[佐平次]
2016年3月30日 09:00
白木屋傳兵衛は江戸箒を製造販売する老舗である。
天保元年(1830年)に銀座で創業し、その後京橋に移った。
もちろん、座敷箒は以前から存在していたが、「江戸箒」として箒の製造販売を始めたのが白木屋傳兵衛である。
それまでは座敷箒の材料としてはシュロが一般的であったが、ホウキモロコシの草を原料とした「江戸箒」は、畳にあった箒、長屋暮らしにぴったり、当たりが柔らかくてコシがあるので、力を入れなくてもササッと掃き出しやすいのが特徴だそうだ。
それまでの座敷箒を進化させ、バランス良く軽い箒を追求して作られた「江戸箒」はホウキモロコシという天然の草を原料として選別し、編み上げてゆくのだが、その編み込みの美しさは、"江戸の粋"であるとも言われています。
天然の素材を使用し、深夜の掃除も周囲に遠慮なく手軽に出来、畳には最適、絨毯にもペットの毛取りにも使え、電気代がかからない、静電気が起きないなど環境に優しい生活・暮らしをしたいということで売り上げも伸びているとのこと。
ただ、質の高い箒を作るためには原料の生産、選別に大変な労力が掛かる。
先ずは職人の手の感覚によって、その草の「柔らかさ・ コシ・キメの細かさ」といった基準で20等級ほどに選別し、さらに「上」・「特上」・「極上」といったランクに満たされた草だけを使い、熟練した職人でさえ編み上げには長柄で1日3~5本しか出来ないそうだ。
そのため極上の「江戸箒」は非常に高価(ダイソンの掃除機よりも高い)ですが、「江戸箒」の場合、約「5年ほど」使い込むと穂 先が摩擦により減って「ちびて」きても、穂先をパチパチと切り揃えるとコシが戻ってきて、使い勝手が戻ってくるので、最終的には玄関掃きにまでおろして使えば、江戸箒そのものは最低でも「10年」は使用可能とのこと。
もちろん店内には机上や食卓用の小箒や洋服の埃払いの小箒など手軽な値段のものもある。
面白いのは「安産祈願用の箒」が置いてありますが、これは千年以上も前から日本では、箒には神仏の霊力が宿り、妊婦のお腹を新しい箒でなでると安産になる、といった言い伝えがあるのだそうです。
出産を控えた方にプレゼントするのもシャレていると思いますが...。
他にもギャラリーには各種の箒が陳列されています。
http://www.edohouki.com/
東京都中央区京橋3-9-8 白伝ビル1F
フリーダイヤル : (0120)375389 (ミナゴミハク)
TEL : 03(3563)1771 FAX:03(3562)5516
営業時間 : 月~土 10:00~19:00 (日、祝日休み)
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2016年3月22日 14:00
3月20日より、築地波除稲荷神社では、「名残の雛神事」 "人形のお飾り" が開始されました。
「名残の雛神事」<雛人形・人形供養祭>は、
2月4日~3月18日まで 雛人形・お人形のお焚き上げを受付し、3月20日~27日まで お持ち込みの雛人形・お人形をお飾りし、神職が人形の供養祭の祭典をしてお祓いし、その後、日を改めてお焚き上げをしてお流しする手順にて執り行われます。
"人形のお飾り" は、お焚き上げする前に、一週間、参拝の皆様に見ていただき、もう一度名残を惜しんでいただこうとの、お持ち込み人形の展示期間。
雛人形は勿論のこと、ぬいぐるみ、5月人形、日本人形、外国人形、雛人形のお道具等も受付けていただけるようです。
大切にされてきた人形、思い入れのある人形、そのまま捨てるには忍びないとの思いで持ち込まれた、色とりどりの人形が、天井大獅子の周囲にも所狭しと並べられています。
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2016年3月21日 14:00
勝鬨橋、特に橋の開閉の描写として、『鏡子の家』(1959年単行本刊行)の上記部分が引用されることが多いが、『幸福號出帆』(1955年新聞連載、1956年単行本刊行)は、主人公三津子が月島で育ち、銀座のデパートに勤めているという設定であるだけに、勝鬨橋、晴海等についての記述が多い。
