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威勢の良さで永代橋が揺れた!富岡八幡宮の御本社祭
こんにちは。新人特派員のHanes(ハネス)です 12日、富岡八幡宮(江東区)の御本社祭(二の宮神輿渡御)を見に行ってきました! 中央区内も通過するとのことで、永代橋付近で待機 通過1時間前にはカメラを持った地元の方や海外からの旅行客が詰めかけ、大賑わい。 さすが、赤坂の日枝神社の山王祭、神田明神の神田祭とともに「江戸三大祭」の一つに数えられるだけありますね 太鼓と眩しい笑みが印象的な関係者をのせたトラックが通りすぎてしばらくすると... 永代橋の手前(中央区)にて豪快な水かけ開始 (右下の写真:わかりづらくて申し訳ありませんが、水かけの様子の一部です。 水が随分と高くまで上がっており、遠くからでも見ごたえがありました!) そして、「ワッショイ!ワッショイ!」という掛け声とともに、大勢の関係者と神輿が近づいてきました。 関係者の威勢の良さにより、橋が揺れているのが分かり、 ふと「私もお祭りに参加しているのでは?」と思ってしまうような臨場感と迫力を味わうことができました 3年毎に本祭、御本社祭、蔭祭が行われるこのお祭りですが、今年は御本社祭の年。 八幡宮の御鳳輦が渡御を行う本祭(子、卯、午、酉の年に開催)では、 大小120数基の町神輿が担がれ、そのうち大神輿54基が連合渡御します 次の開催は2020年!オリンピック開催年ということで、非常に盛り上がりそうですね このお祭りでは、お神輿の渡御のみならず、楽器の演奏や舞、有名な水かけ等 様々なイベントが開催されます! 今年の例祭行事日程(8月11日(土)~15日(水))はこちらからご覧ください。 8月も残すところあと半月...中央区では多くの納涼祭の開催を控えています。 まだ残暑がきびしい時期ですが、熱中症に気を付けつつ、残りの夏も楽しみましょう 特派員も大満足!「ゆかたで銀ぶら」
こんにちは。新人特派員のHanes(ハネス)です 8月4日に前夜祭、5日に本祭りが開催された「ゆかたで銀ぶら」ですが、皆さんは参加されましたか? 昨年、涼しくなってから銀座へ散歩に行き、偶然このイベントを知った私にとって、 今年は「ゆかたで銀座ぶら」デビューの年となりました というわけで、前夜祭に参加するため張り切ってゆかたに着替えて泰明小学校へ 小学校の敷地内に入る機会はほとんどないので、ワクワク... 17時に屋台での販売がスタートしたのですが、 つばめグリル、維新號、三笠会館 秦淮春、銀座ライオン、千疋屋、虎屋菓寮等々、 「さすが銀座!」と言いたくなる屋台ばかり その中でも特に、千疋屋のマンゴーとストロベリーのフラッペが大人気。 夏らしく透き通り、花をモチーフにしたような可愛い容器もオシャレで、 買わずに見ているだけの人の目も十分に楽しませていました そして18時には、お待ちかねの盆踊りがスタート。 お決まりのラインナップに加え、銀座ならではの「銀座カンカン娘」やお子さんウケする「ドラえもん音頭」も流れました。 バブルリバイバルで認知度が一気に高まった「ダンシング・ヒーロー」では、会場が大盛り上がり (ダンシング・ヒーローを踊っている様子) 登美丘高校ダンス部のバブリーダンス程のキレはありませんが、 通常の盆踊りと曲調が異なり勢いがあるせいか、盆踊りの「ダンシング・ヒーロー」もなかなか良かったです 聞くところによると「ダンシング・ヒーロー」は、J-POPも盆踊りに取り入れるという 独自の文化を持つ愛知県の盆踊りで長く踊り継がれ、全国に広まったと言います (参考:朝日新聞DIGITAL 「盆踊りの定番に『ダンシング・ヒーロー』、その理由は?」 2017年8月4日) 矢場とん、コメダ珈琲店、世界の山ちゃん... 