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中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

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日本橋三越 Make it happy 2017 Christmas

[銀造] 2017年12月10日 12:00

 日本橋三越新館の前で、若いお母さんが、ベビーカーの中の可愛い女の子とクリスマスツリーの写真を撮影しています。 もう一方では、外国からのお客様が椅子に座った奥様を撮影していらっしゃいます。 とても、心温まる風景です。

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 今年の日本橋三越のクリスマスの標語は、" Make it happy " です。

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 店内も明るく、いつもに増して、とても温かく感じられます。

よく言われることですが、

"ここにしか無い物。日本橋三越にしかない物を求めて買い物に行くのよ" と。 

 妻と孫を連れて再訪したいと思います。

 

 

SNS映えのカフェラテ「ロアコーヒーハウス」

[みど] 2017年12月10日 09:00

八丁堀駅から徒歩3分のコーヒー専門店「ロアコーヒーハウス」。 2016年1月にオープンし、"豆にこだわったおいしいコーヒー"を コンセプトにしているとのことです。お店の外観は海外のカフェ を思わせるおしゃれな建物です。 店内はやや狭いのですが、センスは良く、リラックスできる空間 だと思います。カウンター4席にハイスツール2席、テーブルが1つ あり、テイクアウトを待つ人のためにソファが2つ置いています。

 

ドリップコーヒーは1杯280円とリーズナブルで、さらに2杯目から は半額の190円という有り難い価格設定です。 コーヒー専門店ですが、紅茶・ラテ・ホットチョコレート・自家製 レモネードなどドリンクも充実しています。

 

さて、ここまでは普通のカフェですが、このお店の特徴はSNS映え するラテアートのカフェラテを提供していることです。抹茶ラテも レインボーに変身したりと、飲むのがもったいないと誰もが思うはずです。 カフェラテは380円とこれまたリーゾナブル。 はちみつラテ、塩キャラメルラテといったメニューも揃えています。

 

もうひとつのウリは、注文ごとに作るパニーニです。スモークチキン とツナ、ピクルス、チーズが絶妙に絡み合っています。紙で包まれて いるので、手が汚れないし、半分にカットされているので食べやすいです。 パンの表面はサクサクしていて、中は柔らかなチーズで美味しく頂きました。 値段は690円。 近くに寄った際にぜひ、立ち寄って頂きたいコーヒーショップです。

 

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 ロアー コーヒーハウス&ロースタリー

 http://roar-coffee.com/

 中央区八丁堀2-19-11 1F

 TEL 03-5543-6051

 営業時間/8:00 ~ 20:30   定休日/土・日・祝日

 

 

 

 

福徳稲荷神社 宝くじ当選祈願 神楽鈴

[銀造] 2017年12月 9日 09:00

 境内で入手できる御由緒によれば、

「当神社が創祀された時は明らかではないが、当社に伝わる略記によると、清和天皇の御代の貞観年間(西暦859~876)には、既に鎮座していたようである。」とのことです。「福徳稲荷神社」は、武蔵野の村落である福徳村の稲荷神社として祀られ、その地名を取って社号とした。

 ーーー中略ーーー 江戸時代以前には、太田道灌公を合祀し、その兜・矢などが奉納されたと伝わっている。 

徳川家康公は、江戸に入府した天正18年(西暦1590)8月に初めて当社に参詣し、その後も数度に渡って参詣している。

更に、二代将軍秀忠公は、傾聴19年(西暦1614)正月8日に参詣した折、「福徳とはまことに愛でたい神号である」と称賛。 この時、当社の古例である椚(クヌギ)の皮つき鳥居に春の若芽の萌え出たのをご覧になり、神社の別名を『芽吹(めぶき)神社』と名付けられた。・・・等が書かれています。 ここからが  福徳の森一周年記念の記事の時に書き残したのが、『富籤(宝くじ)祈願』に関するお話です

 神殿の手前右にご案内があります。

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 そして、備えられた鈴の説明には、「『富籤宝くじ)祈願』 福徳神社は江戸時代富籤の発行を許された数少ない社寺の一社です。日本銀行の貨幣博物館に当時の富くじが現存しています。 福徳神社の御利益を頂き宝くじの当選を祈願し福徳を(幸福と利益)賜りましょう。三宝の上に宝くじを載せ、神楽鈴で祓いを行い、当選を祈念いたしましょう。」とあります。

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私は買ったばかりの宝くじの当選祈願を致しました。なんと、女性グループが後ろに並んでいました。 お待たせして、ごめんなさい。

富籤守も入手しておけば、当選の確率は高くなるかも知れませんね。Maybe です。。

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都内、中央区の他にも宝くじの当選祈願をするところはありますが、こちらでも、当選祈願をしてみましょう。 験を担ぐ方には、海運橋を通ってくれば、開運で良いかもしれませんね。(購入して、当選祈願の前か後か?悩みますね) Good Luck ポルトガル語でも、Boa sorte!

