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中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

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中央区の本

[湊っ子ちゃん] 2019年1月22日 09:00

こんにちは、湊っ子ちゃんです。

今回は、中央区より刊行されている図書を、ご紹介したいと思います。 中央区立京橋図書館、日本橋図書館、月島図書館の、すべての図書館に所蔵されていますので、ご利用いただけます。

♪ 中央区の文化財

江戸開府以来、経済・文化の中心として発展してきた中央区に、数多く残る文化遺産を紹介しています。全7集。 (中央区教育委員会・たて21cm・80ページ前後)

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(一)改訂新版中央区の文化財 史跡・旧跡・記念碑 平成7年刊 

(二)中央区の文化財 美術・工芸・古文書 昭和51年刊

(三)中央区の文化財 橋梁 昭和52年刊

(四)中央区の文化財 有形民俗文化財-信仰- 昭和56年刊

(五)中央区の文化財 有形民俗文化財-道具類- 昭和59年刊

(六)中央区の文化財 有形民俗文化財-道具類二- 昭和62年刊

(七)中央区の文化財 建造物 昭和63年刊


♪ 中央区の昔を語る

昭和59年から、毎年区内各地にて行ってきた文化財懇談会「昔を語る会」の収録内容をとりまとめたものです。おもに、大正初期からの町の様子、関東大震災、戦争の記憶、小学校での生活を中心に、中央区で生まれ育った方たちが、昔の暮らしや町の移り変わりなどを、今に語り継ぎます。全17集。 (中央区教育委員会・たて21cm・80ページ前後)

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(一)中央区の昔を語る 八丁堀・佃島 平成元年刊

(二)中央区の昔を語る 東日本橋・馬喰町・横山町 平成元年刊

(三)中央区の昔を語る 入船・湊・月島 平成2年刊

(四)中央区の昔を語る 京橋八重洲(二)・京橋大根河岸 平成3年刊

(五)中央区の昔を語る 浜町・小網町 平成3年刊

(六)中央区の昔を語る 室町・本町・新川 平成4年刊

(七)中央区の昔を語る 明石町・富沢町 平成5年刊

(八)中央区の昔を語る 小舟町・新富 平成6年刊

(九)中央区の昔を語る 箱崎町・築地 平成7年刊

(十)中央区の昔を語る 本石町・久松町 平成8年刊

(十一)中央区の昔を語る 人形町・堀留町 平成9年刊

(十二)中央区の昔を語る 大伝馬町・蛎殻町 平成10年刊

(十三)中央区の昔を語る 茅場町・小伝馬町 平成11年刊

(十四)中央区の昔を語る 兜町・日本橋 平成12年刊

(十五)中央区の昔を語る 八重洲一丁目・中州 平成13年刊

(十六)中央区の昔を語る 勝どき・豊海町・晴海 平成14年刊

(十七)中央区の昔を語る 銀座 平成16年刊


♪ 中央区文化財調査報告書

中央区の文化遺産において、それぞれのテーマごとに、深く掘り下げて行われた調査による、記録と報告書です。全5集。(中央区教育委員会)

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(写真は上段・下段とも左から順に)

中央区文化財調査報告書第1集

築地の外国人住宅 -聖路加国際病院の付属外国人住宅 「ポラバ・バンガロー」に関する調査報告- 平成4年刊(たて26cm・118ページ)

中央区文化財調査報告書第2集

中央区の木造建造物 平成5年刊(たて30cm・154ページ)

中央区文化財調査報告書第3集

中央区旧家所蔵文書-小津商店・佐々木印店・中村家文書- 平成7年刊(たて26cm・195ページ)

中央区文化財調査報告書第4集

椙森神社所蔵文書 平成8年刊(たて30cm・208ページ)

中央区文化財調査報告書第5集

中央区の橋・橋詰広場-中央区近代橋梁調査- 平成10年刊(たて30cm・354ページ)


♪ 中央区区内散歩 -史跡と歴史を訪ねて-

一年の暮らし、街並、文明開化、文学、などの視点から中央区をみつめ、区内の文化遺産と中央区の足跡を紹介した本です。全9集。 (中央区企画部広報課・たて18cm・200ページ前後)

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第1集 中央区区内散歩 -史跡と歴史を訪ねて- 昭和63年刊

