[朱房の十手]
2017年4月29日 16:00
わしの傍にいるのは、子供か、孫か、ひ孫だったかな?それとも玄孫(やしゃご)だったかな~
だいぶ長く座っているな~ 何時まで座っていればいいのかな~
でも、ぜんぜん老けないな~ わしは幾つになったのかな~
わしは三越のライオン像です。
写真は銀座三越の正面玄関です。像の誕生は大正3年、日本橋三越本店前に設置されたのが始まりです。
ライオン像は当時の支配人、日比翁助が百貨店開設の為、欧米を視察した際にイギリスで注文したものです。
完成まで3年かかりました。三越が百獣の王ライオンのごとく百貨店業界に君臨する様にとの願いが込められているいるそうです。
本店のライオン像は102歳になります。子供が銀座三越のライオン像です。年齢は昭和47年生まれ45歳です。傍にいるのは、たぶん子供か、孫になると思います。
三越にお越しのせつは、わしがお迎えします。
是非ともおいでください。お待ちしております。
[朱房の十手]
2017年4月26日 18:00
永代橋は江戸時代現在の場所から150メートル程、上流にかけられていました。創架は1698年ごろとされています。当時は大規模な木造橋で見晴らしの良い名所として浮世絵に描かれています。
道路橋としては日本初の鋼鉄製です。明治37年には路面電車が敷設されました。
5代将軍綱吉の50歳の祝賀を込めて架橋されました。文化4(1807)年8月19日には深川八幡の祭礼に向かう混雑で橋が崩落し1000人以上が溺死しました。この事故は落語になるほど様々な物語があります。また赤穂義士が吉良邸から泉岳寺に引き上げるときに渡った橋として知られています。
上部写真、下部の絵共に佃島方向を望んでいます。
上部写真は永代橋から撮影しました。
[朱房の十手]
2017年4月25日 12:00
三十間堀跡(ピンク色の矢印の場所です)
銀座から晴海通りを築地に向かい昭和通りの手前です。
下の古地図は、嘉永2(1849)年に発行されました(黒色の矢印の場所です)。
左右に藍色で、示されているのが堀川です。二つの矢印の場所は、ほぼ同じ場所です。この辺りを歩くと道路が盛り上がっています。
京橋川から汐留川を結んでいました、慶長17(1612)年徳川幕府の命により、舟運の便を図るため主に西国大名が開削しました。堀の幅が三十間(約55メートル)あったことからこの名前が付きました。文政11(1828)年には十九間に狭められました。昭和27(1952)年には太平洋戦争後の瓦礫の山を、処理する為に埋め立てられました。
[朱房の十手]
2017年4月23日 18:00
ネクタイといえば田屋
明治38年(1905)から銀座4丁目で営業しておられる田屋さんをご紹介します。デザインから製造、販売まで一貫して携わって、オリジナルのネクタイを作っているそうです。デザインの図柄がとても素敵ですし、極細の絹糸で緻密に織りあがっています。ネクタイを締めた時にふんわりとします。さすが日本の織物。アーノルド・シュワルツェネッガー氏にもお買い求め頂いたそうです。店員さんがとても親切に丁寧に対応してくださいます。
ご自分のご褒美に彼氏へのプレゼントにぴったりです。銀座にいらしたら是非お立ち寄りになってみてはいかがですか。
(店長の許可を頂いて撮影しました。)
[朱房の十手]
2017年4月22日 14:00
シーボルトの胸像
シーボルトは、オランダの陸軍軍医でした。
医者の仕事ばかりでなく日本との貿易の為、日本のことを調べるようにも命じられていました。文政6(1823)年長崎に到着しました。その後オランダ商館長と共に江戸参府に同行し、旅の途中で植物や動物を採取、山の高さの測量もしました。江戸では、多くの医者や学者と交流しました。その際、散瞳薬の実験を行いました。その話を土生玄碩が聞き、薬品製法をシーボルトから教示されました。その謝礼に将軍家より拝領の葵の紋服を贈呈してしまいました。その3年後帰国の途中に船が難破してしまい、禁制品の日本地図や紋服などが発見され厳しい取り調べの上、国外追放されました。
シーボルトの娘(いね)も医者になり、築地で産婦人科を開院したことなどのゆかりから胸像が建てられました。
[朱房の十手]
2017年4月21日 16:00
天賞堂 前の天使像
なぜ?天使がいるの。(てんし ょうどう)天賞堂との語呂合わせや、ブライダルジュエリーを取り扱っているからだそうです。
彼には役目があり、通りから来るカップルに愛の矢を射ることだそうです。射られたカップルは幸福になるかもしれません。
銀座でのお買い物ついでに「キューピッド」の顔をみてみませんか?なかなかのルックスです。
彫刻家 山田朝彦氏の代表作の一つです。