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小舟町八雲神社

[橘] 2016年3月17日 14:00

「小舟町八雲神社」が日本橋小舟町の何処にあるかご存知の方はいらっしゃいますか?

天王祭というお祭りは小舟町で行われますが、実は神社は神田明神の中にあります。

小舟町(堀留児童公園)には天王祭の時だけ御仮屋が建てられ原則4年に一度盛大に神輿渡御が行われます。
 

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上記の写真は神田明神内にある小舟町八雲神社です。

 

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これは、八雲神社の天水桶です。
奉納者は日本橋魚市場界隈で塩干肴や乾物を扱っていた"遠州屋新兵衛"他10名です。

小舟町八雲神社の当初の宮元は小伝馬町、その後魚問屋仲間が関与し、現在は小舟町の方々によって崇敬されています。

 

小舟町八雲神社は「牛頭天王三社」の三の宮に当たり、一の宮は「江戸神社」、二の宮は

「大伝馬町八雲神社」となっています。

この天王三社が奉っているのは「建速須佐之男命(タケハヤスサノヲノミコト)」-大黒様のお父さんに当たる神様です。

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神田明神にある大黒様の巨大な像です。

 

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一の宮の「江戸神社」です。

 

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二の宮の「大伝馬町八雲神社」です。

その天水桶です。

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天水桶の奉納者は「太物問屋」仲間(日本橋界隈に軒を並べていた,反物等を扱っていた商人)ですが、その前は大伝馬町が宮元であったので、大伝馬町の名前も記されています。

「大伝馬町八雲神社」では、残念ながら現在は祭りは行われていません。
 

今年は「小舟町八雲神社」の神輿渡御が行われる年と言われているので、9月に行われるであろう神輿渡御を取材出来たら、又、ブログでご紹介したいと思っています。

 

 

高級料亭「百川」と落語「百川」

[中央小太郎] 2016年3月15日 16:00

 日本橋室町の福徳神社の近くに、江戸屈指と言われながらも明治初期に姿を消した謎の
料亭「百川(ももかわ)」がありました。

 高級料亭は、江戸文化が成熟するにつれて登場した料理屋形態で、凝った料理、盛り付
け、器等を料理屋が競い合う中で、遊び心も加わりながら粋な江戸料理へと進化したそう
です。高級料亭は多くの文化人のサークルが形成され、江戸文化の発展に大きく貢献した
と言えます。
 江戸時代には今でいう「グルメガイド」のようなものも数多く発行され、「狂歌懐石料
理双六(きょうかかいせきりょうりすごろく)」(双六形式で有名店を紹介するもの)に
は、山谷の八百善、深川の平清(ひらせい)等の名だたる高級料亭と並んで、百川の名前
も見られます。

 百川は1760~70年代(明和~安永の頃)に創業し、文化文政(1804~30)の頃に最盛期
を誇ったようですが、明治の初めに忽然と姿を消しています。資料が少なく、どうした経
緯で店を閉めたのかは解りにくい点が謎めいていて興味をそそります。
浮世絵「百川繁栄の図」に描かれていたり、山東京山の随筆「蜘蛛の糸巻」では、通人が
遊ぶ四大料理茶屋のの一つにも挙げられており、文化人の会合という意味では、松平定信
などそうそうたる顔ぶれが集まり、文化サークルが形成されていったそうです。
 また、幕末にペリーが黒船で来航した際には(1854年の2度目の来航時)、横浜で一行
を持てなしたことでも有名です。この時の料理は最高級の懐石料理で300人前+200人前の
控え分が用意されたそうで、値段は千両とも2千両とも言われています。

 
 もう一つ「百川」と言えば、古典落語の「百川」も外せないと思います。
このブログを書くにあたり、三遊亭圓生の落語を聞きました。百川で奉公することになっ
た百兵衛(ひゃくべえ)さんと客(魚河岸の若い衆)が百川を舞台に「勘違い」を繰り広
げる話で、思わず笑ってしまいます。

 

今回は、百川をキーワードに、日本橋、人形町、堀留町あたりを散策しました。

まず、百川があった場所ですが、日本橋COREDO室町1とYUITOビルの間の道が浮世小路で、
この先に福徳神社がありますが、この界隈にあったようです。

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( ↑ クリックすると大きく表示されます)

 