>わけがわからぬままに三津子は朝食をたべ、一人ではしやいでいる母を殘して、出勤した。足代の節約のために、毎日、月島から銀座まで、徒歩でゆきかへりするのである。
職場の休み時間に、屋上ででも、もう一度ゆつくりと讀み返さうと思つて、橋詰で新聞を買ひ、三津子はかちどき橋を渡りだした。
雲一つない快晴の朝である。しかも風がさはやかだ。いつもより早く家を出たので、どんなにゆつくり歩いても間に合ふ。
常々、立ち止つてみたことなどない橋の袂に、三津子は立止つて河口を眺めた。
倉庫の前には、さびたドラム缶の赤さびの色までが、旭にかがやく水の上で美しくみえた。對岸の魚河岸の桟橋には、鰹船の景氣よい赤い旗がはためいてゐた。朝の河口は活氣にあふれ、あちこちから、喜びに鼓動する心臓の音みたいなポンポン蒸氣の音がきこえた。
三津子まで、何だか幸福の豫感がしてきた。
・・・・・
・・・・・・・三津子は程近い魚河岸の桟橋を眺めてゐた。そこからは、われ鐘のやうな流行歌のレコードがきこえ、鰹船から永い一列縦隊をゑがいてゐる。ゴム長や、ゴム前掛をし、白い鉢巻をしめた若い衆たちの姿が見えた。かれらは、防空演習のバケツ・リレーの要領で、青く光る鰹を一疋づつ、手から手へ、波のやうな調子をつけてリレーしたすゑ、それを倉庫の前に積み上げてゐるのが、光る刃物を積み上げてゐるやうにみえた。(8-363)
勝鬨橋の月島側から見た現在の築地市場
>月島からさらに南にゆき、橋をわたると、そこは東京都の南の外れだ。晴海埠頭といふ名の埋立地。そこでこの間まで、國際見本市がひらかれてゐた。
ゴバンの目の廣濶な舗装道路、さはやかな街路樹、新らしい歩道、・・・・・まつたくこれだけのものが銀座のまんなかにあれば、銀座も世界の一流都市の仲間入りができるだらうに、天、二物を輿へず、の見本みたいなもので目抜き通りの歩道はデコボコで歩けず、草蓬々の埋立地のまんなかには、こんなに立派な道路が森閑としてゐる。
空がおどろくほどひろい。その空には、うすい雲がひろがつて、空の裾のはうが、船や工場の黑煙によごされてゐる。 (382)
現在の晴海
>かちどき橋を渡る手前の右側に、大きな碑が立つてゐる。そのうしろがすこし低くなつて、かちどき橋變電所の白レングヮの建物が川にのぞんでゐる。
待ち人がなかなか現はれないので、敏夫はつれづれに、讀みにくいその碑銘を讀んだ。
「勝鬨橋之記
明治三十七年の戦役に於て皇軍大捷す。京橋区民は之が戦勝を記念し、此處に渡船場を設け、勝鬨の渡と名付け、東京市に寄附す・・・・・・・・」 (448)
「かちどき橋の資料館」(変電所が改修された)と碑銘
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2016年3月21日 12:00
三島由紀夫の小説『鏡子の家』は、昭和33年(1958)、雑誌『声』創刊号に1章と2章途中まで掲載された後、翌年昭和34年(1959)に新潮社から、「第一部」「第二部」の2冊同時に、単行本刊行された。
この冒頭に、下記のように勝鬨橋とその近辺の描写がある。、
>勝鬨橋のあたりは車が混雑してゐるのが遠くからわかる。どうしたんだらう、事故でもあったのかな、と収が言った。が、様子で、開閉橋があがる時刻だとわかつた。峻吉は舌打ちした。ちえつ、埋立地はあきらめようや、じれったい、と言ふ。しかし夏雄と鏡子が、まだ一度も見たことのない、その橋のあがるところを見たがったので、可成手前に車をとめて、みんなでぞろぞろ鐵橋の部分を渡って見に行った。峻吉と収はいささかも興味のない顔をしている。
中央部が鐵板になつてゐる。その部分だけが開閉するのである。その前後に係員が赤旗を持って立つてゐて、停められた車がひしめいてゐる。歩道のゆくても一條の鎖で阻まれてゐる。かなりの数の見物人もゐるが、通行を阻まれたのをさいはひ油を賣つている御用聞きや出前持などもゐる。
電車の線路のとほつてゐる鐵板が、その上に何ものも載せないで、黒く、しんとしてゐた。それを両側から車と人が見戌つてゐる。
そのうちに鐵板の中央部がむくむくとうごき出した。その部分が徐々に頭をもたげ、割れ目をひらいた。鐵板はせり上って来、両側の鐵の欄干も、これにまたがつてゐた鐵のアーチも、鈍く灯った電燈を柱につけたまま、大まかにせり上がつた。夏雄はこの動きを美しいと思つた。
