[柴犬]
2016年10月29日 12:00
毎年恒例のオータムギンザも中盤を迎えました。
銀座一丁目から八丁目まで、名だたる店が参加するビックイベント、オータムギンザ。この名称になったのは2010年ですが、それ以前は「プロムナード銀座」という名で開催されていました。今年も楽しいイベント目白押しですが、皆さんは銀茶会など参加されましたでしょうか? 11/3まで、まだまだお得で素敵な催し物は続きますので、ぜひこれからも奮って遊びに来てください。タイムスケジュールなどはHPから!
そんな中、一部の人たちから毎年熱い支持を受けているイベントがあります。それが
「銀座八丁神社巡り」!!
銀座の中にある、指定された神社を巡り御朱印スタンプを集めます。全て集め終わったら、記念品をいただけます。その記念品とは、こちら
来年の干支の土鈴です!
可愛い!!
朱印帳の中を開くとこんな感じ。
これまたカワイイ。
(画像はどちらも去年のものです)
各神社でいただける記念品も個性ある楽しいもので、思い出になります。何より楽しいのは、神社を探して歩くことです。銀座にある神社ですから、大きくはありません。というか、探さないと見つかりません。中には「まさかこんなところに!?」という神社もあります。世界有数の大都会の中で、長年地域と寄り添い続けてきた歴戦の神社です。どの神社に行っても感動と面白さがあります。そして「八丁神社」ですから、全て巡ると銀座を一周できるようになっています。ゆっくりお散歩しながらですと、二時間くらいでしょうか。歩きやすい道なので、程よいお散歩コースになるかと思います。
11/1〜3まで。ぜひいらしてくださいね。
銀座八丁神社巡り、詳しくはこちらから! http://www.ginza.jp/topics/6288
[O'age]
2016年10月27日 09:00
千葉定吉道場跡
北辰一刀流の開祖・千葉周作の弟の道場の跡。
この説明板(中央区教育委員会)の記述はテキストにはありませんが、第九回・中央区観光検定ではテーマが京橋エリアになっています。鍛冶橋通り南側歩道上(八重洲2-8先)にあります。
また、同じ歩道の近くにある京橋の歴史など、写真や図入りの説明の碑、これも街歩きでは見逃せない対象ではないでしょうか。(教育委員会のものではありませんが)
[CAM]
2016年10月25日 16:00
「江戸っ子」の定義としては山東京伝(1761~1816)によるものが有名であり、『ものしり百科』(平成28年発行79頁)でも引用されている。この『通言総まがき』の原文は以下の通りである(『日本古典文学大系』第59巻「黄表紙洒落本集」岩波書店;昭和33年発行)。
>金の魚虎(しゃちほこ)をにらんで、水道の水を、産湯に浴(あび)て、御膝元に生れ出ては、おがみづきの米を喰(くらっ)て、乳母日傘(おんばひからかさ)にて長(ひととなり)、金銀のささごはじきに、陸奥山(みちのくやま)も卑(ひくき)とし、吉原本田のはけの間(あい)に、安房上総(あはかづさ)も近しとす。 隅水(すみだがは)の鮊(しらうを)も中落(なかおち)を喰ず、本町の角屋敷をなげて大門を打(うつ)は、人の心の花にぞありける。 江戸ッ子の根生骨(こんじやうぼね)、萬事に渡る日本ばしの真中(まんなか)から、ふりさけみれば神風や、伊勢町(いせてう)の新道に、奉公人口入所といふ簡板(かんばん)のすぢむこふ、いつでも黒格子に、らんのはち植(うへ)の出してあるは・・・・
これを最初に読んだときは、「水道の水を、産湯に浴て」という部分に目がとまり、なぜ「水道」が「江戸っ子」の要件となるのか、少し不思議な思いがした。このあたりの事情については、永井荷風が「井戸の水」(明治9年10月)という随筆を書いており、これを読むとその背景をよく理解できる。
>水道は江戸時代には上水と稱へられて、遠く明暦のむかしに開通したことは人の知る所である。上水には玉川の他に神田及び千川の二流があつたことも亦説くに及ばない。子供の時分、音羽や小日向あたりの人家では、江戸時代の神田上水をそのまま使つてゐたやうに覚えてゐる。併し今日とはちがつて、其頃の水道を使用するには、上水の流れてゐる樋のところへ井戸を掘り、竹竿の先につけた釣鐘桶で水を汲んだのである。
江戸のむかし、上水は京橋、両国、神田あたりの繁華な町中を流れてゐたばかりで、辺鄙な山の手では、たとへば四谷また関口あたり、上水の通路になつてゐた処でも、濫にこれを使ふことはできなかつた。それ故おのれは水道の水で産湯をつかつた男だと言へば江戸でも最繁華な下町に生れ、神田明神でなければ山王様の氏子になるわけなので、山の手の者に対して生粋な江戸ツ児の誇りとなした所である。(むかし江戸といへば水道の通じた下町をさして言ったもので、小石川、牛込、また赤坂麻布あたりに住んでゐるものが、下町へ用たしに行く時には江戸へ行ってくると言ったさうである。)(17-32)
これを読むと、明治の初め頃では、「小石川、牛込、また赤坂麻布あたりに住んでゐるものが、下町へ用たしに行く時には江戸へ行ってくると言った」ということも分かる。
[皐月の鯉の吹き流し]
2016年10月21日 16:00
江戸の名物のつづき 「稲荷に犬の糞」
先に「犬の糞」
江戸時代はペットを飼う人が多かったようです。
『熈代勝覧』には犬20匹が描かれているそうです。
