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中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

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月島草市

[CAM] 2015年7月13日 09:00

 月島草市については、『中央区ものしり百科』でも104頁に「お盆用品の市からはじまった季節市」と説明されています。

  

 今年(平成27年・2015年)は、7月11日(土)、12日(日)の二日間開かれました。

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 11日は、オープニング・セレモニーとして、佃中学校の生徒さんによる太鼓の演奏も行われていました。

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メイフェア(Mayfair)

[CAM] 2015年7月11日 19:00

メイフェア(Mayfair)をWikipediaで見ると、以下のような説明があります。

 

>メイフェア(Mayfairは現在商業地区として発展を続けている。以前に住宅であった建物を改装してオフィスにした物件なども多く存在する。本社を設けている企業も多くあり、ロンドンにおいてヘッジファンドが集中している地区としても知られている。賃料は高額であるものの、現在でもメイフェアに居住している者も多い。その他にはレストラン、高級品店舗などがたちならび、アメリカ合衆国の大使館、グローヴナー・スクエアロイヤル・アカデミー・オブ・アーツグローヴナー・ハウス・ホテルクラリッジスなどが存在する

 

ミュージカル・映画『マイ・フェア・レディ』 (My Fair Lady) の題名は、このMayfair lady(メイフェアレディ)をコックニー訛りでもじったものである。

 

英文のサイトを見ると、次のような説明もあります。

 

Mayfair is renowned for its designer shops, like label hunters' paradise Browns, but there are also many specialist shops that offer unique objects that you can't find anywhere else. Grays Antique Market stocks anything from antique and out-of-print books to art. If you'd rather pamper yourself, Mayfair's spas and hair salons are second to none. Guinot Spa provides virtually painless waxing, and Gentlemen's Tonic does modern men's haircuts and shaves with a touch of old-school flair.

 

 

 

大阪・東京の「日本橋」

[CAM] 2015年7月11日 09:00

  池田弥三郎氏は、「大阪にも日本橋があり、京橋があるが・・・・大阪の場合、これをニッポンバシと言っていることは考えさせられることである。つまり、江戸で日本橋をニッポンバシと言わないで、ニホンバシと言ったのは、もともと(東京・日本橋の名の起原が)『日本』ではなく、『二本』だったということの傍証になると思う。」(56)と述べられている。

 

 元和4年(1618)に架け替えられた東京・日本橋は、長さ約67.8m、幅7.8mの木造橋であった(「『中央区ものしり百科』118頁)のに対して、大阪の日本橋はほぼ同時期の元和5年(1619)に江戸幕府によって道頓堀川に架けられた。長さ約40m、幅約7mの木造橋で、江戸の日本橋と同じく公儀橋であった(道頓堀川では唯一)。(Wikipedia) なお、池田氏も述べるとおり、『慶長見聞集』では、1618年の架け替えられた橋の大きさを記しながら、それ以前の橋の大きさについての記載がない(『日本橋私記』92頁)。

 

 天明7年(1787)の調べでは、当時の大阪には12の公儀橋と143の町橋とあわせて155であったという。公儀橋というのは、幕府が管理し、かけかえや修理などを幕府の費用で行う橋であり、外見的な区別として、公儀橋の場合は青銅製の擬宝珠がつけられていた。 江戸の場合、公儀橋は江戸城の内外にかけたもの4,50のほか、市中に約120、あわせて160から170もあった。(岡本良一『大阪の歴史』;60)

 

 このように、1619年(東京の日本橋架け替えの1年後)という時点で幕府によって架けられた大阪では数少ない公儀橋が、当時から「ニッポンバシ」と称せられていたとするのならば、創架(1603年説が有力)前後からしばらくの間、東京では「二本橋」と称されていた可能性が高く、上記の池田弥三郎説はかなり説得的なものとなるのではないか。

 

    なお、池田氏は自ら作詞した「雨の四季」という歌詞の中でも、「二本橋」という用語を用いて、「大阪はニッポンバシで、江戸がニホンバシなのは、日本橋は後の合理解で、古くは二本橋だったのではないか、という作者の学説(?)にもとづいて、わざとそうしてみた」と述べておられる。(184)

