[TAKK...]
2012年7月31日 08:30
7月28日(土)、隅田川花火大会が開催されました。
今年も、家の近くで花火が見える場所に行ってみました。
それは、中央大橋の上なのです。
去年より若干人が多い気がしますね。
スカイツリーとの組み合わせも、一応楽しめます(花火が小さい......)。
会場からの距離が遠いため、花火が少し小さく、位置関係から第一会場で打ち上げられているものしか見えないようですが、スカイツリーや永代橋との組み合わせが楽しめますし、何より手軽にお祭り気分を満喫することができました。
隅田川花火大会は、享保18年(1733年)に悪病退散と死者の慰霊を祈願する水神祭で花火が打ち上げられたのが始まりといわれています。この時の花火師は、日本橋横山町の鍵屋六代目弥兵衛。
永代橋の初代は元禄11年(1698年)架橋ですので、架橋位置や姿は違えど、当時すでにあったことになります。
そう思うと感慨深いものがありますね。
[kimitaku]
2012年7月29日 08:30
海上保安庁 警視庁 東京税関の
テロ対策訓練が18日、
中央区晴海で行われました。
不審船を追いかける、海上保安庁の特殊潜航艇。 不審船からのロケット弾、拳銃がさく裂。
実戦さながらの迫力ある、訓練です。
晴海ターミナルからは、
「これは訓練です。心配しないでください」の、アナウンスが、
コンクリートに響き渡ります。
不審船には、どくろマーク、
水しぶきを上げ続け、
最速のスピードでの、大取物、
円を描き、逃げる
不審船、追いこみ捕まえる潜航艇。
東京税関 警視庁の船も参加しての、
大追跡作戦 大訓練でした。
ロケット弾 拳銃の音はすさまじく、
月島第一小学校までも届きました。
[下町トム]
2012年7月23日 08:30
〔月島〕というのは、もちろん地名であり、地下鉄の駅名であります。現在の住所としての〔月島〕は、〔初見橋〕から〔月島橋〕までの間の区域に1~4丁目までの区割りで存在します。
序章でも少し触れましたが、そもそもの〔月島〕はもっと広い地域を指しました。1883(明治16)年に計画が策定されて東京湾の埋め立てが始まったときに、その記念すべき最初の土地が〔月島第一号埋立地〕と名づけられたのです。その後、埋め立て計画は進行し、〔月島2号地〕(現在の〝勝どき1~4丁目〟)、〔新佃島〕(現在の〝佃〟の一部)、〔月島3号地〕(現在の勝どき5~6丁目)、〔月島4号地〕(現在の〝晴海〟)、さらに〔月島漁業基地〕(現在の〝豊海町〟)と広がっていきました。(掲出の地図は1958(昭和33)年当時のもの)
つまり、〝佃〟を別にしたら、この一帯は全て〝月島〟だったわけです。したがって、これらの地域を区別するためには〝号数〟で呼ぶしかなかったわけで、〔2号地〕とか〔4号地〕とか呼び習わしたそうです。今でも土地の古い人は、〔2号地〕〔4号地〕と言ったりします。(〝4号地〟は1937(昭和12)年に〝晴海町〟と命名されました)
その後、1965(昭和40)年に住居表示が一新され、現在の地名になりました。〔月島〕の地名の範囲はやや狭まったわけです。
このときに、〔月島1~4丁目〕に整理されたのですが、それ以前は、〔月島通り〕とか〔西仲通り〕とかいう地名があり、大きな道路の両側が同じ町内という区割りになっていました。
かつては多くの下町では通りの両側を一つの〝町〟とする区割りが一般的でした。江戸時代の長屋に見られるように、路地を挟んで〝向こう三軒両隣〟という考えが普通だったんですね。実際の生活感覚に合っていたのだと思います。
新しい住居表示は欧米の〝ブロック〟という考え方に準拠して町を区割りしました。そのために、道路の向かい同士が〝他所の町内〟となり、背中合わせの家屋が〝同じ町内〟となったのです。郵便などの利便性を重視したといいますが、今となってはこれでよかったのかと思うところはありますが・・・。