中央区には愛知(名古屋)グルメの進出が見てとれますが、 盆踊りの「ダンシング・ヒーロー」も愛知発だったとは初めて知りました 翌日、15時に始まる本祭の前には、先輩特派員サムさんが紹介していた 「夏の涼やかテラス」(ファンケル銀座スクエアに期間限定でオープン)へ 建物の入り口でサマースタンプラリーの台紙となるうちわ(ファンケル銀座スクエア15周年デザイン)をいただいたので、 血管年齢と握力測定(無料)といったちょっとしたヘルスチェックをしてきました! 今回初となる血管年齢チェックでは、思いがけずショックな結果に... 食生活に気を付けていても予想外の結果になることもあるので、 これからは定期的に血管年齢をチェックしに来ようと思いました スタンプを2つ集め、15周年オリジナルデザインのキットカットをいただき、 ゆかた着用者特典でくじをひいてきました! サムさんがお書きになっていた5日限定飴細工パフォーマンスでは、 ガラス細工、いや本物と見間違えるかのようなリアルな金魚が出現 日本人でも思わず見とれてしまう精巧さでした。 そして、15時からは2ヶ所で1回目の銀座涼風計画(打ち水)が行われました! 打ち水は一瞬で終わってしまいますが、見るだけで涼しさを感じられるので不思議 それに、こういったちょっとした工夫で路面温度が5度以上下がるんです 日本人が誇れるこの江戸の知恵は、これからも継承していきたいですね! その他、募金に協力して急須で淹れた冷たい日本茶やスターバックスの飲み物をいただいたり、 お江戸の出張水族館で、様々な種類の金魚を見たり、 氷祭りで、氷像の顔が融けて落下するのに驚きながら写真を撮ったり、 銀座通りを歩いているだけでも全然飽きませんでした 浴衣を着ていくとお得なサービスが受けられるお店もたくさんあるので、 屋外でも屋内でも楽しめるのが嬉しいですね! まだ「ゆかたで銀ぶら」したことがないという方、来年こそゆかたで銀座にいらしてみてはいかがでしょうか? 友達、恋人、家族と一緒は勿論、1人でも十分に楽しめますよ 涼々 風趣に富む庭園
エアコンが無かった時代、人々はどのように 暑い夏を過ごしてたのでしょう。
都立庭園では、日差しが強い夏季期間中に、 和傘の無料貸出しを実施しています。 そして、浜離宮庭園の「中島の御茶屋」では、 季節限定の抹茶セットを有料で提供しています。
冷たい抹茶とねりきりのセットを注文。 程よい苦味と甘みですっきり美味しく、 開け放されたテラス側から中庭に通り抜ける風は とても心地良かったです。
水辺の風景は視覚的にも涼しく感じます。 季節の感覚を楽しめる至福の時間でした。 この時期ならではのサービスを利用しながら 歴史ある日本庭園の風情を楽しむのはいかがでしょう。 くれぐれも熱中症対策は万全に! 芭蕉&蕪村 in 中央区
松尾芭蕉は、1680年(延宝8年)冬、まだ郊外であった深川に庵を結んで隠棲しましたが、この後世「芭蕉庵」と呼ばれる庵に移るまでの期間、日本橋周辺に居住したと考えられます。1677年(延宝5年)ごろから小田原町にいたというのが定説となっているようです。このことについては既に紹介していますが、再度、この地を確認してきました。 /archive/2018/05/post-5214.html 最近解読された古文書によると、芭蕉の当時の住所は「小田原町小沢太郎兵衛店」、小田原町は今の日本橋室町1丁目、当時は魚市場の近くで繁華な場所でした。
日本橋三越から中央通りを挟んだ対面近く、通称むろまち小路にある佃煮の老舗「日本橋鮒佐」の店先には、この頃に詠まれたと考えられる「発句也松尾桃青宿の春」の句碑があります。
そして、この現在の室町1丁目から、中央通りをさらにJR総武線新日本橋方向へ歩くと、室町4丁目、「石町時の鐘 鐘撞堂跡」(平成29年10月発行『中央区ものしり百科』36頁)と並んで「夜半亭―与謝蕪村居住地跡―」の説明板があります。