第2集 中央区区内散歩 -史跡と歴史を訪ねて- 平成4年刊

第3集 中央区区内散歩 -史跡と歴史を訪ねて- 平成7年刊

第4集 中央区区内散歩 -史跡と歴史を訪ねて- 平成10年刊

第5集 中央区区内散歩 -史跡と歴史を訪ねて- 平成13年刊

第6集 中央区区内散歩 -史跡と歴史を訪ねて- 平成16年刊

第7集 中央区区内散歩 -史跡と歴史を訪ねて- 平成19年刊

第8集 中央区区内散歩 -史跡と歴史を訪ねて- 平成22年刊

第9集 中央区区内散歩 -史跡と歴史を訪ねて- 平成25年刊

※ 中央区立京橋図書館 地域資料室に申請のうえ、本の撮影を行いました。

今、私たちの知っている中央区が、時代の移り変わりとともにどう変化し、そして中央区だからこそ変わらないものがあることを、実感できる本たちです。 街歩きや地域研究に、ぜひ活用したいですね。

中央区観光協会特派員 湊っ子ちゃん

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第33号 平成31年1月18日

 

 

中央区立京橋図書館のサンクンガーデン

[湊っ子ちゃん] 2019年1月18日 14:00

sunken03m.JPGこんにちは、湊っ子ちゃんです。
中央区には、京橋図書館、日本橋図書館、月島図書館の、3つの中央区立図書館があります。

今日は、中央区立京橋図書館の入口前に広がる、"サンクンガーデン"をご紹介したいと思います。


中央区立京橋図書館のサンクンガーデンは、車歩道から一段下がった場所にあり、開放感のある広い空間です。このように、地面より低い場所にある庭を、建築用語でサンクンガーデン(sunken garden)と呼ぶそうです。階段と、スロープもありますので、自転車やベビーカー、車椅子などでお越しの際も、便利です。

♪ サンクンガーデンの花たち

サンクンガーデンには、円形の花壇が並んでいます。いつもきれいに整えられ、季節の花が私たちをやさしく出迎えてくれます。

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それぞれの花壇には、ヒノキ科の低木が一本シンボルとして立っており、その周りに花が植えられているスタイルです。

今の季節は、シクラメン・パンジー・スイートアリッサム・マーガレット・ビオラなどが色鮮やかに咲いています。クリスマスの季節は、花壇がリボンで飾られて、楽しい気分にさせてくれます。


sunken04m.jpg♪ サンクンガーデンの掲示板

また、中央区立京橋図書館のサンクンガーデンには、掲示板が立っています。

ここには、定期的に様々な写真が展示され、中央区の歴史や町並みなどを紹介しています。
中央区立図書館ウェブサイトの、「Webギャラリー中央区立図書館コレクション」を紙媒体で紹介しています。

手作りの掲示板は、温かみがあって、見る人を和ませてくれるようですね。

♪ 中央区立京橋図書館の歴史
現在の中央区立京橋図書館の建物は、中央区役所と一体であり、佐藤武夫氏の設計、昭和44年(1969)の竣工です。

中央区立京橋図書館の歴史は古く、明治43年(1910)にまでさかのぼります。京橋尋常小学校内で開館された、東京市立京橋簡易図書館としての始まりでした。現在の場所に移ったのは、昭和4年(1929)のことです。

戦火を免れたことで、戦前に出版された図書が多く残り、貴重な資料を所蔵する、都内屈指の図書館です。また、地域資料室には中央区関連の資料はもちろん、東京23区や多摩地域の資料も揃えられています。

中央区立京橋図書館の所蔵図書は、平成30年4月現在、34.5万冊、雑誌253種、CD・DVD 8733タイトル、新聞19紙、座席数166席です。

好きな本を選んだ帰り道、ぜひ、サンクンガーデンの花たちを眺めてみてくださいね。

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中央区立京橋図書館 中央区築地1-1-1

※図書館と区役所は、中でつながっていませんので、ご注意ください。

中央区観光協会特派員 湊っ子ちゃん

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第32号 平成30年1月16日

 

 

中央区の歩道っておもしろい!23【ポラバ・バンガロー】

[湊っ子ちゃん] 2019年1月14日 09:00

こんにちは、湊っ子ちゃんです。
前回まで、明治時代に築地外国人居留地のあった、明石町周辺の通りを歩いてきました。
今日は、隅田川畔に、平成の時代まで現存していた、「ポラバ・バンガロー」と呼ばれる外国人住宅について、ご紹介したいと思います。
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名称=POLABA BUNGALOW
所在地=東京都中央区明石町8
設計者=J・バーガミニィ
施工者=清水組
竣工年=大正13年~14年(1924~25)
建築面積=66坪791(220,752㎡)
基礎=布基礎
木造平屋建