 

 

千代田神社 小伝馬町の鎮守様

[銀造] 2017年12月 8日 12:00

 東京メトロ小伝馬町駅から直ぐ近くに千代田神社があるのは、全然知りませんでした。

「日本橋北 内神田 両国濱町 明細絵図」を入手して、小伝馬町から江戸通り、郡代屋敷跡への道筋を見ていると、「千代田イナリ」の字が見えました。「中央区 観光ガイドマップ」を片手に歩いてみました。 千代田とあるのだから、千代田区の神社かと思っていましたが、東京メトロ小伝馬町の駅から江戸通りを歩いて3分、住所は日本橋小伝馬町9-1。小伝馬町郵便局の近くです。

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 記されたご由緒を読んでみますと、次の通りです。

千代田神社は 長禄年間神靈に依り 太田持資道灌が御靈を千代田の御城に祭り鎭守とす   

德川綱吉の時 太田の旧臣長野亦四郎氏詞を奉じて小傳馬町に遷座す

是後奉仕せる社人窮困して他に社地を讓る 時に屢々異變あり  

神慮なりと畏れ 天明年間旧地に建立し現在に至る 

大正十二年九月震災にて燒失す 昭和二年區劃整理に依り 當所に替地を得て安鎭す然るに

昭和二十年二月戦禍にて再度燒失す 漸次再建せしも 今度諸人の力を致し浄財を受け 更に新殿を造立せり

茲に沿革を記す

 昭和三十三年十一月吉日

 小傳馬町 二丁目町会

まだまだ奥が深い日本橋です。楽しい探検はまだまだ続きます。

 

 

木下杢太郎と八重洲橋

[yaz] 2017年12月 3日 09:00

 先日静岡県伊東市に用事があり一泊したので、翌日伊東駅から徒歩5分程度の距離にある木下杢太郎館を何らの知識もなしに訪問した。入館してみて中央区とのかかわりが非常に強いことに吃驚したので報告させて頂きます。

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〔記念館所在地〕414-0002 伊東市湯川二丁目11番5号

私が訪問した日がたまたま入館無料だったようです。

 

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太田家の家計図です
 

 

<理由>

* 杢太郎自身は菊池寛などと共に作ったパンの会のメンバーとして中央区日本橋小網町にあった「メゾン鴻ノ巣」(日本最初のカフェーと言われる説あり)及びその後開かれた「カエー プランタン」などの銀座のカフェーを足しげく訪れていた。

* 医者・文士であるにも拘わらず東京駅前に明治時代に架かっていた八重洲橋を設計した。その上、4歳年上の兄「太田圓三」は関東大震災後に帝都復興院土木局長に就任し、後藤新平の下で

* 昭和通り・靖国通り等の復興道路の建設計画を立案

* 永代橋・清洲橋などの橋梁の架橋計画・施工を担当

など近代都市・東京をデザインし、その基礎を築いた。

 

兄弟はこのように中央区と強い縁を持つことを知ったので、これから3ケ月に亘って背景を調査しブログとして連載する予定です。

1回目(12月): 木下杢太郎と八重洲橋

2回目(1月):  太田圓三の生涯

3回目(2月):  木下杢太郎とカフェー

 

中央区とは直接の関わりはありませんが、三女「たけ」と樋口一葉が一緒に移った写真が記念館に飾られているので紹介します。一葉の髪をさげた珍しい姿です。太田たけが大柄なのか、樋口一葉が非常に小柄ですね。

太田たけ&樋口一葉.jpg

 

1) (第一回)木下杢太郎と八重洲橋

1)-1 木下杢太郎のプロフィール

1885年(明治18年)静岡県賀茂郡(現在の伊東市湯川)に、右上の写真のように父・惣五郎、母・いとの末子として生まれた。父は米惣という雑貨問屋を営んでいた。兄は太田圓三、甥には動物学者の太田嘉四夫(北海道大学教授)がいます。家業は「米惣」という雑貨問屋であった。