「浮世小路」ですが、このあたりには、加賀出身で町年寄の喜多村家の屋敷があり、加賀
では「小路」を「しょうじ」と読むことから「うきよしょうじ」と呼ぶそうです。また、
名前の由来は、ここに浮世風呂があり湯女のサービスが良かったとか、浮世ござを売る店
があったことからこう呼ばれたらしいです。

 

福徳神社は、9世紀頃からある非常に古い神社で、源義家、太田道灌等、武将の信仰が厚か
ったとのことです。徳川家康も数度も参詣しています。二代秀忠が参詣の際に鳥居に新芽が
出ていたのを見つけて、「芽吹神社(めぶきじんじゃ)」と命名し、それが別名ともなっ
ています。浮世小路の1本北側に福徳神社参道があり、「新浮世小路」と命名されていま
す。

釘型の西堀留川が福徳神社のすぐそばまで来ており、付近には塩河岸がありました。
川は明治の中頃に釘の部分が埋め立てられ、昭和初期に残りの部分も埋め立てられました。

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また、落語「百川」には、浮世小路の他に芳町(よしちょう)、三光新道(さんこうじん
みち)の地名も出てきますので、それらについても散策してみました。

 

芳町は、今の人形町の一部を昔は芳町と言いました、「芳町花街」と言うように界隈は花
街としても有名です。落語では、百兵衛さんは芳町の千束屋(ちづかや)という桂庵(今
でいう職業紹介所)から百川を紹介された設定です。
芳町花街は東京6花街として現在も続いており、濱田屋という料亭が伝統を守っています。
また、大観音寺横にある「芸者新道」が花街の風情を最も残しているように思います。
※よし梅に代表される料理屋が並んでおり、良い雰囲気を出しています。
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三光新道(さんこうじんみち)は、堀留町2丁目にある30メートル程の小道で、三光稲荷
の参道にもなっています。すぐ近くに梨園染で有名な「戸田屋商店」という老舗がありま
す。店の側面の壁に梨園染のサンプルを確認することができます。

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落語では、百兵衛さんが、ここに住む常磐津の「かめもじ」という人を呼んでくるように
百川の客に頼まれるのですが。。。。という内容で出てきます。

以上

【参考文献等】
・「江戸散歩・東京散歩」(成美堂出版)
・「消えた料亭「百川」を追う」日本経済新聞  2014/7/3
・「落語「百川」の舞台を歩く」(http://ginjo.fc2web.com/001momokawa/momokawa.htm)

 

 

 

初午祭

[サム] 2016年3月14日 16:00

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 旧佃島地区には稲荷社が3個所4社鎮座しています。

一部(上町)には、住吉神社の境内社のひとつで、明治2年、大伝馬町1丁目より遷座したとされる「入船稲荷神社」。

二部(下町)には、佃島を開いた森孫右衛門一族が奉祀した屋敷神が発祥とされる「森稲荷神社」。

三部(東町)には、玉垣の刻銘に元漁師町の残影が色濃く残る「波(浪)除稲荷神社・於(御)咲稲荷神社」。

神社が2つ並んでいるのはユニークです。

通りに面した鳥居の扁額には2つの神社名が書かれ、於咲稲荷大明神の前には一回り小さい鳥居が建てられ、鳥居は入れ子構造。

毎年3月初午の日、もしくはこれに近い日曜日に、初午祭が挙行されます。

今年は3月13日(日)。

佃住吉講の講員が祭典の運営にあたります。

神饌として油揚げの他、イセエビやマダイ等も供えられ、行灯が飾られ、各々の神社名を染め抜いた数多くの奉納旗が並び、祭りムードに包まれます。

当日は、10::00、住吉神社の宮司が各稲荷社を回り、修跋式を執行。

稲荷社前に据えられた太鼓を子供たちが叩く音が町内に響きます。

 

左から、入船稲荷神社、森稲荷神社、波除稲荷神社、於咲稲荷神社 

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また一軒、銭湯が消える

[CAM] 2016年3月13日 09:00

 昨年秋の「中央区まるごとミュージアム」では、「まるごとミュージアムの日は手ぶらで銭湯へ」として、区内11軒の銭湯がリストされています。

 

 このうち、佃・月島地区は3軒。 残り8軒は、銀座湯(銀座1-12-2)、金春湯(銀座8-7-5)、入船湯(入船3-6-14)、湊湯(湊1-6-2)、寿湯(築地6-12-4)、世界湯(日本橋人形町2-17-2)、十思湯(日本橋小伝馬町5-19 十思スクェア別館)、勝どき湯(勝どき3-9-7)です。

