[巻渕彰/写楽さい]
2012年10月29日 10:12
スマートフォンやタブレット端末が急速に普及している。こうした中、このほど銀座のまち歩きガイドに専用アプリ(無料)が登場した。テキスト(文字)・画像情報に加え音声で銀座の案内をしてくれるもので、案内ポイントに近づくとそこの解説に切り替わる便利な機能がある(写真はiPad画面から)。スマホを持っての銀ブラには、何か新しい発見もありそうだ。
今回リリースされたアプリはApple iOS用でiPhoneやiPad対応版である。アンドロイド版はすでに公開済みという。銀座通りでは今年9月末から"G Free"という銀座地区無料公衆無線LANのフリーWiFiが提供されているので、これと併用すればネット環境の利便性がさらに高まる。
このアプリは「銀座ガイド」「ココシル銀座」(いずれもユーシーテクノロジ社)の2種。「銀座ガイド」には音声ガイド「銀座ガイド」「同ディスクジョッキー風」などと、ツアーガイド「ギャラリー探訪」「裏道踏破」「史跡めぐり」などのメニューが揃っている。音声ガイドの「銀座ガイド」では銀座の歴史、トピックスなどが20分ほど聞ける。さらに、松屋、三越、和光などの案内ポイントに近づくと自動的に切り替わり、施設の解説をしてくれるすぐれもの。iPadでは写真や古地図の表示もある。
「ココシル銀座」はマップ検索、QRコードの読み取り、イベント紹介のほか、「銀座今ZINE」というWebマガジンや街角のホットな話題を発信する「口コミ」コーナーもある。
これまで「東京ユビキタス計画・銀座」では、専用端末を使った銀座ガイドの実証実験がされてきたが、今回はスマートフォンでそれができるようになった。一方で、どの程度利用者に浸透するのか興味あるところである。提供されている銀座ガイドの解説には、ボランティアガイドの中央区文化財サポーターが協力している。●巻渕彰
[巻渕彰/写楽さい]
2012年10月15日 08:40
中央区立郷土天文館(タイムドーム明石)で第14回特別展「ふたつの銀座復興-文明開化とモダン文化-」が開かれている。明治5年(1872)の銀座大火と大正12年(1923)の関東大震災の災禍を乗り越えて、復興を果たした銀座を文明開化とモダン文化の視点から切り込んだ特別展で、今日の銀座発展の礎となった原点が浮かび上がってくる。
会期は11/25まで、月曜休館、特別展は入場無料(常設展は入館料100円が必要)。
140年前の銀座、明治5年(1872)の大火は築地まで延焼し、家屋4879戸を焼き尽くした。その復興事業で建設されたのが銀座煉瓦街であった。不燃化された銀座には新聞社などが進出し、情報発信の地となった。当時の貴重な新聞各紙が展示されている。文明開化の波は近代的な銀座を形成していった。大正期の商店ショーウインドー記録写真は斬新な意匠が興味深い。
明治後期に誕生したカフェーには文士や画家たちが集い、西洋風の雰囲気で銀座の新しい文化を醸し出したという。大正10年(1921)には後藤新平東京市長らが出席して、銀座大火からの復興50年祭を祝った。
それから2年後、大正12年(1923)9月に突然襲った関東大震災は未曽有の被害をもたらした。当時の被災写真は惨状を生々しく伝えている。復興に立ち上がった銀座にはバラック建築などが建てられ、復興へまい進していった。そして被災から6年6カ月後の昭和5年(1930)3月に帝都復興祭が挙行された。そのころはデパートの進出、商店のビル化などが進み、今日でもそれらビルの一部が現存している。
震災後はモダン銀座としてモボ・モガの風俗が流行った。カフェー文化、マネキンガールなどが進展し、文学や雑誌・出版さらに流行歌まで銀座文化が広まっていったことが、多くの展示物からうかがえる。
この「ふたつの銀座復興」と、その後の太平洋戦争でも甚大な戦禍を被った銀座が、今日の発展につながっているのは、幾多の困難を克服してきた「銀座力」といえよう。そんなことを考えさせられる特別展である。●巻渕彰
◇関連した講演会も開催される。詳しくは、郷土天文館HP >>こちら
[巻渕彰/写楽さい]
2012年10月 4日 21:53
中央区内の五街道をゆく、第2回は甲州街道。江戸期は内藤新宿、八王子から甲府を経て下諏訪までの道中だった。現在の中央区内部分は国道1号と重なり、日本橋からわずかな距離しかない。そこで少し足を延ばして、旧甲州街道を継承している、国道20号分岐点まで歩いてみたい。
起点の日本橋を出発し、中央通りを南へ日本橋交差点まで歩く。ここまでは国道1号や東海道、現国道15号と同じだ。交差点を大手町方面へ西に折れると国道1号は永代通りと呼ばれる(写真上左)。やがて呉服橋交差点に差し掛かる。古くは呉服町があったことに由来する。北側に明治期、「竹久夢二・港屋絵草紙店」があった。
南北をつなぐ現在の外堀通りは、江戸城の外堀跡で呉服橋が架かり、西側に呉服橋御門が置かれていた。この外堀通りを神田方面に向かうと一石橋。外堀、道三堀、日本橋川が合流した地点だった。江戸百景「八つ見のはし」や名所図会「八見橋」に描かれている。現在は南詰西側に安政期の「一石橋迷子しらせの石標」(写真上右)と区民文化財である大正期の「一石橋の親柱」が残る。
呉服橋交差点を越えた地点で中央区から離れ、千代田区丸の内に入る。南側のビルの裏には「北町奉行所跡」(写真下左)がある。JR有楽町駅付近の「南町奉行所跡」とともに江戸市中を統治していた様子がよみがえる。しばらく歩くと大手町交差点に突き当たる。直進すると大手門、南に行くと国道1号は日比谷通りとなる。
内堀に沿って南に歩き、馬場先門の重要文化財「明治生命館」あたりには「定火消同心屋敷」があった付近で、歌川広重が生まれたところだ。このあたりはまた、ヤン・ヨーステン屋敷があったことから「八代洲河岸」と呼ばれ、近代では麹町区八重洲町であった。先に進むと日比谷交差点。
日比谷公園の日比谷御門跡を右折して西に向かうと国道1号は晴海通りで、桜田門交差点に差し掛かる。ここで南に左折すると国道1号は桜田通り、日本橋から3kmの標識が立つ。直進すると国道20号で、ようやく甲州街道に出会える(写真下右)。半蔵門から新宿方面へいく道は、現在新宿通りだ。●巻渕彰