区内にできた某100均にいったついでに近くにある京橋築地小学校にいってきました。築地本願寺や市場、銀座も近いところにあります。開校は26年前ですが、もとは明治34年開校の築地小と明治42年開校の京橋小が前身です。かなり歴史のある学校で、現在270人の児童がいるそうです。校歌は歌人の土岐善麿が作詞しています。臨海学校での遠泳や持久走、読書活動など心と体の成長に力を入れています。周辺にはマンションもたくさんあるので、ますます児童が増えるかもしれません。
執筆者一覧最近のブログ記事 |
中央区学校巡り②京橋築地小学校
区内にできた某100均にいったついでに近くにある京橋築地小学校にいってきました。築地本願寺や市場、銀座も近いところにあります。開校は26年前ですが、もとは明治34年開校の築地小と明治42年開校の京橋小が前身です。かなり歴史のある学校で、現在270人の児童がいるそうです。校歌は歌人の土岐善麿が作詞しています。臨海学校での遠泳や持久走、読書活動など心と体の成長に力を入れています。周辺にはマンションもたくさんあるので、ますます児童が増えるかもしれません。
明治に地域の熱い思いで創立された中央区の公立幼稚園ー明治22年京橋朝海幼稚園・明治28年常盤幼稚園
明治に入って急務を要する事業にの一つに、国民に対する教育があり、それにより国力を上げるという目的がありました。
********************************************************* 明治期に創設された京橋朝海幼稚園と常盤幼稚園をご紹介します。
中央区の幼児教育の歴史は古く、大正15年4月「幼稚園令」が公布される以前に、明治22年「京橋区幼稚園」」(現在の日本橋幼稚園)、明治28年「常盤幼稚園-休園」「阪本幼稚園-休園」「日本橋城東幼稚園」(現在の昭和幼稚園-休園)、明治36年「日本橋第一幼稚園」(現在の日本橋幼稚園)と、明治期に5園も創立されていたのである。
*********************************************************
*********************************************************
現在中央区には、東京都でも珍しく公立幼稚園のみが存在し、私立幼稚園は1園もありません。このような全国的にみても珍しい状況は、中央区の教育に対する強い姿勢の表れではないかと思われます。 「中央区教育百年のあゆみ』昭和49年3月30日中央区教育委員会発行を参考文献にしました。 (中央区立京橋朝海幼稚園長 竹谷直史様、中央区立常盤幼稚園長 斉藤 優様より、写真記載の承諾をいただきました) 住吉神社大幟(おおのぼり)の柱
本年8月3日から6日までの4日間住吉神社の3年に1度の大祭が催されました。安政4(1857)年刊、歌川広重による江戸名所百景にも祭りの様子が描かれ、中央の大幟は大変印象的です。
この大幟を支える柱は、7月1日に佃堀から掘り出されました。午前中から始まった作業は、「ダキ」と呼ばれる柱を支える組み木、計6か所分も掘り出すために、柱がクレーン車によってつり上がったのは午後4時も過ぎ、炎天下の中で長時間におよぶ作業でした。
柱は、一旦、2本は佃堀の近くに、4本は佃まちかど展示館近くに菰を巻かれ乾かされていました。
この柱、形が違う?地元の世話役の方によると、丸い柱は江戸のもの、四角い柱は昭和のものとのことでした。 後日、「住吉神社例大祭の歴史」資料によると、支柱6本のうち4本は、昭和62(1987)年に新調とあるのを見つけました。
大祭での役目を終えた柱は、8月12日に堀の中に移動されました。
そして本日8月26日、3年後の大祭に向けて柱、ダキの埋設作業が行われました。
柱の新調のきっかけが気になっていたのですが、地元の方から、「深夜に車がロープを引っ掛けてしまい損傷した」と伺えました。新しい4本も、江戸の柱同様に歴史を刻んでいって欲しいですね。 地元の方の心意気がこもった大幟が夏の青い空に江戸時代からはためいているということが、堀からの掘り出し、埋設作業を知ることで良くわかりました。
神輿のメインテナンス
中央区の多くの地域で夏祭りが行われ、伝統と交流のページェントが繰り広げれらました。このようなイベントがしっかりと根付いているのもこの地域の魅力の一つだと思います。
