[之乎者也]
2015年11月10日 09:00
新川2丁目の永代橋西詰に「船員教育発祥の地」の記念碑が建っています。今から140年前の明治8年(1875年)11月1日、東京商船学校(現、東京海洋大学海洋工学部)の前身である三菱商船学校が設立された場所です。
当時、250年余り続いた鎖国により日本の海運業は立ち遅れ、主な外航船の運航は外国人船員に頼っていました。近代国家としての体裁を整えるためにも、明治新政府は、日本人による国際航路の運航を急務と考え、内務大臣大久保利通の命令により、三菱財閥の岩崎彌太郎に命じ、霊岸島(現在の新川)傍の大川に係留した帆船・成妙丸を校舎・練習船として、本格的な高等船員教育が始まったのでした。
【「校船 成妙丸(明治8年)」東京海洋大学百周年記念資料館提供】
霊岸島で設立された三菱商船学校は、その後官立に移管されて東京商船学校となり、現在は隅田川を挟んで反対側の江東区越中島の東京海洋大学海洋工学部に引き継がれています。
【「商船学校 霊岸島校舎(明治27年)」東京海洋大学百周年記念資料館提供】
大久保利通は、岩崎彌太郎に命じて商船学校を作らせましたが、土佐藩のビジネスを引き継いだ九十九商会(1870年設立)を源流とする三菱蒸気船会社の本社が日本橋南茅場町に置かれていた(明治7年)ことや、同社が東京⇔大阪、高知⇔神戸航路などで蒸気船運送を行っていた(三菱蒸気船会社は、明治18年に三井系国策会社の共同運輸会社と合併して日本郵船となる)ことなどから、海運のプロとしての岩崎彌太郎に白羽の矢が立ったということでしょうか。
永代橋から新川公園、中央大橋、石川島公園を歩いていくと相生橋に突き当たります。橋を渡った江東区の越中島に東京海洋大学百周年記念資料館があります。こちらでは常設展示(船のエンジン、船模型、信号用手旗、ロープワーク他)があるほか、明治丸の甲板にも上ることができます。写真はご案内頂いた記念資料館ボランティアで東京商船大学OBの森さんです。
なお、記念資料館では特別展として11月30日までの期間「船が開く明治~商船教育140年記念展示~ 人が船を育て、船が人を育てた」を開催中です。文中掲載の三菱商船学校関係の写真は同展示で期間限定公開されているもので、東京海洋大学百周年記念資料館さんのご好意により提供頂きました。
記念史料館は江東区・越中島にありますが、対岸の霊岸島(現、中央区新川)に設立された三菱商船学校の歴史を知る良い機会です。永代橋西詰の「船員教育発祥の地記念碑」から中央区のウォーターフロントの歴史に思いを馳せながら足を伸ばしてみたら如何でしょうか。
【船員教育発祥の地記念碑】
所在地: 中央区新川1-30先(永代橋西詰・永代通り南側歩道)
(日比谷線・東西線茅場町下車徒歩5分)
【東京海洋大学海洋工学部百周年記念資料館】
〒135-8533 江東区越中島2-1-6 東京海洋大学越中島地区キャンパス 百周年記念資料館
(地下鉄有楽町線・大江戸線月島駅から徒歩約10分)
開館時間:1000~1500 (火・木/第1・3土のみ開館)
入館料:無料
TEL;03-5245-7360(明治丸海事ミュージアム)
[之乎者也]
2015年11月 4日 09:00
日一日と寒くなるこのごろ。夜もそそくさと家に帰る日が多いのですが、久しぶりに人形町で働いている友人と夕食をということになりました。季節柄暖かいものをということで、友人の提案で「ネギマナベ」を食べようということになりました。さて、実は私、今回友人から誘われるまでこの料理については聞いたことが無く、待ち合わせの時間を利用して「ネギマ」って何?と調べてみました。
すると「ねぎまの殿様」という落語のお話が出て来ます。これは落語家の5代目古今亭今輔(ここんていいますけ)さんが得意としたお話です。
