1603)には「豊島洲崎の築填」といわれる大工事によって、今の隅田川右岸の地が、浜町から新橋あたりまで出来上がったようである。この築填につれて、下町の掘割も形を整え、日本橋川、京橋川、新橋川も、そして、面目を一新した日本橋も、この時に出来たと思われる。さらに、明暦3年(1657)の大火の後、木挽町の海岸の築填を行って、この時に築地一帯が完成し、旧日本橋区・京橋区の大体が出来上がった。

したがって、「江戸」という地域は、北は神田堀(竜閑川)を限りとし、南の境界は新橋川であった。 この新橋川に架かる難波橋は、江戸を追放される者の放逐個所となっていた。そして、新橋川を渡って芝に行くと、そこに兼康祐元の本店があった。さらに、本郷の近くにある小橋も、やはり江戸払いの罪人を追放する「別れの橋」となっていたが、その本郷の別れの橋の近くに"も"、兼康の支店があった。 池田弥三郎氏によると、「本郷も、兼康までは江戸のうち」という川柳は、以上のように、江戸の南北の「別れの橋」の何れにも、その近くに兼康があるということを踏まえてできたものであって、「本郷も」の"も"はそういう意味だと言う(『日本橋私記』1972年)。たしかに、池田氏のように解することによって、"も"という助詞が活きてくるように思われる。そして、そう解すれば、「江戸」という地域を、元来は、「北は神田堀(竜閑川)を限りとし、南は新橋川(汐留川)を境とする」という考えをよく理解できる。

池田弥三郎氏は「おそらく、江戸の下町は、山の手に対立するダウン・タウンを意味する呼称となる前には、もっと、誇り高い、お城のひざもと、江戸の城下町、しろしたのまちという意味だったに違いない。江戸の、本町、通町といった、生ッ粋の江戸の中の江戸、江戸の町の、城下町としての発祥地ということだったに違いないのである。しろしたとか、お城したとかいうことばはある特有の誇りをもっている。・・・・・・・・・

江戸の、その城したの町がした町である。だから、始まりは、江戸の下町はほんの狭い地域であって、大川の向こうの本所・深川はまだ海か、湿地帯であって町をなしておらず、神田も江戸のそと、浅草に到っては、江戸より古くからあったが、観音様の門前町で、一宿駅のような地区にすぎなかった。神田や浅草、下谷、それに本所・深川までが下町になってくるのは、ずっと後のことであって・・・・・」と述べている(『日本橋私記』)。

「江戸の範囲」についての幕府の正式見解とも言うべき「朱引」(寺社奉行の管轄範囲)、「墨引」(町奉行の管轄区域)が提示されたのは、文政元年(1818)であるから、家康入府以来230年近く経ってからのことである。「江戸の範囲」について論じる際は、どの時点、どの段階での話なのかを明示する必要があろう。しかるに、「江戸時代」とひとくくりにして論じたり、時代初期の事象についてであるにもかかわらず、朱引による領域を当然の前提であるが如くに述べたり、江戸時代後期における社会状況を時代全体についてのもののように語る文章があるが、徳川幕府が成立し(1603)大政奉還される(1867)までの間でも260年以上に及んでいる。これは、アメリカ独立宣言(1776)から現在までの期間(240年)よりも長いのである。

(続く)

 

 

日本橋クルーズ

[達磨] 2017年9月 5日 09:00

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異常気象が毎日の夏休み、歴史好きの6年生の孫と日本橋川~隅田川~神田川の船旅です。家康の開拓した足跡を巡ります。

日本橋魚河岸跡のトイレを使い、架橋100周年(2011年)を機に造られた「日本橋船着場 双十郎河岸」から出航です。

 

日本橋川】・・・天井に手が届きそうな距離で迫ってくる「江戸橋」―1872年創架「兜橋」―「茅場橋」―日本橋水門―「湊橋」  ~墨田川に注ぐ河口部に架かる1698年創架「豊海橋」をくぐると、下流近くに創架1698年筋骨隆々「永代橋」です。

日本橋水門.JPG 豊海橋.JPG

 

IMGP0239.JPG

隅田川】・・・スカイツリーを水面正面に水辺の景観を愉しみながら運河船が進みます。
上流の1979年架橋「隅田川大橋」-1928年竣工「清澄橋」-右手小名木川-1693年創架「新大橋」-1659年架橋当時大橋の呼び名の「両国橋」・・・

 

1698年創架「柳橋」をくぐって【神田川】に入りました。屋形船が並び、江戸の舟遊びの賑やかさに触れました。

柳橋神田川.JPG

 

