[CAM]
2015年7月 7日 14:00
食文化にも深いこだわりを示した谷崎の目からすると、永い伝統を有する関西の食文化に比べて、「東京名物」と言っても、塩せんべい、海苔、雀焼、たたみイワシなど、「なんと不思議に寒気のするような、あじきない物が多い」のであって、「見るからに侘しい、ヒネクレた、哀れな食ひ物(雀焼)」、「薄っぺらな、名も知れぬ雑魚を寄せ集めたやうなもの(たたみイワシ)」でしかない。
「上等な干菓子や生菓子があっての上なら兎も角も、羊羹一つ碌なものがなくて、塩煎餅が名物とはあんまり野蛮ではないか。尤もモナカや田舎饅頭にはいくらかうまいものがあるが、孰れにしても粗野で、貧弱で、殺風景なものばかりである」。
「元来オツなものと云われるような、ヒネクレた名物は東京に限ったことではない。・・・ところが東京では正式の料理に使ふ材料に何一つとしてうまいものがなく、仕方がなしにそう云ふ変なヒネクレたものを漁るのである。」
「私は実はそのオツと云う言葉を聞くと、一種のうすら寒い身ぶるひを感じ、その陰に隠されてゐる東京人の薄ッぺらさを考へて何とも云へず悲しくなる。」
関西人にとっては小気味よいものの、こんなに東京を罵倒してもよいのかと思うほど。
そして、谷崎は次のように云う。
「此の東京人の衣食住に纏はる変な淋しさは何処から来るのかと思ってみるのに、結局それは、東北人の影響ではないのか。・・・・・・東京の人は政治の中心に住んでゐるから、そこを地理的にも人文的にも日本の中心だと考へ易いが、しかしたまたま関西から出かけてみると、何となく東京が東北の玄関のやうに見え、此処から東北が始まるのだと云ふ感が深い。・・・・・・
斯く東京を「東北地方に属するもの」として見る時、昔は「鳥が啼く東」と云った夷が住んでいた荒蕪の土地が権現様の御入府に依って政治的に、と云うのはつまり人為的に、繁華な町にさせられたものであると見る時、始めて今戸の煎餅や千住の鮒の雀焼や浅草海苔やタヽミイワシが名物であると云う理由が分る。」
ただし、サイデンステッカーさんは、「『私の見た大阪及び大阪人について』を読むと、先生はしきりに、東京はだめだだめだと言い、大阪文化を持ち上げています。でもそれは、一種の文学的ポーズだったように思えます。先生は敢えて『反江戸っ子』というイメージを作っていたのです。」(「反江戸っ子の本音」ランティエ叢書『谷崎潤一郎東西味くらべ』、解説)と言う。
[CAM]
2015年7月 5日 18:00
明治19(1886)年に日本橋蛎殻町に生まれた谷崎は、大震災後、関西に移住する。 関西移住後2,3年の間は、時々上京するたびに「帰ってきた」という気になったし、当初は関西の文化への嫌悪を述べていた。しかしながら、そのうちに東京に1週間もいると関西へ「帰り」たくなり、汽車が「逢坂山のトンネルを越え、山崎あたりを通り過ぎるとホッと息をつく」までになった。(「東京をおもふ」)
サイデンステッカーは『立ち上がる東京』(原書1990年)で、次のように述べている。
「この時期の谷崎は、東京にかかわる物はほとんど何であれ好まなかった――少なくとも好きだとは認めようとしなかった」(54)。
「震災後しばらく、日本最大の都会は大阪だったと言えるかもしれない。芸術家やインテリの中にも、関西に移った人々は相当の数に上った。ほとんどは、東京が都市機能を回復するにつれて帰京したが、谷崎は例外だった。大阪そのものに住んだことは一度もなかったけれども、その後の生涯の大半を大阪近郊で過ごしたからである」(59)。
ふるさとは田舎侍にあらされて
昔の江戸のおもかげもなし
昭和37(1962)年に詠まれたという谷崎潤一郎(1886-1965)晩年の一首である。
晩年に詠まれた谷崎の歌をもう一首。
木挽町に団十郎菊五郎ありし日の
明治よ東京よわが父よ母よ
「東京をおもふ」は、大震災によって失われた明治の東京特に日本橋地区へ捧げる挽歌であったのだろう。昭和9年、「中央公論」誌に発表された。
[CAM]
2015年7月 3日 09:00
住吉神社境内にも茅の輪くぐりが設置されています。(6月30日時点)
今年の本祭も近づいてきました、予定は以下のようです。
【開催日時】※荒天の場合:決行
2015年7月31日(金)~8月3日(月)
◆7月31日(金)
11:00 大祭式
14:45 各町神酒所・町内神輿清祓
◆8月1日(土)
10:00(予定) 住吉講獅子頭宮出
11:00(予定) 町内神輿巡行、佃勢揃い
◆8月2日(日)
6:00(予定) 宮神輿宮出
船渡御・各町(晴海・勝どき・豊海)巡幸
20:00(予定) 御旅所着輦
◆8月3日(月)
9:00(予定) 御旅所発輦
各町(勝どき・月島・佃)巡幸
20:00(予定) 宮神輿宮入
佃小橋近くにも寄付者の公示が行われ始めて、近所の民家には本祭りのポスターも掲示され、祭り気分も徐々に盛り上がり始めているようです。
[CAM]
2015年7月 2日 14:00
木下杢太郎に 「築地の渡し」 という詩があります。
房州通ひか、伊豆ゆきか。
笛が聞える、あの笛が
渡わたれば佃島。
メトロポオルの燈が見える。
第一詩集 『食後の唄』(1919) に収められるにあたり、「築地の渡より明石町に出づれば、あなたの岸は月島また佃島、燈ところどころ。実に夜の川口の眺めはパンの会勃興当時の芸術的感興の源にてありき。・・・・」 との序が付されています。
この「メトロポオル」とは、築地にかつて存したホテルの名前なのですね。
北川千秋著『築地明石町今昔』(聖路加国際病院礼拝堂委員会発行;1986年)中の「築地界隈ホテル物語」によると、「メトロポールホテル」は、明治23(1890)年に米国公使館が赤坂へ移転した跡地に客室20を備えて開業。その後になって、業績不振から明治40(1907)年に帝国ホテルに身売り、事実上の帝国ホテル築地支店となったが、明治42(1909)年閉鎖となったということです。
そして、ホテル及び周辺の風景について、鏑木清方の随筆「築地川」の次の文が引用されています。
「・・・・築地、上野の精養軒と共に観光外人の定宿であったが、場所はよし、外人の経営だったので門内には、馬車や人力車が絶え間なく出入りした。建物は別にとりたてていうほどのものでなく、木造漆喰塗りのざっとした白亜館であった。窓外直ちに房総の山脈をのぞみ、海風室に満つという有様で、眼の下の佃の入江には洋風の帆船マストを並べ、物売る船、渡しの和船がその間を対岸の佃島へ通う。・・・・」
サイデンステッカー「東京下町山の手(LOW CITY, HIGH CITY)」では、
「銀座の大火の後、居留地は再建されたが、ホテル館は再び建てられることはなかった。しかし白秋の回想にもあるとおり(注:白秋は表記の木下杢太郎の詩も引用している)、ほかにもホテルはあった。明治23年、アメリカ公使館が現在の大使館の敷地(赤坂)に移った後にメトロポールというホテルが建ったし、明治7年のグリフィスの東京案内にはすでに精養軒が推薦してある。」(67) と述べられています。