[りょうきち]
2013年2月28日 12:00
今回は地味な内容の紹介ですが、私の住んでいる日本橋中洲をテーマにしてみました。
水天宮前駅からTCAT内を抜けて出たところはバスターミナルや高速道路の箱崎インターチェンジの出入り口があるのですが、今回の紹介したいものはその傍らにあります。
まっすぐ数十秒歩くと信号があり、それを右折し進むと、右手の高速道路の入り口の左隣にあるマンションの1階の外壁に、日本橋中洲とかつてそこにあった女橋について紹介がされているプレートがあります(日本橋中洲2−1)。こんなところにこんなものがあるのか、という気持ちからこちらに紹介することにしました。
町名の通り、大川(隅田川)の中洲であったこの地、浮世絵には川の中の葦などが生えている一帯として当時の様子が描かれています(広重 名所江戸百景 みつまたわかれの淵)。
江戸時代には一時、埋め立てられ賑わうものの、寛政期に廃され、明治期に賑わいを取り戻します。中洲は島のようになっていて、現在の高速道路が箱崎川となっていて男橋と女橋の2本の橋でつながっていました。シンプルな名称です。花柳界を感じさせる名称でもあります。中洲には劇場、料亭、飲食店が軒を連ねていたとのことです。永井荷風をはじめとする文人も通っていたそうです。
今は当時の風情はなくなってしまいました。水路も戦時復興時にがれきで埋められてしまい、賑わいもありません。代わりに清洲橋ができ、隅田川で一、二を争う美しさをたたえています。変わらないのはおそらく大川の流れ。中洲を訪れた人もおそらく川をみてしばしの浮き世離れを楽しんだことでしょう。今でも川は人を集めています。
実は日本橋中洲のことに気を留めなくとも、清洲橋や隅田川テラスを通じてこの街を通っている人は意外に多いのです。ただこのプレートはなかなか目に留まりにくい場所にあります。ご興味の方、近くに来られた際、探してみてください。
[ムーミン]
2013年2月27日 08:30
有るマンションの 路地の横の駐輪場の奥の 洗濯機や乾燥機が置かれている場所の側に この神社があります。 そのアンバランスさに 不思議さが漂います。 (堀留町1-6-11)
神社の起源は 元和3年(1617年)北条家の浪人で 親爺と呼ばれた 庄司甚右衛門とその他数名の仮屋敷に 京都伏見稲荷より祭神を勧請し 守護神として祀られました。
これに 初代市川団十郎が 日参して出世したことから 名があがり 以来商家、芸能など この信仰から数多く 出世したことから この名前がついたそうです。
現在の本殿は 関東大震災以後に 椙森神社の旧拝殿の廃材を再利用して建立したといい、旧岩代町(後に堀留町に合併)の 岩代稲荷神社も合祀されているようです。
初代市川団十郎のことから思い偲ばれるのは この2月3日にご逝去された十二代市川団十郎さんのことです。 御冥福を謹んで お祈りいたします。
[Mr.Chuo-ku]
2013年2月12日 12:00
中央区にある月島第二児童公園には、中央区の人口12万人突破(昭和44年以来42年ぶり)の記念として、桜(シダレザクラ)の苗木が植樹されています。
中央区人口の主な変遷
昭和22年:約11.5万人(中央区誕生時)
昭和28年:約17万人(これまでの最高人口)
平成 9年:約7万人(これまでの最低人口)
平成18年:「定住人口10万」を達成
平成20年:11万を突破
平成23年:12万を突破
中央区は2000年~05年の人口増加率が35.7%であり、政令指定都市の行政区を含む、全国約2000の区市町村で第1位とのこと。
特に、30歳代から40歳代の子育て世帯の人口が増え続けているようです。
この定住人口を礎に、安定した財政基盤のもとで、このような公園や子育て支援施設の新設を期待しています。
中央区の人口・世帯数
http://www.city.chuo.lg.jp/syokai/tokeiderta/zinko/tyuuoukunozinkousetaisuu/index.html
[巻渕彰/写楽さい]
2013年2月 7日 10:30
中央区内の五街道をゆく、第4回は奥州街道。江戸期は日本橋から東北へ千住宿を経て陸奥白河までの道中。現在の中央区部分は室町三丁目交差点までは国道17号と重なり、ここを右折して東進すると江戸通りで国道4号、6号となる。さらに昭和通りを左折し北進すると国道4号で、千代田区との区境の地蔵橋跡までである。
室町三丁目交差点の江戸通り側、JR総武線快速「新日本橋駅」出入り口に「長崎屋跡」の説明板が立っている(写真上左)。鎖国のなかでも海外との窓口になったところで、オランダ商館長の定宿だった。ここに20日間滞在したと狂歌に詠まれている。敷地約540坪といわれるから、付近一帯が旅宿だったのだろう。長崎屋は幕末期、船松町(現明石町付近)に移転して幕を閉じた。
江戸通りは関東大震災復興道路のひとつで、当初は「新常盤橋通り」と呼ばれ、のち現称になった。昭和通りと交差する本町交差点は、首都高速を含め、道路標識が交錯したところでもある。
国道4号線は昭和通りを北に向かうので、首都高速に沿いながら左折すると宇都宮方面への表示板がみえる(写真上右)。やがて左手に小公園が現れる。地蔵橋公園である。ここには龍閑川が流れ、地蔵橋があったところである。千代田区との境で、両区連記の記念碑が立っている(写真下左)。
地蔵橋公園の反対側、昭和通りの東側に目を転じると、千代田区設置の「神田八丁堀跡」説明板がある(写真下右)。龍閑川は通称神田八丁堀とも呼ばれたことに由来する。江戸後期、十返舎一九の滑稽本「東海道中膝栗毛」では主人公、弥次郎兵衛と喜多八がこの辺りの住人だったという話からはじまる。一九の墓は勝どき四丁目の東陽院にある。国道4号は上野を経てみちのくへ向かう。●巻渕彰