 

   上記のように、東京・日本橋が大阪のものよりも大きさでかなり勝るが、東京・日本橋が創架された1603年時点ではもちろんのこと、1618年時点であっても、東京・日本橋近辺は未だ新開地の域を出なかったであろうが、大阪の道頓堀、堺筋は既に完全に都市化されていたはずである。

 

 地域名としては、現在の大阪市・日本橋地域は「江戸時代には紀州街道の一部でもある堺筋に面して旅籠や木賃宿が立ち並び、長町と呼ばれていた。 寛政4年(1792)に長町のうち現在の中央区側が日本橋に改称され、明治5年(1872)には現在の浪速区側も含めて日本橋筋に改称された。」(Wikipedia)ということである。

 

 

 

 

日本橋とロンドン・メイフェア

[CAM] 2015年7月10日 14:00

   本日(710日)の日経新聞に下記の記事が出ています。

 

老舗の街「姉妹」提携、日本橋とロンドン中心メイフェア、文化発信や観光誘致。

2015/07/10  日本経済新聞 地方経済面 東京  15ページ  

 

>東京・日本橋の老舗商店の有志がロンドン屈指の商業地、メイフェアと連携して今秋から販路開拓や観光客の誘致で共同事業を展開する。老舗が集積するメイフェアと「姉妹街」として手を携え、伝統の品を海外に周知する。2020年開催の東京五輪に向け増加する外国人客へ「日本橋の老舗」の認知度を高め、集客拡大を目指す。

 

 「メイフェア地区」の解説として、

 

>ロンドン中心部の特別区、シティ・オブ・ウェストミンスターにある地区。ハイドパークやバッキンガム宮殿、大英博物館などの世界的な観光名所に近い。
 大企業の本社から洋品店や宝飾店など老舗が軒を連ねる。
 背広の語源となったスーツの聖地「サヴィル・ロウ」のテーラー、ヘンリー・プールや靴店の「ジョージ・クレバリー」など、日本でも有名な老舗が集積する。
 政治家や貴族が住む高級住宅地でもある。

 

と述べられています。 「日本橋」とは共通性が多いですね。日本橋も高級なマンションなどがもっと建てられて「高級住宅地」としても進化して欲しいですね。

 

 

 

池田弥三郎『日本橋私記』(橋名の起原)

[CAM] 2015年7月10日 09:00

  池田弥三郎氏(19141982)は、もう亡くなられて30年以上になるようですが、我々の世代には、タレント教授としてなつかしいお名前です。銀座泰明小学校のご卒業。

 

   本書は1972年の刊行ですが、冒頭の章「わたしの追憶」は「同じ東京の下町でも、日本橋区と京橋区とでは、万事に日本橋が京橋に優先した。それは、今、中央区として、表面一つにはなっているものの、やはりどこかに影をおとしている。京橋区内に生まれて育ったわたしとしては、残念ではあるけれども、これは素直に認めるより仕方がない。」という文章から始まっています。

 

  「銀座に育ったわたしは、銀座通りこそ、東京一の、君臨する場所と思いこんでいたのだが、実は、最も中心というべき町は、『擬宝珠から擬宝珠』と言って、日本橋から京橋までの通りの方で、その方が上なのだと聞かされて、子ども心に、がっかりしたことがある。・・・・・公平な心で日本橋の歴史を省みてみると、たしかに銀座は日本橋の場末であった。銀座の生活の歴史は浅いのである。」(24)とも述べられています。

 

 著者の「わたしの橋名起原説」も述べられています。これによると、

 

(1)  日本橋は、もと日本橋川(当時その名はなかったが)に架けられていた、粗末な橋で、その橋の様子から「二本橋」  と言われていた。

(2)それが、江戸の町の造成につれて、立派に改修されていき、その途上で、誰言うとなく、二本橋は日本橋だと言われるようになっていった。

(3)そして、誰言うとなく言い出した「日本橋」という名を、誰もが素直にうけいれられるように、日本橋はにぎわしくなり、付近は日本の代表の土地となり、さらに全国里程の中心となり、五街道発足点ともなっていったために、ますます「日本橋」の名がふさわしくなっていった。

