慶長5年(1600)、1隻のオランダ船が豊後国臼杵(現大分県)に漂着した。その船に乗っていたヤン・ヨーステンとウイリアム・アダムス(三浦按針)は幕府の外交顧問として重用された。いま、中央区にゆかりの跡が残っているのはご承知のとおりである。
船の名は「リーフデ号」、その彫刻モニュメント(写真4)が丸ビル南側に飾られている。これは昭和55年(1980)、オランダ王国の首相が来日した際に同王国政府から贈られたもの。帆いっぱいの風を受け、荒波を航海する勇躍の姿を表現している。「リーフデ」とは"愛"を意味する。
ヤン・ヨーステンが屋敷地を拝領したのは、その名から命名されたという「八代洲河岸(やよすかし)」であった。のちの寛政9年(1797)には歌川広重が定火消組同心・安藤家で生まれたところ。現在の場所でいえば、皇居前の日比谷通り、馬場先濠に面した、丸ビルと同じ
明治5年(1872)に馬場先門から鍛冶橋にかけての一帯が八重洲町一丁目、同二丁目と呼ばれた〔注:東京市15区成立は明治11年(1878)〕。明治17年(1884)、外堀に「八重洲橋」が架橋。現在の東京駅八重洲口前である。昭和4年(1929)に「八重洲町」が麹町区丸ノ内二丁目と改称され、現
震災復興事業では東京駅に東口(八重洲口)を建設し、当時の京橋区と日本橋区の区境の道を拡幅、延伸した幹線7号街路が「八重洲通り」と名付けられた。このころから、本来の「八代洲河岸」とは隔てた場所であったが、東京駅の東側、つまり現中央区側が「八重洲」と総称されるようになったのであろうか。
それから25年後、戦後の昭和29年(1954)になって、こんどは中央区に町名の「八重洲」が一丁目から六丁目まで復活した。と同時に呉服町、槙町など旧町名がなくなった。東京駅東側の外堀が埋め立てられ、八重洲口も整備されつつあるこの時期に、大丸東京店も開店した。
昭和48年(1973)には八重洲一・二・三丁目が統合され八重洲一丁目に、昭和53年(1978)に八重洲四・五・六丁目が八重洲二丁目となって現在に至っている。ちなみに、現八重洲一丁目は旧日本橋区域だが、唯一「日本橋」の冠を付けていない町名であり、八重洲二丁目は旧京橋区域である。
八代洲から八重洲へ――、幾多の変遷を経て、いまも歴史を刻んでいる。
現在、