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当時の米惣の「暖簾」です

 

1906年(明治39年)、東京帝国大学医科大学へ進むと翌年(1907年)には与謝野鉄幹の新詩社の機関誌「明星」の同人となりました。これから中央区との強いかかわりが始まるのですが、1908年(明治41年)には北原白秋・吉井勇らと『パンの会』を立ち上げます。定期的に集まる場所を探していた当会にとって、メゾン鴻ノ巣の開店はグッドタイミングでした。「メゾン鴻ノ巣」があった日本橋小網町の日本橋川にパリのセーヌ川の雰囲気を見出したからです。3年半に亘って、頻繁にこの集いは開催され、鉄幹、永井荷風、小山内薫、高村幸太郎、武者小路実篤、谷崎潤一郎、岡本一平らも顔を出しました。

 

杢太郎は、1911年(明治44年)東京帝国大学医科大学を卒業し、森鴎外の勧めで皮膚科の土肥慶蔵教授の下でライ病の研究を志しました。留学の後、1937年(昭和12年)、東京帝国大学医学部教授となりました。皮膚科・伝染病の研究を継続しライ病の世界的な権威と言われるようになりました。

木下杢太郎_写真.jpg 木下杢太郎_植物画.jpg

また、絵画にも目覚め872枚の植物写生画も残しています。その一部は木下杢太郎記念館に展示されています。

1945年(昭和20年)胃幽門の癌のため亡くなりました。

 

1)-2 八重洲橋

「八重洲橋」は明治初頭から戦後までの約60年間に、以下のように架橋・撤去を繰り返した珍しい橋です。

① 明治17年(1884)に呉服橋と鍛冶橋の間に架橋

② 大正3年(1914)に東京駅の開業で撤去。

③ 大正14年に東京駅入口として再び架橋。

④ 昭和22年の外濠川埋め立てで再び撤去。

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写真上部は丸の内側から見た東京駅と「八重洲地域」です。右には八重洲橋が外堀に架かっていますし、左端には呉服橋、丸の内側には関東大震災で被災する以前の堂々とした東京駅が存在しています。

 

明治中期の以下の地図には八重洲橋が架かっていますし、現丸の内にも「八重洲」・「永楽」という旧町名が見られます。

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八重洲橋全景

 

野田宇太郎著『改稿東京文学散』の「丸の内」の章では、外濠川の埋め立て、詩人・木下杢太郎設計の「八重洲橋」が壊される愚策を涙ながらに記していました。

 

「ステーション・ホテルが東京の代表的ホテルとして出現して間もなく大正七年八月のこと、詩人木下杢太郎がその七十一号室に泊まった」と書き出す。満州赴任で遅れていた処女詩集『食後の唄』の序文を書くためだったが、彼は序文にこの二年間の東京の様変わりに抑えきれぬ腹立たしさを記せずにはいられなかったと記す。そして・・・

 悲しき運命をたどった八重洲橋

八重洲橋が木下杢太郎により設計されたことを知る人が少ないのは非常に残念です。木下杢太郎が「八重洲橋」を設計できたのは、永代橋を設計した建築家 兄「太田圓三」の存在が大きかったと思います。

 

 

 

鞍掛橋の紹介 小伝馬町にあります

[銀造] 2017年12月 2日 18:00

 街歩きをしていて、夏の暑い時に「竹森神社」からの帰途、

そして最近は、すき焼きで有名な小伝馬町の「伊勢重」さんの近くを通った時、

「鞍掛橋」という信号のある交差点に出ました。 きっと、馬がいて、そこに鞍を掛けたら、元気になったとか、風雨が治まったとかの言い伝えがある所だろうと思っていましたが、違いました

 親切な人がいて、その交差点近くの植栽の中に説明を置いていて下さいました。

それによると、鞍掛橋の名前の由来は、

「『江戸のはじめ伝馬町は、伝馬駅逓を司るところとして俗に大伝馬町は荷物の駅、小伝馬町は人間の駅として有無相通して両町は伝統と繁栄をきづいてきました。鞍掛橋を境に、馬喰町へ通ずるかなめでした。 この橋は伝馬の馬と博労の鞍ということが多いところであったため、この名前がつけられたと考えられます。

つまり伝馬駅逓や交通の要衝であったところです。付近に旅籠が多かったのもこうした関係です。文:日本橋二之部町会史より』原文のまま。」

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 また一つ、街歩きの楽しみが増えました。 有難うございました。