[あすなろ]
2018年9月11日 12:00
9月9日、菊の節句との異名もある重陽には、
菊被綿という風習が伝えられています。
菊被綿は、重陽の前夜に菊の花を真綿で覆い、
重陽の日の朝に菊の香りと夜露が染み込んだ真綿で
身体や顔をなでると、若さを保つことができるとされ、
不老長寿を願って行われました。
また、古代中国の故事で、重陽の日に呉茱萸の実を
入れた赤い袋を身に着けて山に登り、菊酒を飲むと
災いから逃れられるといわれました。
福徳神社では、呉茱萸の実を収めた茱萸嚢(しゅゆのう)
を特別な御守りとして数量限定で授与されます。
伝統を感じ愉しむ、大切にしたい行事ですね。
◆福徳神社
東京都中央区日本橋室町2-4-14
[銀造]
2018年9月11日 09:00
新橋演舞場は、東京新橋組合に加盟する芸妓さんの技量向上のための稽古場、そして踊りと唄を披露する場として建設されました。踊りと唄を披露する催しとしては、毎年5月中旬に「東をどり」が開催されています。
新橋演舞場正面玄関の右側には、ご案内の札と共に、
演舞場稲荷大明神が祀られています。
歴史と共に、美しい伝統を広く皆様に、後世に伝えて頂きたいと思います。
以前、2011年1月27日の特派員ブログで、「沢田正二郎歌碑」、「曾我廼家五郎歌碑」について取り上げましたが、その時には、演舞場稲荷大明神の写真は掲載しなかったと思いますので、改めてご案内します。 その日のブログ記事は、次の通りです。
/archive/2011/01/post-619.html
[あすなろ]
2018年9月 6日 09:00
夏から秋へと少しずつ移り変わってきましたね。
銀座のビル屋上に本殿がある「朝日稲荷神社」です。
商いの神として商売繁盛や、縁結び、家内円満にも
ご利益があるとされています。
頭上をおおう空が開放的で心地良いです。
肌を撫でる風は涼しく、
秋晴れともなれば、もっと爽やかでしょう。
建物の8階までエレベーターで上り、そこから外階段で
屋上に上がれます。静寂な空間で、
人とは少し違う銀座観光を体験してみませんか。
いつでも、熱中症対策は忘れずに!
◆朝日稲荷神社
東京都中央区銀座3-8-12 大広朝日ビル
銀座八丁神社めぐりの一社です。
[yaz]
2018年9月 5日 12:00
江戸時代、日本橋には本小田原町という場所がありました。現在の室町三丁目付近です。なぜ江戸に小田原という名前がついた町が作られたのでしょうか?築地には今も「築地警察署小田原町交番」という地名が残っています。「小田原町がないのになぜあるの?」という疑問を持ち調べてみたところ、伊豆の石切り場にたどり着きました。2回のシリーズものとして書きます。
9月号 江戸日本橋の「小田原」って?
10月号 石垣の"石"を供給した「伊東市宇佐美のナコウ山に登る」
日本橋北詰の「小田原町」は、町の名は小田原の石工善左衛門が当地を石揚場(舟で運んだ石材を荷揚げする所)として拝領したことが起源だという説がありますが、傍に堀はありますが大きな石を荷揚げする程のスペースがあったとは思えません。恐らく実際に石を荷揚げしたのは、「鎌倉河岸」か楓川の舟入運河ではないかと予想されます。外堀と今は高速道路となっている「楓川」の間の堀であった「紅葉川」は開掘後、数十年後には使用目的を果たし埋められてしまいました。
「小田原町」には魚市場(日本橋魚河岸)が開かれ、石工達は築地に移転して「南小田原町」と称したのではないでしょうか?確かに築地は日本橋の南に位置しています。その結果、日本橋北詰の「小田原町」は「本小田原町」と改称しました。
江戸城の石垣には諸大名の家紋に相当する刻印が打たれていますが、石はどこで採掘され刻印はどこで打たれたのでしょうか?
慶長8年(1603年)徳川家康は江戸に幕府を開き、「江戸城」の大規模な改築工事を行います。この工事は、諸国の大名に命じ、慶長9年(1604年)から寛永13年(1636年)ごろまで、家康・秀忠・家光の三代、約30年にわたって続けられました。この時、石垣に使う石が伊豆半島から切り出されました。真鶴・根府川付近からは安山岩系の石を採掘しました。風化しにくく耐火性に優れています。熱海から伊豆稲取に続く伊豆半島の山からは、凝灰岩系の石を採掘しました。凝灰岩系の石は耐火性が優れているだけでなく、加工しやすく運びやすいという利点がありました。
石垣を切り出した跡を「江戸城石丁場遺跡」と呼び、小田原市・熱海市・伊東市の石丁場(いしちょうば)は「国指定史跡」として認められています。遺跡は森の中に隠れています。中央区の小学生数十人を毎年受け入れている中央区立宇佐美学園の山奥に「宇佐美江戸城石丁場遺跡」があります。この遺跡には石垣に使うために加工した「江戸城築城石」が無数残っています。大名の家紋などの「刻印」が刻まれ、江戸に向けて運び出すばかりになったものも数多くあります。山で切り出され加工された築城石は、「修羅」(下の写真)と呼ばれるそりなどに乗せられ、大勢の手で曳かれて海岸まで運ばれます。海岸から「石船」に乗せられ、相模湾を通り江戸まで運ばれますが、多い時には江戸と伊豆の間を月に3,000艘の石船が行き来したそうです。
九州の大名細川忠興公の石丁場遺跡が宇佐美のナコウ山にあります。ナコウ山の命名の由来は、石切り場の環境が非常に悪く石工が「泣く」ことからと言われています。私が踏破した(軟弱な私は踏破ではなく、伊東市観光協会のガイドさんに引っ張って貰って下山しました。最後には両股痙攣です。)山中で撮影した写真を次回お見せしますが、コンビニやの繁華街など考えられない環境ですから、「泣く」=ナコウというのは、体験した私は想像できます。海岸まで運ばれてきた築城石の一部は何らかの理由で石船に積むことが出来ず江戸まで運ばれないものもありました。宇佐美の海岸全体には、「矢穴石」(やあないし)や「刻印」のある多くの石が水につかっていたり砂に埋もれています。
石材の価格は「当代記」(寛永年間(1624年~44年))によると、「百人持ちの石は銀20枚」相当ということですから、初期慶長銀(161g)をほぼ金1両と仮定すると、石1個で200万円弱ということになります。大名にとっては相当の負担だったのですね。
石切り石を運ぶのは容易なことではありません。
次に示す写真のような山道を下ろしてきたのです。350m程度の山でも"石が転がり木片が転がった「道なき道」"を行くことは難儀でした。期待してください。
10月中旬以降に「江戸城石垣石丁場跡(伊東市宇佐美)」に再度挑戦の企画中です。