 

 しかるに、佃地区にある旭湯(佃2-12-12)に、この29日で廃業するという掲示が出ています。

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 佃地区で残るのは、佃小橋近くの日の出湯(佃1-6-7)だけになりました。

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 日の出湯さんは、階上を賃貸マンションにしているようですね。

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 月島地区には月島温泉(月島3-4-5)があります。もんじゃ通りに面しており、月島観音の上に位置しています。

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 八百屋、魚屋をはじめ、酒屋、電器店等々、個人営業の店が消えていくのは寂しいですが、利用者が減少すれば、ビジネスとしては成り立たないでしょうね。

 

 

 

日本橋の老舗

[皐月の鯉の吹き流し] 2016年3月10日 14:00

ある、パネルディスカッションに参加する機会があり、興味深かかったので
今回はその時の内容を掲載します。

パネリストは 
株式会社にんべん 代表取締役社長  髙津様
西川産業株式会社 代表取締役社長 西川様
株式会社山本海苔店 代表取締役社長 山本様

 

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(株)にんべんさん
創業 1699年 元禄12年

鰹節はご存知の通りカビを使う日本の食品ですが、そもそもその目的が、大阪・江戸で異なるそうです。
大阪 悪性のカビ防止を目的にカビ付けは1回だけ行った --> 荒節
江戸 美味しく、良質化を目的に数回カビを付けた
カビ付けの目的の違いが東西の味の文化に影響した。

鰹の主要産地、土佐、薩摩から鰹節を輸送する際に発生するカビの対処に苦慮していたが
そのうち表面に優良カビを生やすことにより悪性カビを防ぐ方法を考え出したそうです
大阪に集まった鰹節は江戸へ船で輸送したが天候により1ヶ月ほど時間がかかる時がり
水分がまだ多く輸送中カビが発生した。さらに江戸で保管している間にもカビが発生し都度
払い落とし、この繰り返しの中で鰹節が良質になることに江戸問屋が気づいた。

と言うことで、まさしく「毒をもって毒を制す」のたとえどおりです。

荒節 生利節(なまりぶし)さつま節 荒節(あらぶし)などありますが、ウェブサイトをご覧ください。

荒節にカビを付けることにより水分を抜きながら熟成させる工程を繰り返したのを
本節・枯節(かれぶし)・本枯節(ほんかれぶし)というそうです。

本節  3番前後のカビ付けをしたもの
本枯節 4番以上のカビ付けをしたもの
関東では、本節・本枯節を鰹節と称する
(世界的に和食が好まれているというこですが、EUではカビ付け(利用)した食品の輸入は禁止しているが、鰹節は例外でOKになったとか)

一時期消費量は減ったが「フレッシュパック」等の商品開発により現在も食卓に上っている。

 

 

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西川産業(株)さん
寝具は明治以降。現在はスポーツ選手のサポート質の良い睡眠->成績向上
健康促進->医療費の削減をを目指している 
創業 1566年
幾多の経営危機あり 歴史を遡ると 

大阪夏の陣 1615年 田沼意次 経済成長政策 1767-1786   天明の大飢饉 1782-1788
が大きなものだそうです。

元々は蚊帳を商っていたそうですが
この蚊帳を緑に染め、涼しさを感じさせる事を思いきコストはかかっが売れたとのことです。
この近江蚊帳誕生のエピソードは、いくつかの史料に記載され語り継がれているそうです。

 

 

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(株)山本海苔店さん
創業 1849年 嘉永2年
家庭で消費される量は減っている(朝食がご飯からパンへ変わり)が日本全体の消費量では変わっていない。(コンビニおにぎり需要など増え)
山本陽子さん 「専属契約年数世界最長」としてギネス記録に認定されています。
実は、メナード化粧品で長年CMキャラクターを務めた岩下志麻さんがギネス認定されていました。
 山本海苔さんも知っていたそうで、社の歴史を調べたところ、山本陽子さんの契約歴が上回ることが判明。   ギネス申請して認定されたということです。

海苔に関しての商品開発として
同じように見える海苔を8種類に分類
味付け海苔
海外進出・Internet販売
海苔にわさび・梅をはさみスナック
などがあるそうです。

 

 

 