鐵板がいよいよ垂直にならうとするとき、その両脇の無数の鐵鋲の凹みから、おびただしい土埃が、薄い煙を立てて走り落ちる。両脇の無数の鐵鋲の、ひとつひとつ帯びた小さな影が、だんだんにつづまつて鐵鋲に接し、両側の欄干の影も、次第に角度をゆがめて動いて来る。さうして鐵板が全く垂直になつたとき、影も亦静まつた。夏雄は目をあげて、横倒しになつた鐵のアーチの柱を、かすめてすぎる一羽の鷗を見た。
・・・・・・・・・・
ずいぶん永く待つたやうな氣がした。・・・・・
車は勝鬨橋を渡り、月島の町のあひだをすぎて、さらに黎明橋を渡つた。見渡すかぎり平坦な荒野が青く、ひろい碁盤の目の舗装道路がこれを劃してゐた。海風は頬を搏つた。峻吉は、米軍施設のはづれにある滑走路の、立入禁止の札を目じるしに車をとめた。かなた米軍の宿舎のかたはらには、數本のポプラが日にかがやいてゐた。(11-10)
現在の勝鬨橋
現在の黎明橋
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2016年3月21日 09:00
3月の歌舞伎座、
「五代目中村雀右衛門襲名披露」の
夜の部に行ってきました。
歌舞伎役者さんの襲名披露といえば
「口上」がつきもの。
わくわくしながら待ちます。
舞台の写真は残念ながら、
ブログではお見せできませんが、
京屋の芝雀改め
五代目中村雀右衛門丈を中心に、
山城屋(坂田藤十郎)さん、
松嶋屋(片岡仁左衛門)さん、
高麗屋(松本幸四郎)さんなど、
東西の名だたる役者の方々が揃う
華やかなご披露でした。
夜の部は「口上」をはさんで、
「角力場」「金閣寺」「関三奴」の
豪華な舞台です。
特に歌舞伎の三姫のひとつと言われる
「金閣寺」の雪姫を演じる
雀右衛門丈の美しさには
目を奪われました。
披露興行は3/27(日)が千穐楽。
(古典芸能では「秋」の字に含まれる「火」が火事を連想させることを忌み、「穐」の
字を用います) 目出度い春を呼ぶ歌舞伎公演です。
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2016年3月17日 18:00
三島由紀夫の小説「幸福號出帆」は、昭和30年(1955)6月から11月にかけて読売新聞に連載され、昭和31年(1956)に単行本が刊行された。主人公の兄妹(実際は血がつながっていないことが最後に明かされるのだが)は、月島の古い借家で育ち、妹は銀座のデパートに勤めているという設定であることから、月島、勝鬨橋が作中にしばしば登場する。
作中では、東京湾、隅田川一帯における密輸が描かれるが、当時の日本は完全な保護貿易主義の下にあり、輸入品には高率の関税が課されていたことから、当時の密輸品には時計などの品物が多く、主として船により行われていた。
作品の冒頭部分に次のような記述がある。
>望遠鏡をのぞく。
右方に濱離宮公園のムクムクした苔のやうな緑と、そのかなたの海の沖にならんでゐる船が見える。水平線はぼんやり曇ってゐる。
彼女は角度を左に變へた。
錯雑したビルが、一枚の押絵のやうに見えた。T温泉ビル、そのずっとむかうのT劇場、さらにむかうの築地本願寺の圓屋根の緑いろの側面、それらが、平たい絵を次々と貼り重ねたやうに見える。高くそびえたT温泉の大煙突の稀薄な煙が、かげろふのやうに、遠い港の風景を歪ませてゐる。耳に入るものは、ビルの谷間のあちこちに反響して昇ってくる自動車の警笛だけである。
ふとレンズの焦點は、魚河岸をつなぐ橋に固定して、橋の袂の柳や自轉車のゆきかひを鮮明に見せる。しかし彼女の見たいのはそれではない。ほんの一寸レンズを左に向ける。魚河岸の屋根の外れに、勝鬨橋の對岸の、保税倉庫のつらなりが、やつと見えた。(8-352)
Nデパート屋上とあるが、松屋か三越か松坂屋か不明。 松坂屋は工事中であるので、現在の松屋、三越両百貨店の屋上部からの見晴らしを検証してみた。
松屋の屋上から隅田川方面を見ても、下記のようにほとんど眺望はきかない。かろうじて、聖路加タワーの上部が見えるのみである。
三越12階からは、東劇ビルは見えるが、浜離宮や築地本願寺は見えない。