清洲橋の対岸。江東区側にあった背の高い倉庫が取り壊され、空が広くなりました。
場所によっては青い空をバックに清洲橋を写真に収めることができそう。また何か建つみたいですので、今がチャンスかもしれません。
早く暖かくならないかなぁ、と思うこの頃。
冬の間は、なかなか足が向きづらかった隅田川テラスも、いよいよ楽しみな季節がやって来ます。
清洲橋のやや上流のこの辺り。隅田川テラスを彩る花々は春を待ちきれなかったみたいです。
隅田川テラスでよく見かける、このような案内板。
ここは、川筋が『カーブ』しています。上流側には「新大橋」、下流側には「清洲橋」があって、それぞれカーブの出入口に架かっています。
またカーブの頂点は、江戸時代に隅田川で三番目に架けられた「新大橋」があった所。何度も架け直されたようですが、今から100年ぐらい前までは現橋の二世代前にあたる木造の橋がここに架かっていました。
(2015中央区まるごとミュージアム・かつての新大橋が架かっていた辺り)
カーブの内側は中央区側になりますが、江戸時代の新大橋から下流側にあたる場所には洲ができていて、「中洲」、「みつまた」と呼ばれていました。
一方、隅田川の対岸は江東区の深川地区。江戸時代に新大橋が初めて架けられた頃、 なんと、あの「松尾芭蕉」が身を寄せていました。
明暦の大火があって初めて両国橋が架けられ、庶民文化の花が開き始めた時代・1680年に、芭蕉は小名木川が隅田川に合流するこの辺りに移り住んだといいます。
(中央区側からみた芭蕉庵史跡展望公園)
芭蕉がいた「カーブの外側」。
今この場所から中央区側を向いて川を眺めて見ると・・・
上流側には、オレンジ色の主塔の「新大橋」、さらに遥か向こうには「両国橋」、
下流側には、青い曲線の「清洲橋」、遥か向こうには「中央大橋」の高い主塔。
カーブのおかげで見通しがとても良いです。川のずっと先の方まで望めます。
芭蕉はここで何を眺めていたのか。今よりもずっと遠くの方まで見えていたはず・・・
上流にはさくらが咲く上野の山。
みつまたを行き交う白帆の舟々。
下流には海原に浮かぶ佃島や月。
日本橋のはるか向こうの白富士。
180度のひとつの視界の中に、カーブが作り出すこのような風景が広がっていたはずです。
「花の雲鐘は上野か浅草か」
「名月や池をめぐりて夜もすがら」
芭蕉がどのような心境でこの場所を選んだのか、については不勉強であまりよく知りませんが、後年にこの辺りから北斎や広重が今の中央区越しに富士山を描いていたりもしますので、風光明媚な場所であったことは何となく想像できます。
また、芭蕉は新大橋が作られていく様子を見ていました。1694年の完成を芭蕉は非常に喜んだといいます。
「初雪やかけかかりたる橋の上」
「ありがたやいただいて踏む橋の霜」
下流には数年後に永代橋も架けられます。深川は発展途上で、これからが楽しみな夢のある場所だったのかもしれません。
芭蕉の視線の先にあった対岸の中央区側。
きっと芭蕉が何かを感じることができる特別な風景だったのでしょう。今、この場に立つとそんな時代もあったんだなぁと思ってしまいます。
(上流を眺める芭蕉像。夕方になると下流の清洲橋方向に自動で向きを変える。)
中央区側のかつて新大橋が架かっていたあたりには今、数年前に整備された「中洲公園」という小さな公園があります。
隅田川テラスから少し階段を登ったところにあるのですが、この小高い場所から見る対岸の江東区側は、建物の高さがそれほどありません。
ベンチに座って、広い空とカーブをゆったり進む船を眺めるのは、なかなか気持ちがよいものです。
江戸時代に広重が、中央区側から見た新大橋を「大はしあたけの夕立」という作品に残しています。今描いたとしたら、スカイツリーが絵の中に入るかもしれませんね。
桜もあるこの公園。
隅田川テラスの散歩でちょっと一息つきたくなったら、ベンチに座って「芭蕉のカーブ」を眺めてみてください。