◆ 隅田川 「 芭蕉のカーブ 」

[隅田の花火] 2016年3月 8日 16:00

清洲橋の対岸。江東区側にあった背の高い倉庫が取り壊され、空が広くなりました。

場所によっては青い空をバックに清洲橋を写真に収めることができそう。また何か建つみたいですので、今がチャンスかもしれません。

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早く暖かくならないかなぁ、と思うこの頃。

冬の間は、なかなか足が向きづらかった隅田川テラスも、いよいよ楽しみな季節がやって来ます。

 

清洲橋のやや上流のこの辺り。隅田川テラスを彩る花々は春を待ちきれなかったみたいです。

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隅田川テラスでよく見かける、このような案内板。

ここは、川筋が『カーブ』しています。上流側には「新大橋」、下流側には「清洲橋」があって、それぞれカーブの出入口に架かっています。

s_hanabi32-3.jpgまたカーブの頂点は、江戸時代に隅田川で三番目に架けられた「新大橋」があった所。何度も架け直されたようですが、今から100年ぐらい前までは現橋の二世代前にあたる木造の橋がここに架かっていました。

s_hanabi32-4.jpg(2015中央区まるごとミュージアム・かつての新大橋が架かっていた辺り)

 

カーブの内側は中央区側になりますが、江戸時代の新大橋から下流側にあたる場所には洲ができていて、「中洲」、「みつまた」と呼ばれていました。

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一方、隅田川の対岸は江東区の深川地区。江戸時代に新大橋が初めて架けられた頃、 なんと、あの「松尾芭蕉」が身を寄せていました。

 

明暦の大火があって初めて両国橋が架けられ、庶民文化の花が開き始めた時代・1680年に、芭蕉は小名木川が隅田川に合流するこの辺りに移り住んだといいます。

s_hanabi32-6.jpg(中央区側からみた芭蕉庵史跡展望公園)

 

 

芭蕉がいた「カーブの外側」。

 

今この場所から中央区側を向いて川を眺めて見ると・・・

 

上流側には、オレンジ色の主塔の「新大橋」、さらに遥か向こうには「両国橋」、

s_hanabi32-7.jpg下流側には、青い曲線の「清洲橋」、遥か向こうには「中央大橋」の高い主塔。

s_hanabi32-8.jpgカーブのおかげで見通しがとても良いです。川のずっと先の方まで望めます。

 

 

芭蕉はここで何を眺めていたのか。今よりもずっと遠くの方まで見えていたはず・・・

 

上流にはさくらが咲く上野の山。

みつまたを行き交う白帆の舟々。

下流には海原に浮かぶ佃島や月。

日本橋のはるか向こうの白富士。

 

180度のひとつの視界の中に、カーブが作り出すこのような風景が広がっていたはずです。

 

 

「花の雲鐘は上野か浅草か」

「名月や池をめぐりて夜もすがら」

 

芭蕉がどのような心境でこの場所を選んだのか、については不勉強であまりよく知りませんが、後年にこの辺りから北斎や広重が今の中央区越しに富士山を描いていたりもしますので、風光明媚な場所であったことは何となく想像できます。

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また、芭蕉は新大橋が作られていく様子を見ていました。1694年の完成を芭蕉は非常に喜んだといいます。

「初雪やかけかかりたる橋の上」

「ありがたやいただいて踏む橋の霜」

 

下流には数年後に永代橋も架けられます。深川は発展途上で、これからが楽しみな夢のある場所だったのかもしれません。

 

芭蕉の視線の先にあった対岸の中央区側。

きっと芭蕉が何かを感じることができる特別な風景だったのでしょう。今、この場に立つとそんな時代もあったんだなぁと思ってしまいます。

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(上流を眺める芭蕉像。夕方になると下流の清洲橋方向に自動で向きを変える。)

 

 

 

中央区側のかつて新大橋が架かっていたあたりには今、数年前に整備された「中洲公園」という小さな公園があります。

 

隅田川テラスから少し階段を登ったところにあるのですが、この小高い場所から見る対岸の江東区側は、建物の高さがそれほどありません。

ベンチに座って、広い空とカーブをゆったり進む船を眺めるのは、なかなか気持ちがよいものです。

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江戸時代に広重が、中央区側から見た新大橋を「大はしあたけの夕立」という作品に残しています。今描いたとしたら、スカイツリーが絵の中に入るかもしれませんね。

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桜もあるこの公園。

隅田川テラスの散歩でちょっと一息つきたくなったら、ベンチに座って「芭蕉のカーブ」を眺めてみてください。