日本橋5.jpg


旧平川水路の【神田川】を名橋「聖橋」「万世橋」「御茶ノ水橋」・・・と千代田区、文京区の街中を進みます。
後楽園先を折れて、-明治期には掘り直しで外濠川と呼ばれた日本橋川を進むと「雉橋」「一ツ橋」「錦橋」、この間の城側岸には江戸城の藩の刻印がある石垣が残っていました。

 

常盤橋.JPG


下流中央区、都内最古の石橋・・・
「常磐橋」は、老朽化と東日本大震災により、落橋の危険性があるために、改修工事中。「一石橋」-「西河岸橋」を進んで、飾灯柱にライトが灯る日本橋船着場に戻ってきました。

 

日本橋獅子1.JPG


日本橋には橋(8×4)にちなんで、
32頭の獅子像が配置されているとか・・・

橋上からは見えない獅子のお迎えでした。

 

 

「日本橋」、「江戸」そして「江戸っ子」 (1)

[CAM] 2017年9月 4日 18:00

学生時代にお世話になったある会の会誌に、これまでのブログへの投稿をまとめて寄稿しました。

 あらためて、本ブログにも出させて下さい。     

 

一.旧日本橋区と大阪

 
(1)旧日本橋区と私との出会い

私は、大学に入学して東京へ来て以来、西部地域に居住することが多かったから、日本橋地区についてはほとんど馴染みがなかった。そして、この十数年、東京都中央区(その辺境地帯であるが)に居住するようになってからも、銀座・京橋側から日本橋川を渡った地域へ出かけることはほとんどなかった。ところが、数年前の正月、たまたま三越百貨店が主催した「日本橋七福神めぐり」なる行事に参加し、旧日本橋区の市街を歩きまわってみて、不思議ななつかしさを感じたのであった。その町並みは、私が幼少期を過ごした地域を想起させるものであった。

日本橋で生まれ育ち、「ふるさとは田舎侍にあらされて昔の江戸のおもかげもなし」と詠んだ谷崎潤一郎は、次のように述べている。

「関西の都市の街路を歩くと、自分の少年時代を想ひ出してしみじみなつかしい。・・・・大阪の谷町、高津、下寺町辺へ行くと、『あゝ東京も昔はこんなだったなぁ』と思ひ、忘れてゐた故郷を見付けたやうな気がする。」(「私の見た大阪及び大阪人」初出1932年)

大阪市中心部で育った者が、渋谷、本郷等の市街について感じる違和感は、坂が多いこと、街路が碁盤目となっていないことである(大阪市中心部である船場、島之内地域などの区画は秀吉が造成したままが残っており、区画はほぼ碁盤目になっている)。大阪市内では、(淀川から流れ出た土砂の沖積によってできたのであるから当然のことであるが)上町台地への坂を除けば、市街中心地に坂はない。そして、東京都中央区内にも(大部分は埋立によって造成されたのであるから当然のことであるが)坂はない。

  ところで、私が通った小学校、中学校(大阪市中央区)は、御堂筋と心斎橋筋に面した大丸百貨店に対してその東西に位置していた。したがって、私にとって、「大丸」とは百貨店の代表的存在であり、東京駅八重洲口に東京店を開設した(1954年)のは、戦後になってからの東京への「(初)進出」だと思い込んでいた。

しかしながら、日本橋で生まれ育った長谷川時雨の、「最も多く出てくる街の基点に大丸という名詞がある。これは丁度現今三越呉服店を指さすように、その当時の日本橋文化、繁昌地中心点であったからでもあるが、通油町の向う側の角、大門通りを仲にはさんで四ツ辻に、毅然と聳えていた大土蔵造りの有名な呉服店だった。」(『旧聞日本橋』初版1935年)という記述を読み、その東京店は、かつては日本橋を代表するような存在であったことを知った。

サイデンステッカーは、次のように述べている。

「(路面)電車の影響はさらに大きかった。呉服屋の大丸などその典型である。現在のデパートの中には、かつての呉服屋から発展した例がめずらしくないが、大丸もその一つで、18世紀に日本橋で開業し、明治の中頃には三越などより繁昌していた。長谷川時雨も書いているように、大丸は『丁度現在三越呉服店を指すように、其当時の日本橋文化、繁昌地中心点であった』。けれども大丸はほかの店とちがって、銀座から上野へ抜ける電車通りに面していなかった。そこで次第に客足が遠のき、明治の末には東京の店をたたんで関西に撤退せざるをえなくなった。東京に帰ってきたのは第二次大戦後のことで、ただし今度は交通の便から外れまいと、東京駅の駅ビルの中に店を構えたわけである。」(『東京下町山の手(LOW CITY, HIGH CITY)』原書1983年)