――と、こういうような筋道が考えられるのではなかろうか。 (48)

 

 最近の書物を見ると、(1)の部分は略して、はじめから(2)(3)の経緯を述べるものが多いように思われます。しかし、この橋が最初に架けられた1603年頃の江戸というかこの地域はまだ荒涼たる新開地に過ぎなかったこと、当初のものはほんの粗末な橋であったであろうこと、池田氏が言うように、橋の名に限らず、地名というものは、そもそも単純で端的、直観的な名づけられ方をされるものであること等を考え合わせれば、起原としては(1)の段階があったと言うべきではないでしょうか。

 

 池田氏は「なお、大阪にも日本橋があり、京橋があるが・・・・大阪の場合、これをニッポンバシと言っていることは考えさせられることである。つまり、江戸で日本橋をニッポンバシと言わないで、ニホンバシと言ったのは、もともと『日本』ではなく、『二本』だったということの傍証になると思う。」(56)と述べられています。

 

 私が見た限り、大阪にも「日本橋」「京橋」という地名が存在することとの関係性に言及した論は、この池田氏のものが唯一のように思われます。

 

 これに限らず、池田氏の論を読むと、関西文化への敬意が感じとられるのは、氏が「田舎者」ではなく銀座で生まれ育った都会人であることとともに、折口信夫に師事したことによるのでしょう。

 

 

 

谷崎潤一郎「東西味くらべ」

[CAM] 2015年7月 8日 18:00

  

 谷崎は、「上方の食いもの」(『文藝春秋』1924年)で以下のように述べている。

  

「江戸っ児はよく、上方の料理は水っぽくていけないと云う。そして煮物をするのにも、東京人は砂糖や醤油をコテコテと使って真っ黒に煮る。これは一面から云うと、東京の野菜や魚が天然の滋味に乏しい証拠で、砂糖や醤油でゴマカサなければとてもまずくって食えないのである。 上方の人に云わせると東京の料理は悪甘くって食えないと云う。成る程上方では材料がいゝから、天然の味を殺さないで、ほんのアッサリ味醂や昆布だしを加えるだけで結構たべられる。・・・・・・・

 上方の料理を水くさいと云う江戸ッ児は、・・・・田舎者なのである。」

  

 そして、「東西味くらべ」(『婦人公論』1928年)では、上記の趣旨を繰り返しながら、

  

「・・・・一体食味の点から見ると、関西は上国で関東は下国だ。・・・・・どうも京都から東へ行くほど料理は下等になるように思う。

 東京などは江戸前とか何とか云って威張っているが、考えて見れば徳川氏草創の頃の田舎料理がそのまま今日に伝わったのだ。」 などと述べている。

  

 ところが、伊藤甲子之助「谷崎潤一郎と私」(「谷崎潤一郎全集」第17巻月報;1968年)では、次のように述べられていることには、苦笑せざるを得ない。

  

「これ(注;大震災)が切っ掛けで彼(注;谷崎)は関西に住むことになったが、江戸っ子気性の彼は初めのうちは関西の物事何につけても気に喰わない。」 そして、三井物産大阪支店勤務となり10年近く関西在住の伊藤氏について(注;伊藤氏も東京市日本橋区出身で谷崎と小学校の同級生)、「伊藤はもう駄目だ。気性がまるで変わって贅六根性が浸み込んでいる。江戸っ子の面汚だ。困ったものだ」とさげすんだという。

  

さらに「関西のものは食えぬと豪語、食料品は東京からの取り寄せ、お茶は山本、海苔は山本山に限り山形屋でも駄目、醤油は亀甲万という風で、序があるときは煮豆は芳町宝采屋にまで手が伸びる。そんな風だから鰹節は「にんべん」の品以外は使わない。・・・・・」