平成元年(1989)、聖路加国際病院の再開発事業が施行されました。現在、聖路加ガーデンの建つ場所にあったトイスラー記念館は、病院内の中庭に移築されましたが、じつは同じ敷地内にもう2軒、木造平屋建ての洋館が建っていました。そのうちの1軒が、「ポラバ・バンガロー」です。
「ポラバ・バンガロー」は、明治期におけるアメリカ公使館跡地に位置しました。病院関係者のための、外国人住宅でした。竣工は大正13年頃と推定されており、トイスラー記念館よりも早くから、そこに建っていたことになります。
"ポラバ女史"が住んでいた家のようですが、建築当初の設計図など、詳細な資料は残っていません。また、ポラバ女史について知る人も、長い時を隔てた今では、みつけることができませんでした。

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外観は、和風の木造平屋でした。しかし、ひとたび調査が開始されると、思いがけない建築様式が明るみにでたのです。それは、当時の日本ではまだ珍しい、アメリカ住宅の建築様式である、「2×4(ツー・バイ・フォー)工法」(枠組み壁工法)が用いられていたことです。

さらに、居室はすべて洋室でした。明らかに、外国人のための住宅でした。 この建物の歴史的価値が認められ、近く取り壊される予定のなか、本格的な調査が行われました。

♪ ポラバ・バンガロー建設の経緯
大正12年(1923)に起きた関東大震災は、築地外国人居留地の面影をすべて奪い去ったばかりか、病院の建物にも甚大な被害をもたらしました。 仮病院を建てるため、アメリカから船で建築資材が運ばれました。木材や石綿スレート、瓦葺きなどです。それは、復興において早急に建てられた、バラック建築でした。

関係者の話によると、「仮病院を建てた残りの資材で、2軒の家を建てた」というのです。トイスラー記念館のそばに建っていた、木造平屋建ての2軒であろうと考えられています。竣工は、仮病院と同じ時期、大正13年6月頃と推測できます。

♪ ポラバ・バンガローの間取り

ポラバ・バンガローは、東西に棟を伸ばした形の中廊下型の家です。ポラバ女史の後、ミス・ポンド(ヌノ女史の説もある)が住んでいましたが、さらに住人が増えることになり、昭和8年(1933)、増築が行われました。

その時の各資料が、聖路加国際病院に残っています。図面には、 「POLABA BUNGALOW」 と記されていました。この建物が、ポラバ・バンガローと呼ばれる所以です。

また、増築における設計者は、J・バーガミニィと記されていました。 昭和8年といえば、病院の第1期工事が完了し、トイスラー記念館が新築された年です。いずれも設計は、J・バーガミニィ。おそらく、ポラバ・バンガローの増築は、これらと同時期に手掛けられたものと思われます。


madormim.png玄関の北側には、「サーバント・ルーム」が2部屋設けられていました。これは和室であり、おそらく使用人に日本人を雇うことを前提にしたものと思われます。 廊下を中心に、南側にはリビングルーム、ダイニングルーム、ベッドルーム、バスルームがあり、北側にはキッチン、収納室があります。増築では、リビングルームが拡張され、その脇に玄関を増やしました。

増築に伴い、警察署へ届け出た「設計変更及暖房設置願届」が残っています。おそらく、住人が増えること、今後しっかりとした住環境が必要になったためと思われます。すなわち、ポラバ・バンガローは、震災直後、応急処置的に建てられたバラック建築であったことを裏付けるものです。

♪ポラバ・バンガローの建築様式

polaba03m.png【軸組】

布基礎の上に、土台を置き、土台の上に縦枠の間柱が直接立っています。 下見板張りの外壁を取り除いたところ、中には幅約10センチメートルの板が、45度の角度で、斜めにびっしりと貼られていました。 さらにそれを取り除くと、3分の1角の間柱が、窓の位置とは関係なく、等間隔で立てられていることがわかったのです。これは、日本の建築様式とは明らかに違う点です。