≪家来を連れて向島の雪見にお忍びで出かけた殿様が、真冬の筑波おろしの北風が吹く中、(上野)広小路に立ち並ぶ煮売り屋の匂いにつられ、下々の食べ物だからという三太夫(家来)の声にも耳を貸さず、醤油樽に腰掛けて葱鮪(ねぎま)鍋を食したところ大変気に入ってしまう。店の小僧の早口で「ネギマ」が「にゃ~」と聞こえた殿様の前に出てきた小鍋には、骨や血合いが混ざったマグロのぶつ切りに青ねぎが入っており、三色で三毛猫のようにも見える。食べてみればねぎの芯が鉄砲のように元気に口の中で飛び跳ねる。
屋敷に戻った殿様は、あの「にゃ~」を食したいと所望し、留太夫(料理係)は「にゃ~」 とは何かと聞き返すこともできずに頭を抱えるが、三太夫から話を聞きだしてねぎま鍋だと判る。
しかし、庶民の食べ物をそのまま殿様に出すわけにもいかず、マグロもネギも丁寧に下ごしらえして作ると、殿様は「これはにゃ~ではない」とすっかりおかんむり。留太夫は仕方無く、ブツマグロに、青ネギと煮売り屋同様の材料で作り直します。殿様は大変ご満悦で、「留太夫、座っていては面白くない。醤油樽をもて」と。≫
ここで友人が到着したので、大観音寺横の芸者新道を通って、よし梅本店に向かいます。芸者新道はかつての花町の芸者置屋がそのまま残り、ドラマ『新参者』の「まつ矢」のモデルのきく屋やよし梅などの町並みが江戸情緒を演出します。 敷石を踏みながら店内に入ると、かつての置屋のつくりがそのまま残る座敷に案内されます。
よし梅は、芳町に住んでいたうめさんが、昭和2年に創業したことから「よし梅」と称しているそうで、さすがに「殿様」が広小路で賞味したようなワイルドな料理は出てきませんでしたが、まぐろ(トロ)とネギのまさに「ねぎま鍋」で江戸に思いを馳せながら温まりました。
なお、よし梅には今回行った本店の他に同じ芸者新道に「よし梅芳町亭」がありますが、こちらは登録有形文化財に指定されており、女優の花柳小菊(はなやぎこぎく)さんの住居でもありました。【よし梅 本店】
〒103-0013 中央区人形町1-18-3
TEL:03-3668-4069
営業時間: 1700~2200(LO:2100。ランチ営業もあり、土日祝は休)
[之乎者也]
2015年11月 3日 12:00
そろそろ髪が伸びてきたのでいつも通っている理髪店に向かいます。場所は以前ブログでもご紹介した『銀座インズ3』。。。
そう、銀座を廻る東京高速道路の下にある商店街です。こちら、高速道路の下に商店街という点もユニークですが、中のテナントも前回ご紹介した『ジャポネ(/archive/2015/08/post-2652.html)』など魅力的なお店が入っています。今回は『東京高速道路』第3弾ということで銀座インズ3にある床屋さんと幻の町名『銀座西1丁目』についてお話をしたいと思います。
地下鉄有楽町線の銀座一丁目駅の上にある銀座インズ3入口のガラスドアを開けて中に入ります。昭和の雰囲気の漂う仕立屋さんなどの横を抜けて奥へ入って行くと赤・白・青の三色縞模様の回転ポールが目に入ります。お店の名前は『銀座マツナガ有楽町店』。ここまで読み進んで疑問を持たれる方もいらっしゃると思いますのでちょっと補足説明を。こちらのお店、有楽町店ということではありますが、場所は中央区にあります。銀座マツナガ有楽町店のある銀座インズ3は、もともと外堀(川)を埋め立てて作られた東京高速道路の下にあるため、中央区と千代田区のちょうど境界線上にあることになります。実際、行政区画が不明確であるため現在も「銀座西1丁目2番地先(さき)」という珍しい住所になっています。現在銀座地区の住居表示は、銀座1~8丁目に統合されていますが、これらはかつて銀座西、銀座、銀座東(旧木挽町など)という地名に分かれていました。【出所: wikipediaより「震災復興前後の新旧町名対照図(銀座地区)」】
銀座西1丁目という地名は、現在の銀座1丁目のうち銀座ガス灯通りの西側から外堀通りまでがもともと南紺屋町。西紺屋町という町名であったところ、1930年に銀座西1丁目という町名に変更され、さらには1968年の住居表示変更により銀座1丁目に統合され、銀座1丁目になったのでした。これにより銀座西1丁目という町名は消滅したかに見えましたが、東京高速道路のおかげで現在まで例外的に残ることとなったというわけです。