 
(2)東京日本橋地区と大阪

こうしたことを知ったことがきっかけとなり、中央区内(日本橋・銀座・築地・明石町など)を、その歴史などを考えながら散策するようになった。これにより、旧京橋区内も、(私が育った頃の大阪市中心部と同様に)かつては三十間堀、築地川などが流れる「水の都」であったことを、あらためて知った。成瀬己喜男監督映画に描かれた昭和30年代の銀座、築地川周辺の風情には、同時期の大阪市中心部と共通するものを感じる(当時の大阪の経済力は、東京と比べてそれほどの遜色はなかったと思う。私鉄王国関西出身者にとっては、当時の井ノ頭線などは田舎電車としか思えなかったし、地下鉄御堂筋線を見慣れた大阪人にとっては、銀座線、丸ノ内線などという当時の東京地下鉄はかなり貧弱に感じられた)。

戦後の残土処理などを目的として三十間堀が埋立てられたことにより、旧木挽町あたりが銀座との境界がなくなったこと、こうしたことにより、一帯の地名が、銀座西・銀座東からさらに(銀座の東側を含む)銀座1~8丁目に変わり、"銀座"と称する地域が広く拡大されていることも、大阪長堀川埋立により船場と島の内の境界がなくなったこと、大阪心斎橋筋の東西にあるかなり広い地域が東心斎橋・西心斎橋というような地名を称するようになったことと同様である。

こうして現中央区の歴史などを調べるにしたがって、中央区成立の際(1947年)、歴史と伝統を誇る旧日本橋区が、新興地区である旧京橋区との統合に最後まで抵抗したという事実(旧日本橋区地名の頭に日本橋が冠されているのは、こうした経緯による)も知った。そこには、経済力においてさえ"新興"地域である東京への集中に圧倒されつつある関西人の心情と共振するところがある。

サイデンステッカーは次のように述べている。

「日本橋は今日でも東京の、さらには日本全体の金融の中心と呼べるかもしれない。日本銀行も証券取引所も日本橋にある。けれども大企業は、ほとんど日本橋からほかの土地に出ていった。三井銀行や第一国立銀行も...本店はもう日本橋にはない」(『東京下町山の手』)。

「昭和4年に東京の盛り場を調査した記録があるが、・・・・この調査で名前が挙がっているのは銀座、新宿、上野、浅草、渋谷、それに人形町と神楽坂だが、今なら東京の代表的な盛り場として、人形町や神楽坂を挙げる人はまずあるまい。・・・・・・・

人形町は、明治期には大いに活気があったが、震災後は、今日に至るまで衰退を続けている。昔の日本橋区の大半は、かつては自他共に認める江戸町人文化の中心だったけれども、みな同様の運命をたどった。人形町にしても、昔日の下町の面影を探訪するには格好のところではあるが、人が集まるという点では、新宿のようなところとは比較にもならない。」(『立ち上がる東京 (Rising Tokyo) 』原書1990年)

矢田中央区長は、「日本橋から大企業の本社機能の転出が始まったのは昭和50年代前半のことである。流通機構の変化が叫ばれ、日本橋に集積していたさまざまな問屋に陰りが感じられるようになったのは50年代後半である。・・・・そして平成10年以降には、バブル経済の崩壊や金融再編の流れの中で日本銀行の周辺から地方銀行など金融機関が消えていった。・・・・・・このような変遷と・・・変化によって、いつのころか誰言うともなく『日本橋の地盤沈下』がささやかれるようになったのである」(「日本橋ルネッサンス」2007年)と述べている。 この矢田区長の叙述など、「日本橋」の部分を「大阪市(中央区)」に入れ替えてもそのまま通用するのではないか。

その東京日本橋地区であるが、最近は再開発計画が次々に出来て、再興への動きが著しいことは喜ばしい。また、東京・日本橋の老舗商店の有志がロンドン屈指の商業地・メイフェアと連携して販路開拓や観光客誘致で共同事業を展開しているというような動きも聞く。金融街兜町近辺再開発の機運も高まってきたようである。中央区は外資系を含む金融関連企業などの誘致に向け、新たな計画を策定するという。最大の象徴的事業は、日本橋をまたいで景観を破壊している高速道路の地中化であろうが、なんとか立派に実現して欲しいものである。

それにひきかえ、大阪経済の地盤沈下が一向に止まらないどころか、加速さえしているように思えることは、悲しく寂しい。再度の万国博が実現したとしても、これを中長期的な再興に繋げていけるのだろうか。

(続く)