また、間柱と間柱のあいだには、セメントブロックが挟み込まれていました。同じ工法が用いられている例として、群馬県指定重要文化財である、旧アメリカン・ボード宣教師館においても見られ、鼠避けであろうと考えられています。アメリカの住宅建築では、一般的に用いられていた方法である可能性があります。

masard.png【小屋組】

軒の低いマンサード屋根(腰折れ屋根)です。洋式の屋根でありながら、小屋組においては、トラス構造ではなく、和小屋方式がとられています。仕上げは、母屋がトタン葺、庇が波形石綿スレートです。

【内装 】

リビングルームにおいては、木毛ボードを用い、その上に化粧合板を貼り付けています。この化粧合板は、病院本館2階の天井と、同じものだそうです。アメリカからの輸入材です。


【床組】 リビングルームの床を剥がしてみると、根太の上に下地板が斜め貼りにされ、その上に薄いカーペットが敷かれています。床材の斜め貼りは、2×4工法の特徴でもあります。

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アメリカの建築様式が取り入られていながら、随所には、在来工法が見え隠れしています。これは、設計者とは別に、実際に施工にあたった人物は日本人であり、慣れ親しんだ技法を使用したためであろうと考えられています。

洋風建築が日本に入ってきた明治期、このように工法が混在したケースは多く見られるものでした。日本の棟梁たちは、これまでの技術に誇りを持ちつつ、自分たちなりに解釈し、新しい工法を受け入れていった、過渡期であったことを物語っています。

♪ 日本における2×4工法
ポラバ・バンガローの特徴は、外観は和風木造平屋でありながら、完全なアメリカ住宅の様式を備えている点です。そのひとつに、「2×4(ツー・バイ・フォー)工法」(枠組み壁工法)があげられます。

2×4工法は、アメリカやカナダの、おもに住宅に用いられる工法です。細い間柱を等間隔に立て、梁などを組み合わせた骨組みに、下見板張りの外装板を貼付けて組み立てます。 アメリカの地形や歴史に培われた独自の技術であり、誰でも簡単に組み立てられる「プレハブ住宅」、という一面も持っています。

関東大震災の復興期、この建築様式が用いられた例は、多数存在するようです。 じつは、それよりもずっと前の時代にさかのぼり、2×4工法が、日本で取り入れられた初期の例として、北海道開拓使の建物が挙げられます。

明治2年(1869)、明治新政府によって設置された北海道開拓使は、アメリカの農務省の協力を得て組織されました。旧開拓使札幌博物場などが、重要文化財になっています。

その後、明治23年(1890)に、アメリカの組み立て住宅を持ち帰った例があり、これが民間でも2×4工法が導入されはじめた頃と見られています。

2×4工法が、日本において採用された経緯や段階を辿るうえでも、ポラバ・バンガローは鍵を握る存在です。

♪ バンガロー様式

「バンガロー」という形式に関しては、大正期における住宅改良運動において、海外より紹介された住宅様式のなかでも、最も日本人に適しているとされた、理想的住宅像でした。

大正12年(1923)における関東大震災の復興時、住宅不足解消のために、バンガロー形式が高く評価されるようになったのです。 「ポラバ・バンガロー」は、そういった風潮のなかで、それを実践したものと考えられます。

♪ ポラバ・バンガローのその後

昭和16年(1941)に、当時病院長であった橋本寛敏氏が、家族とともに住んだ記録が残されています。そのことから、「橋本記念館」の別名を持っています。

また、昭和52年(1977)からは、病院関係者の研修室や、会議室として利用され、「聖路加第二記念館」と呼ばれました。昭和60年(1985)には、再開発計画本部の事務所としても、その役割を担いました。

polabamap200.png歴史を物語る建物は、いつの日も保存を願う声と共にあります。ですが、維持・管理等の問題から、やむを得ず姿を消してゆく建物は、後を絶ちません。ポラバ・バンガローも、そのうちのひとつです。

今は姿のない建物だからこそ、その「記録」が、私たちに多くを物語ってくれる、そんな気がします。

参考文献: 中央区文化財調査報告書第1集「築地の外国人住宅」
聖路加国際病院の付属外国人住宅「ポラバ・バンガロー」に関する調査報告
平成4年 中央区教育委員会

中央区観光協会特派員 湊っ子ちゃん

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第31号 平成31年1月10日

 

 