銀座マツナガさんのお話に戻ります。ドアを開けて中に入ると一転して明るい照明の下、木目調のパーティションで区切られた清潔でおしゃれな空間です。会社から近いこともあり私は定期的にこちらに通っていますが、理髪店お約束のカット、シャンプー、髭剃り、そして肩もみはもちろんのこと、オプションもいろいろあります。高い技術はもちろんのこと、丁寧かつフレンドリーな対応で非常に居心地も良く、至福の時間を楽しめます。写真はいつもお世話になっているスタイリストの小澤(こざわ)さんです。
銀座マツナガは、1968年に名前の通り銀座で開業してから47年。現在では銀座地区の3店舗のみならず18店舗を展開。海外にも進出し、ドイツ、ベトナムでは現地で頑張る日本人の生活を支えるグローバルな床屋さんです。
有楽町店は銀ブラの帰りにちょっと立ち寄るにも便利な場所にありますが、こちらはオフィス街からも近く、夕方はかなり込み合いますので予め予約を入れておいたほうが良いかもしれません。
【ヘアサロン銀座マツナガ 有楽町店】
〒104-0061 中央区銀座西1丁目2番地先 銀座インズ3 1階
(有楽町線銀座1丁目駅 1番出口すぐ)
TEL: 03-3567-3887
営業時間:1030~2000(土日祝は1900まで)
[之乎者也]
2015年11月 2日 10:00
気がつくともう11月。日差しのある昼間はまだ暖かく街歩きも楽しめますが、日没時間もぐっと早くなり、すっかり秋の夜長です。早く家に帰り、食事を終えての読書が楽しい季節になりました。今回は「文学で楽しむ中央区」第3弾として、関東郡代伊奈半左衛門忠順(ただのぶ)が主人公として活躍する『怒る富士』(新田次郎著)をご紹介します。
時代は江戸時代中期の宝永年間(1704~1710)。書名からも明らかなように1707年11月23日、富士山が大爆発を起こすところから始まります。噴火は17日間続き、富士山麓は降り続いた砂や火山灰で埋まり、農民は田畑の耕作はもちろんのこと、生活を続けることも困難な状況に陥ります。このような状況で、関東郡代の伊奈半左衛門は富士山の大爆発の被害の後始末を任されることになります。半左衛門は、高いモラルで農民を救うべく奔走しますが、そんな農民の窮状を他所に、権力闘争にうつつを抜かす幕府の官僚により、せっかく工面した資金も横流しされ復興はなかなか進みません。半左衛門はこのような状況を見るに見かね、独断で幕府の駿府(現、静岡市)にある米倉を開き被災地域の飢民へ分配します。結果として彼はこの違法行為の責任を取って切腹するというお話です。
関東郡代という職責については、聞いただけではわかりにくいのですが、徳川幕府の代官職の中でも最高の家柄で、関八州を支配し大名もしのぐ権力を持っていたと言われます。初代伊奈忠次以来、利根川・荒川等の河川改修など土木技術を担当する実務的官僚として代々世襲で徳川家に仕え、半左衛門忠順は7代目になります(伊奈家の関東郡代職は、お家騒動で第12代忠尊が1792年に改易されるまで続きます)。小説では半左衛門の富士山大爆発被害後始末の顛末が中心になりますが、半左衛門の業績は、むしろ江戸において多く、5代将軍綱吉の50歳の誕生日を記念した永代橋の架橋(1698年)や深川、本所、浅草川などの治水関連工事を行っており、関東郡代役宅(屋敷)は浅草橋の南詰、現在の中央区馬喰町にありました。小説では富士山噴火後の復興がストーリーの中心なので駿府や酒匂などの場面が多いですが、幕府との連絡や事務処理などの場面で馬喰町の役宅が登場します。秋の夜長、小説で江戸時代の浅草橋に思いを馳せてみるのは如何でしょうか。なお、浅草橋南詰の東日本橋派出所横には郡代屋敷の解説版が、北詰(台東区側)には浅草見附跡の碑が建っていますので、街歩きではこちらもご覧下さい。
【郡代屋敷跡】
場所:中央区馬喰町2丁目
交通;JR馬喰町駅下車徒歩2分、JR・都営浅草線浅草橋駅下車徒歩5分
(東日本橋派出所横に「郡代屋敷跡」の解説板あり)