蕪村は、芭蕉が没して22年後、1716年(享保元年)摂津国東成郡毛馬村(現,大阪市)に生まれたのですが、1735年(享保20年)に江戸に下り、2年後に22歳で夜半亭の号を持つ俳人、早野巴人(はじん)の日本橋石町の家に同居しました。しかし、6年後に師が亡くなり、夜半亭は解散。蕪村は江戸を捨て、東北、京大坂、九州、四国などを回り、蕪村は二度と江戸に戻らなかったようです。 俗化した江戸俳壇を見捨てて放浪生活に入ったものと言われています。蕪村が2代目夜半亭を継いだのは師が没して27年後の1770年(明和7年)。京都で襲名したものです。 月島に「海水浴場」があった
月島地区をテーマに書くブログ最終回です。約100年前の東京のウォータフロント"月島地区"に海水浴場がありました。明治期に海水浴流行のきっかけをつくったのは、陸軍軍医総監の松本順(良順)で、医療とレクリエーションをかねて海水浴を奨励しました。 明治24年(1891年)大森海水浴場が、明治35年(1902年)には穴守海水浴場が、明治42年(1909年)には羽田海水浴場が開設されました。砂風呂などが人気を取り、大いに賑わったといわれます。大正時代に入ると「海水浴場」が都心を越えて月島・深川地区に波及し、大正2年(1913年)に完了した三号地の埋立(勝どき5~6丁目)と共に開設された月島海水浴場には、料理屋や宿泊施設・海の家が整備され大いに繁栄しました。下の地図では(三号地)の左側(西側)に海水浴場が見られます。 海水浴の様子を示す写真を見ると、今からは考えられない「ふんどし」姿の人が数多くみられます。 1930(昭和5年)年代になると、「海水浴場」は衰退し始めます。埋め立て・海水汚染のためです。 第二次世界大戦後、高度経済成長期を迎えたこともあり、東京に海水浴場がよみがえることはありませんでした。月島も然りです。今日の東京の海は海水浴には不適当な状況にありますが、人工海浜や親水護岸などの整 備も進んでおり、さらに水質の改善が進行することによって、将来再びそのにぎわいを取 り戻すことに大きな期待が寄せられている。 参考文献: 1. 平成17年度日本大学理工学部 学術講演会論文集「東京のウォータフロントにおける余暇文化の変遷に関する研究」 2. 中央区沿革図集(月島編) 関東大震災時の震度から考えること
東日本大震災以降、南海トラフを中心とした大地震の到来を心配しています。関東大震災時の東京府における推定震度から中央区の地層を考えてみたいと思います。 山の手・下町を含む江戸には埋め立てと堀の造成の歴史があります。江戸開府直後に、本郷台地から続く江戸前島の埋立により日本橋・銀座地区が作られ、日比谷入江を埋め立てて日比谷・有楽町・丸の内地区の武家屋敷地域が作られました。江戸時代には月島・晴海地区は海でした。 関東大震災時の東京府の震度分布を見てみましょう。赤坂溜池・麻布十番や江東区の赤数字(震度7相当)が気になります。 埋め立てられて造成されたのではない佃島は、隅田川の上流から流れてきた土砂が自然に堆積してできた土地であることから、標高は月島・勝鬨地区よりも高くなっています。関東大震災時の震度は"5"程度だったようです。一方隅田川を浚渫した土砂を使って埋め立てられた土地である月島・勝鬨・晴海地区は関東大震災時の震度は"5~6"程度だったと言われています。 埋立地だから月島・勝鬨地区の関東大震災時の震度はもっと大きいのではないかという先入観を持っていましたが、銀座・日本橋程度で小さくてびっくりしています。 今の中央区には江戸前島と呼ばれた砂洲がありました。その西側は、日比谷から大手町にかけて日比谷入江が入っていました。開府後すぐ、幕府は埋め立てをしました。 隅田川の東側は地盤が悪く、西側は地は良いと言われています。しかし一部洪積地盤に穴があいて、そこに沖積地盤が入り 込んでいるので、大手町側に激震地域があります。一方、江戸前島の地盤の良さは明確です。 不動産を購入する場合には、古地図を見て地形を確認しましょう。「山の手なら安心、下町は危ない」という地名だけに踊らされないように!関東大震災発生日=9月1日の前に一言でした。 |
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