8月上旬に佃・月島地区を中心に催された「住吉神社例大祭」では、3年に一度の大イベントを盛り上げようと多くの人が集まりました。平成最後の大祭とあって、いつも以上に気合がこもったお祭りになりました。 お祭りの際の求心力を保つのはやはり御神輿ですね。神社の大神輿だけではなく、各町内の自前の御神輿もこの時は大活躍します。台座には戦前の製作時の寄進者の一覧が彫り込まれていることもあります。お祭りに対する思いのこもった御神輿は地域のシンボルです。
さて、お祭りが終わった後、多くの地域では神輿をメインテナンスにかけます。何といっても、祭礼中は揺られまくったわけですから、軋みや揺るぎがないかチェックし、細かな補修を行うことは次の祭礼に向けた準備でもあります。東京や千葉の神輿専門業者が丁寧に手直ししてくれます。その細やかな作業があるからこそ、祭礼時の華やかな姿が成立します。 今頃、夏祭りを終えた神輿がじっくりと手入れされているのではないかと想像することも風情があると思いませんか。 これを機に御神輿の構造や細かな造作に関心を持っていただけたら、さらにお祭りの興味の幅が広がると思います。
築地外国人居留地の名残り
明治維新から150年の今年、外国人居留地だった界隈を訪ねてみました。江戸から明治になったときに鉄砲洲に外国人居留地が開設されました。 築地明石町は、文字どおり築いた土地で、種子島に形が似ていることから鉄砲洲と称しました。三方を川に囲まれ、海からも近く、外国船が出入りしていました。築地の原と呼ばれていた荒れ地が数年で整備され新小港に。港底が浅かったために巨艦は入れず、横浜や神戸のような商業港にはならず、宣教師や医師、留学生が多く移住しました。
土地は区画で競り売りされ、運上所が管理していました。回りは塀で囲まれ、教会、学校、病院、住居など西洋建築の洋館が建てられました。そのほとんどが関東大震災で失われてしまったのは残念なことでした。
1900年に来日した宣教医師のトイスラーによって、1902年聖路加病院が発足し、1936年には敷地内に聖路加礼拝堂が建造されました。ネオ・ゴシック形式のこの教会は、日野原先生に「聖路加国際病院の心臓」と呼ばれて、患者や家族、病院職員や学生、地域の人々の祈りの場として親しまれています。現在、毎日礼拝が行われていて、十字架の塔からは、1日3回、鐘で聖歌のメロディ-が流れています。
聖路加国際病院の中庭に、トイスラー博士の住居だった記念館とアメリカ公使館跡に3基の記念碑があります。 また、立教学院、女子学院、明治学院などこの地を発祥とする学校も数多く石碑が置かれています。
聖路加国際病院から居留地通りを挟んで向かいには、居留地時代のレンガとガス灯が置かれています。奥は明石小学校、小学校の向かいは、東京で最古の教会、カトリック築地教会です。この一帯は戦災を免れた地域でもあります。
外国人居留地は、明治32年の条約改正に伴い廃止されましたが、聖路加国際病院を始め、その時代の西洋の精神、知識、文化は日本の文明開化に大きな影響を与え、受け継がれています。街を歩いて、あちらこちらで当時の面影に触れることができました。
隅田川テラス_永代橋
永代橋架橋は江戸幕府5代将軍徳川綱吉の50歳を祝し架橋されたそうで勝鬨橋が昭和15年に架けられるまで長いこと隅田川の第一橋梁でした。 現在より200mほど川上にその石碑がありますが、現在豊海橋工事の関係で撤去されています。 赤穂浪士の吉良上野介屋敷への討ち入後、隅田川をこの橋を使って渡りました。 江東区側に休憩した場所があります。 現在の永代橋は、関東大震災の復興事業の一つで大正15年に 架けられ国の重要文化財の指定を受けています。また日本銀行創業の地は、現在の日本橋日銀本店本館ではなく永代橋の近く箱崎町で、石碑があります。 中央大橋から永代橋までは新川公園を歩きます。
<<<< 新川公園 隅田川沿いの眺めの良い所のひとつです >>>> <<<< 力強い印象を受けます >>>> <<<<< 隅田川、船から >>>>>>>>>>
<<<< 橋名板ひらがなは 「えいたいはし」 で濁点はありません
隅田川沿いはどこも景色がよく桜の見所も多くあるのですが、 ここも最も良い所の一つです。桜の時期には多くの人が花見を楽しんでいます。 前回はカワヅザクラを紹介しましたが、永代橋西詰にも一本開花の早い (新川公園沿いの桜より2週間ほど早い)木があり、カワヅザクラの次に咲きます。
<<<<< ここも補強工事がなされています >>>>
永代橋も橋の下を通りますが、ここは道が低くなっているので潮が満ちているときは 水浸しになので通る際はご注意を。 |
メニューアーカイブリンク集 |