湊のテラス モザイク壁画の散歩道

[湊っ子ちゃん] 2019年1月10日 09:00

湊二丁目東地区は、いま生まれ変わろうとしています。
この地域は、東京駅から1.5kmという好立地にあり、かねてより良い環境に恵まれた町でした。しかし、昭和の終わり頃からバブル経済等の影響を受け、空閑地が散在するなど、防災・防犯上の課題が生じました。
平成7年より、まちの再生に向けた地域の取り組みがスタートし、当初の計画より20余年を経て、平成28年11月に湊公園が開園、平成29年11月に湊二丁目東地区市街地再開発事業建物工事が完了しました。
 
湊二丁目より隅田川を望む湊公園には、シメイヨシノやオオデマリ、ドウダンツツジ・ムクゲなど、四季折々の樹木があり、ゆるやかなスロープと芝生にベンチ、ユリカモメなどの水鳥も訪れる、憩いの場となっています。

そして、テラスの歩道には、全長約50メートルほどのモザイク壁画が設置されています。今回ご紹介するのは、こちらの壁画です。

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このモザイク壁画は、中央区立福祉センターの皆さんによる作品です。

歌川広重、葛飾北斎などの浮世絵より、江戸時代の湊界隈にゆかりのある風景や人物を中心に、ガラス片や陶器のかけらなどを使って描かれています。

図柄は15枚ほどあり、水のきらめきや泡粒を思わせる模様や、湊の氏神、鉄砲洲稲荷神社の大屋根を形作ったと思われる造形などが、散りばめられています。 それではゆっくり歩きながら、鑑賞してみましょう。
 

♪ 歩道美術館へようこそ!
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こちらの絵は、鉄砲洲稲荷神社ですね。創建は今から千年前の平安時代。土地の産土神であると共に、水の安全を守り、「江戸湊に鉄砲洲あり」と称されるほど、船乗りたちの信仰を集めました。
 
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こちらは、湊のお祭風景ですね。鉄砲洲稲荷神社の例大祭。鳳凰を掲げた大神輿を、氏子衆が担ぐ躍動感あふれる構図です。力強い歓声が聴こえてきそうですね。宮元大神輿は、町神輿としては最大級、品格・伝統ともに日本一と称されます。
 
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「冨嶽三十六景 武陽佃島」葛飾北斎 天保2年(1831)
富士を背景に、漁師町であった佃島を中心に据え、今まさに漁舟や荷舟が佃島に向かって漕ぎ出してゆく瞬間を捉えた作品です。葛飾北斎の代表作、「冨嶽(ふがく)三十六景」シリーズの一枚です。

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「江戸百景余興 鉄砲洲築地門跡」歌川広重 安政5年(1858)
鉄砲洲前の江戸湊から、築地本願寺の大屋根を描いた作品です。本堂の大屋根は、舟が江戸湊に入るときの目印でした。じつは、安政3年(1856)に、大風雨で本堂は倒壊しています。この絵は再建される2年前に描かれたもので、広重は実際にはない大屋根を、描き込んだのです。人々の、復興への願いを表現したのかもしれません。

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「江戸名所百景 市中繁栄七夕祭」歌川広重 安政4年(1857)
富士山と江戸城を背景に、江戸の町を彩る、七夕祭の情景を描いた作品です。町屋の屋根の上、高く掲げられた短冊竹がどこまでも続きます。 旧暦7月7日が近くなると、江戸では大勢の竹売りの姿が見られました。当日は、子供の有無や貧富の差なく、誰もが葉竹に短冊をつけ、星に願いました。紙で作られた算盤や、大福帳、ホウズキ、西瓜などもあります。じつに趣ある光景です。
 
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しゃぼん玉売り
夏になると、「玉ヤ~~~」と歌いながら売りにきたそうです。シャボン玉粉を水に浸し、細い管を吹いてシャボン玉を作りました。
 
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太神楽(だいかぐら)
江戸時代のなかでも、時代ごとに形はすこし変わったそうですが、笛・小太鼓・大太鼓・鈴などで賑やかに小唄や狂言を歌い、毎日江戸の町中を歩き回ったそうです。
 

この他にも、図柄はまだたくさんあります。"モザイク壁画の散歩道"は、隅田川のきらめきと、中央大橋の勇姿、対岸には佃島を望む、リバーサイドの空間です。
 
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また、公園内に設置されているソーラー照明灯は、停電時でも灯りを確保できる仕組みになっており、ベンチにおいては、災害時に座面をはずし、かまどとして使用できる造りになっています。

天気のよい日など、お散歩がてら鑑賞してみてはいかがでしょうか。
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中央区観光協会特派員 湊っ子ちゃん
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第30号 平成31年1月7日

 

 
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