[巻渕彰/写楽さい]
2010年2月24日 13:00
以前、交差点の名称として残っている橋を取り上げたが、今回はバス停や駐車場名などに記された、かつての橋名を紹介したい。
ところで、現在、
中央区 内にはいくつぐらいの橋があるだろうか。中央区HP(ホームページ)によれば、75の橋梁が記載されている。ただし、この中には高速道路上や陸橋や取り付け部も入っているので必ずしも川に架かる橋とは限らない。
橋は町と町を結ぶ重要な役割を果す、とともに交通の目印でもある。今はもうなくなった橋の名前が何らかの形で残っているところがある。都内を歩くとバス停などには古い町名や地名などが使われているのを目にする。そこは長く住民に親しまれ、町の暮らしがあったことが読み取れる。こうしたことが歴史を伝えるには欠かせないことである。由来を探ると、さらに歴史の深さが見えてくる。
最近はビル名や公共施設名にはカタカナの名称が目に付く。区内にもそのようなケースがいくつかある。これからの都市づくりには、「環境」「自然」とともに「歴史」との共存がキーワードになるに違いない。名称を付けるときは、のちのちまで受け継がれることを考えるのが重要だろう。
では、写真の場所はどこだろうか? 古地図と照らし合わせると歴史に会える。
(写真は上左から、白魚橋、木挽橋、紺屋橋、桜橋)
[坂の上のねこ]
2010年2月23日 09:00
佃島を舞台にした小説、「佃島ふたり書房」(出久根達郎さん著)は、登場人物のひとりが渡船で隅田川を渡り、佃島にやって来るところから物語が始まります。
この「佃の渡し」の歴史は古く、開通したのは正保2年(1644年)、摂津国佃村(大阪市西淀川区)の漁民が、徳川家康に従って江戸に入り、佃島を築造した翌年のことでした。
佃島と江戸市中を結ぶ水上の足として始まった「佃の渡し」は、その後、江戸・明治・大正・昭和と時代が移っても、重要な交通手段として人々に利用され、 隅田川流域最後の渡し船として活躍していましたが、昭和39年(1964年)、 佃大橋が完成したのに伴い、320年間の長い役割を終えました。
現在、隅田川の両側、佃と湊にそれぞれ「佃島渡船」と記された石碑が建っています。昭和2年(1927年)、東京市がそれまでの手漕ぎ船を廃止して、無料の曳船としたときの 記念に建てられたもので、中央区民文化財として登録されています。
(左)佃側
(右)湊側
詳しくはこちらを
「佃の渡し」からバトンを受けた「佃大橋」。
今週末(28日)に開催される東京マラソンのコースでは、ちょうど36キロ地点にあたります。
かつて渡し船に乗って隅田川を渡っていた古の人々が、32000人ものランナーたちが頭上を駆け抜けていく様子を見たら、どんなにか驚くことでしょう・・。
[下町トム]
2010年2月12日 08:45
築地本願寺の近くの横道を入ったところ、NTTデータのビルの一角に〔築地小劇場〕の跡があります。
〔築地小劇場〕は1924年、前年の関東大震災の復興の波の中で、新しい演劇の拠点をつくろうという人々によって開設されました。
わが国で最初の新劇の常設劇場でした。その後は当時としては前衛的な内容のものも含めて意欲的な演劇文化を発信し続けていたといいます。
中央区には、今年一時閉場となる〔歌舞伎座〕をはじめ、多くの劇場があるだけではなく、江戸期に栄えた歌舞伎の中心をなす芝居小屋もありました。
時代は流れ、シャンソンやジャズの歴史も中央区にはしっかり残っています。
古くから現代まで、都会のエンタテイメントの発展をしっかり支えてきた土地です。
中央区の魅力をもっと訪ねてみたいと思っています。
[坂の上のねこ]
2010年2月 2日 08:30
2月は冷たい雨でのスタートとなりましたが、春は着実にそこまで来ています。
というわけで、今日はこれから見ごろを迎えそうな梅の木をご紹介します。
写真は、佃波除稲荷神社(佃1-8-4)の横手に咲き始めた梅の花です。
この佃波除稲荷神社、すぐ近くの住吉神社
(佃1-1-14)に比べると、あまり知られていない
かもしれませんが、とても面白いものが見られます。
さて皆さん、この写真の「さし石」とは何かおわかりでしょうか?
ヒント:「さし石」の「さし」は「持ち上げる」という意味
もうおわかりですね、これはその昔、「力くらべ」に用いられた石なのです。
関東大震災のころまで、佃地域の力自慢の男たちが、この力石を
持ち上げてその力を競っていたとか。見た目は小さいかもしれませんが
なかなかどうして、そう簡単に持ち上げられるものではありません。
ちょっと「通好み」の佃波除稲荷神社に立ち寄って、
陰でひっそりと春の香りを漂わせている梅の花に誘われてみれば、
目の前には朱の佃小橋が・・。