(私は数えていません) また、下級武士の日記に
「犬の糞を踏んで不快な思いをした」というのもあったようです。
最後「稲荷」
気が付きませんが、所々に稲荷があります。
波除稲荷 築地魚河岸 海幸橋脇にあります。
歌舞伎稲荷 歌舞伎座正面脇
あづま稲荷 銀座三原小路
朝日稲荷 銀座松屋さんの裏手 NHKブラタモリ「銀座」で紹介されました
宝珠稲荷 歌舞伎座近くにあります。
宝童稲荷 銀座4丁目近くビルの谷間にあります。
豊岩稲荷 銀座7丁目見つけにくい
明星稲荷 日本橋小網町
徳船稲荷 南高橋脇
高尾稲荷 日本橋箱崎町。江戸時代の遊女高尾太夫にゆかりがあるそうです
これにて、江戸の名物おしまい
[達磨]
2016年10月16日 18:00
大川端の俗称からつけられた浜町、新宿線浜町駅下車 A2番出口、「明治座」から清澄通りを歩いて、久松町交差点を人形町方面へ左折すると、日本橋七福神の一つ、寿老神「笠間稲荷神社」。ここから久松警察署先を右折すると"1升餅の張り紙"和菓子「三廼舎」さんです。
季節感を大切との思いで、和菓子作りをするご主人の旬のお奨めは「栗蒸し羊羹」。パンケーキ風な「どらやき」をいただきました。江戸時代は鳶沢氏の古着市として繁栄した、ここ富沢町を後にして、人形町を目指します。
三廼舎
人形町駅A2番出口、人形町通りを堀留交差点に向うと、道路隔てて明治維新の時から現在の人形町で刃物を商う「うぶけや」の看板。その先「三光稲荷神社」のぼりを見て、左折して少し歩くと、堀留児童公園。手前に老舗和菓子「清寿軒」さん。少し先には、ビル谷間に元和3年(1617)創建したと伝えられ、初代・団十郎が日参し名をあげた「出世稲荷神社」があります。
「清寿軒」 文久元年(1864)、日本橋堀江町(現小舟町)で創業。現在の営業は堀留町のビル1階の粋なお店。7代目店主が、140年以上の暖簾を守っています。評判の「どら焼き」は生地の香ばしさ、口当りのいいボリュームある餡で、昔ながらの手技と新しさを感じます。「栗まんじゅう」も上等の味わい。
出世稲荷
小舟町に向います。江戸時代の小舟町は堀留川の間にあって、江戸有数の問屋街と言われ、昭和期には商社、繊維、医薬会社の進出がありました。昭和通り本町2丁目交差点から堀留町交差点に向うこの街の通りには、天正18年(1590)創業、団扇・扇子の「伊場仙」、明治8年(1875)創業「鰻・高島屋」、明治44年東京進出の「長瀬産業」、隣は老舗和菓子「日月堂」さんです。小舟町となり町......堀留町には、恵比寿神の「椙森稲荷」、本町(旧大伝馬町)には、創業から360周年を迎えた「小津和紙」。すぐ近くに商売繁盛の「宝田恵比寿神社」があります。
「日月堂」 明治10年創業。季節の生菓子、紅白まんじょう、正月用鏡餅、のしもち、定番どらやきは、江戸の商業地の真ん中で、地域の人々に愛されてきました。...最近は、TVでも紹介されたコーヒー生大福・黒なまどら・くりきんとんなど、新しい味の菓子も創られています。 なお、べったら市では宝田恵比寿神社門前のとなり露店で、恵比寿講のお供えとして伝わる縁起物「切山椒」と(栗蒸羊羹)が販売されています。 切山椒の由来山椒は昔から種々効能が知られていますが、辛さあるため、新粉の甘い菓子にして子供にも食べやすくしたとの伝えがあります。(日月堂先代女将談)
日月堂
10月19日、20日は、秋の風物詩「日本橋恵比寿講べったら市」です。旧大伝馬町一帯(本町三丁目、大伝馬町、堀留町)で行われます。べったら漬けを売る店を中心に、400~500軒の露店が連なり、夜になると年を追って、縁台や空地などで、宴会の賑わいです。
以上
[サム]
2016年10月13日 18:00
10月1日、銀座2丁目交差点に、新商業施設「Okura House」(新大倉本館)がオープン。
地下1階~3階はカルティエの旗艦店「カルティエ銀座ブティック」が出店、4階には日本料理「銀座吉兆」、12階にはオールデイカジュアルダイニング「bills」、5~7階にはビューティサロンをはじめとした診療所・美容外科等が入居し、8~11階はオフィスゾーン。
併せて「アーク灯記念灯」が再建され、9月26日から再び点灯されています。
ここは、明治15(1882)年、日本で初めての電気街灯であるアーク灯が、東京電燈会社の発起人のひとりであった大倉喜八郎により、米製の発電機を用い、デモンストレーション用に公開点灯されたと云われる場所。
昭和31(1956)年、「日本最初の電気街灯の地」の記念灯として、関係者の手により、「アーク灯」が復刻され、往時の様子を描いた錦絵「東京銀座通電氣燈建設之圖」を鋳込んだブロンズプレート「電気灯柱記念碑」が側壁に取り付けられました。
2,000燭光と云われるアーク灯の光は、ガス灯や石油ランプに比べると遙かに明るく、「一に天道さま、二にお月さま、三に銀座のアーク灯」と譬えられ、連夜、大勢の見物客が詰めかけたと伝えられています。
昭和47(1972)年に2代目、昭和61(1986)年に3代目と建替えられ、東日本大震災後の平成24(2012)年に一旦撤去されましたが、今回4年ぶりに4代目として復活。
4代目のモニュメントは、設置当時と同じデザイン。高さ約12mで、従前水銀灯だったものをLEDに、ガラス製だった火屋(ほや)は樹脂製に変更と聞きます。