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中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

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◆中央区 ここに歴史あり<15> ~銀座ガス灯のガスがつくられたところ~

[巻渕彰/写楽さい] 2009年11月24日 18:00

銀座三丁目「銀座ガス灯通り」に昭和60年(1985)10月設置の復元ガス灯4基が灯っている。これは明治7年(1874)、芝金杉橋と京橋の間に85基のガス灯が建てられ、銀座を照らしたことを記念したものだ〔写真④〕。また、京橋跡(南詰東側)にもガス灯1基が復元されている。このガスはどこから供給されたものであったのだろうか。


0913_15_091123_ginzagas.jpg 現在、JR浜松町駅そばの東京ガス本社前に「創業記念碑」がある〔写真①〕。碑文には「・・・此地芝濱崎町ニ瓦斯製造所ノ建設セラレタルハ明治六年(1873)十二月ニシテ瓦斯供給ヲ開始シ、銀座街頭ニ瓦斯燈ヲ点火シ、行人ヲシテ驚異ノ眼ヲ瞠(みは)ラシメシハ・・・」と記されている。


東京ガス「ガス資料館」(小平市)に日本のガス事業を指導したフランス人プレグラン直筆の明治7年(1874)のガス街灯路線設計図が残っている。金杉橋から銀座・京橋、さらに神田や本町通りを浅草橋までにわたる計画図である。銀座では現在の中央通りのほか、みゆき通り、晴海通り、一丁目の銀座桜通りにもガス灯敷設が描かれている。


当時のガス灯は黄色い炎が燃えているだけで、ロウソクの明るさが40ルクスに対し、裸火のガス灯は60ルクスだったいう。しかし暗闇では提灯よりは明るく、ハイカラで珍しさも含め、大勢の見物人が集まったといわれている。


点灯には半纏を着た「点消方(てんしょうかた)」と呼ばれた人が、硫黄を火種とした点火棒を持ち、一人でガス灯50基ほどに約1時間かけて火をつけて回ったという。朝になると消さなくてはならないので、朝寝坊しないために妻帯者でなければならなかったそうだ。〔写真③:銀座ガス灯復元記念ハガキから「銀座通煉瓦造」(部分)三代広重:京橋図書館蔵〕


同資料館によると、明治11年(1878)守田勘弥が建てた「新富座」はガス灯をふんだんに使い、舞台照明にも用いられた近代的劇場で、東京ではじめて夜間興行がされたという。


また資料館庭内には、 横浜市 やロンドン、パリなどのガス灯とともに、築地明石町浜離宮に建てられたというガス灯2基も点灯している。上部火屋の部分は複製だが、鉄柱は当時のものとのこと。確かに柱の意匠が異なっている。〔写真②:手前が築地明石町、奥が浜離宮の復元ガス灯〕


新橋停車場から銀座煉瓦街、そして築地ホテルなど、江戸から東京へと国家新生の象徴として、当時の情景は錦絵にも多く描かれた。いまの中央区が近代文明への変貌を遂げていった時代を物語っている。

 

 

◆秋の中央区文化財めぐり ~歴史的建物を1日コースで訪ねる~

[巻渕彰/写楽さい] 2009年11月 9日 09:30

11月8日(日)、「秋の中央区文化財めぐり」(中央区教育委員会主催)が東京文化財ウィーク2009の企画事業として開かれた。この日の講師は岡本哲志(おかもと・さとし)氏、去る10月22日放送のNHKテレビ「ブラタモリ」銀座案内で登場された。


0913_091108_bunkazaimeguri0.jpg 朝9時半、参加者20人を乗せたバスは郷土天文館(タイムドーム明石)を出発し、明石小学校へ向かう。今日のために校舎の屋上まで上り、震災復興事業初期の建物を身近から見られた。その先には聖路加看護大学の十字架が望める。銀座では開店前の「銀座ライオン七丁目店」の店内を見学、昭和初期の建造で内部の装飾に目を奪われる。いまや銀座名物の"路地"を渡り歩きながら数寄屋橋公園へ。泰明小学校は同じ震災復興事業であるが、明石小学校とは様式を異にする(写真=泰明小学校内部写真を見ながらの解説)。


午後は東京国際フォーラムから歩き始め、さきごろ復元された「三菱一号館」の内部を見る。「明治生命館」では見学コースをまわり、「近代建築の傑作」を実感する。京橋では中央区指定文化財の「明治屋京橋ビル」を外観から眺める。やがて最終ポイントの「高島屋東京店」に着く。この6月に百貨店としてはじめて国重要文化財に登録された建物である。2組にわかれ、同店コンシェルジュから詳細な解説を受ける。一周を外観し、内部では見学と説明があり、大理石で囲まれた内装に重厚さを感じる。創建時のエレベーターで屋上へ。名物だった象の「高子」に思いを馳せる。今もその名残が「塔屋」にあったのだ。まもなく午後4時、ここで文化財めぐりを終えた。


秋の爽やかな一日、建造物を通して 中央区の歴史・文化の一端を体感できたことは、岡本講師の分かりやすく、ていねいで、しかも専門家の立場からの解説に負うところが大きかった。今日の文化財めぐりに参加し、講師の銀座を中心とした研究著作物を改めて読み返してみたい。

 

 

◆中央区 ここに歴史あり<14>~「京橋」の「京」は、「口」か「曰」か

[巻渕彰/写楽さい] 2009年11月 6日 12:00

前回に続き、「京橋」の話。京橋は江戸初期、日本橋と同じころの創架といわれている。京の都へ向かう橋だから「京橋」と名付けられそうだ。日本橋や京橋は幕府直轄の御公儀橋として擬宝珠が施されていたのが特徴である。


0913_141_091105kyobashi02.jpg 現在、南北両橋詰に中央区民文化財である、明治8年(1875)に建造した京橋の親柱が残っている。橋名揮毫は明治期の詩人・漢学者佐々木支陰〔南・北町奉行などを歴任した佐々木顯発(あきのぶ)長男。ちなみに人形町甘酒横丁にある菓子舗とご関係があるらしい〕。


南詰西側(銀座一丁目交番脇)の親柱には「きやうはし」と彫られ、「きやう」は「きょう」の旧仮名遣いであることは、判別できる。現代表記でないのが古き時代を語っている。


一方、北詰東側(警察博物館前)に残る漢字の親柱とその脇にある昭和13年(1938)設置の来歴銘板をよく見ると、「亰(=京の異体字、下記注参照)橋」と刻まれている(写真)。お気付きのように、「亰」は「京」の「口」部の中に「一」が入っている。つまり「口」でなく「曰」になっている異体字である(図参照)


〔注〕最近のパソコンでは、「京」は口でない異体字の曰の字=「亰」もフォント処理できるが、Webサイトなど機種によっては異体字が扱えない場合がある。


明治前期には「東京」の「京」を「口」でなく「曰」とする異体字の「亰」と表していたことがあった。これを「トウケイ」と発音し、この時期を「東亰=トウケイ時代」と呼ばれた。江戸時代や旧幕に対する追慕から、「京=キョウ」という上方風を嫌い、「京=ケイ」つまり「トウケイ」と読み、さらに「京」でなく異体字の「亰」を使った人々が多くいたといわれ、当時の文学や随筆などにもよく見られる。


「京」の読み方は、「キョウ(キャウ)」と読むのは呉音、「ケイ」は漢音、「キン」は唐音。「京浜=ケイヒン」などは漢音の読みであり、「北京=ペキン」は唐音である。よって「東亰(京は口でなく曰)=トウケイ」と漢音の呼び方がされた。もう死語になってしまったのだろうか。

 

 
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