ただ、今でも月島の町内会は古い付き合いを大切にし、昔の区割りに近い形で町を区分けし、〔月島○の部〕(○は漢数字)という名称でコミュニティーを形成しています。
〔月島〕がかつて広かった名残りが公共施設の名称に見られます。〔月島警察署〕は〔勝どき6丁目〕にありますし、〔月島運動場〕は〔晴海〕にあります。〔月島第二小学校〕の所在地は〔勝どき〕、〔月島第三小学校〕は〔晴海〕なんですね。さらに民間施設でも、序章で採りあげた写真にも写っている〔三菱東京UFJ銀行月島支店〕(元・三和銀行)は堂々と勝どき駅前に建っています。
このように歴史をはぐくんできた〔月島〕の土地は今大きく変わりつつあります。古い家屋がどんどん消え、マンションが林立するようになってきました。それでも面々と残るこの町の風情を大切にしたいと思います。
引き続き、〔月島〕の魅力をお伝えしていきますので、よろしくお願いします。
続きを読む: 月島七不思議~第2話「月島の生い立ち」
[ukiuki]
2012年7月19日 13:30
今年も7月の月島のお楽しみ、
草市が、14と15の両日行われました。
通称もんじゃストリートの西仲商店街は、
今日ばかりはもんじゃではなく露店が主役。
私は、地元のパンとケーキのお店出店の
『丸ごとりんご』タルトを買いました。
定番のかき氷も、青りんごとマンゴーのミックスなんてこともオッケー。売上げは全て東日本大震災の義援金に寄付するそうです。
酒屋さんの前では、お酒や紅茶、みりんなどが貰える輪投げ大会が。外国人の方がビール三本を見事ゲット!やんやの喝采を浴びていました。
この草市、明るい時間帯には、地元の小学生が嬉しそうに連れ立って歩いているのを見かけました。
賑わいがありながらも、親御さん達が送り出せるそんなアットホームな雰囲気と、ふらっと立ち寄れる気軽さを感じた催しでした。
[サム]
2012年7月18日 08:30
毎年7月13日から15日の3日間、佃1丁目の「渡場通り」の広場中央に組まれた櫓の周りで行われる佃島の盆踊り。
謂れについては諸説あるらしいが、江戸期浜町にあった本願寺別院が明暦の大火後築地に再建されるに当たり、門徒であった佃島の住民一統が埋立工事に貢献。その完成の年の盂蘭盆会で、祖先の霊を祀る行事として始めたと云うのが有力とされる。
古くは日本橋や京橋一帯を踊り廻り、志を受けそれを築地本願寺に奉納してきたが、市中廻りを禁じられて以降は佃島の中だけで行うようになり、それが今日まで伝承されてきたと云う。
戦後東京都郷土芸能のひとつに数えられてきたが、昭和51年東京都の無形民俗文化財に指定された。
音頭取りのゆっくりとした節廻しの歌と単調なリズムの櫓太鼓に合わせ、踊り手が櫓の周りをゆったりと静かに踊り歩く。哀調を帯びた素朴な風情を今に伝える。
前半は子供たちの部。後半は大人たちが踊りの中心。
最終日には往年ほどには数が多くはないものの、仮装して踊る姿が見られる。
[下町トム]
2012年7月11日 10:00
月島の魅力を再発見すべく、シリーズでお伝えします。
第1回は〔西仲通り〕です。名前は月島の西側中央を貫く通りであることを現しています。当然ながら〔東仲通り〕もあります。月島のメインロードである〔清澄通り〕をはさんで、東と西にきれいに区分けされているのが月島の特徴です。120年前にこの地区が造成されたときに、新しい近未来の都市計画のさきがけとして区割りされたとのことです。
〔西仲通り〕は今では〝もんじゃ焼店〟が立ち並ぶ賑やかな名物通りですが、もともとは普通の商店街でした。戦後、いち早く地元の商店が結束して商店街を形成し、地域の生活を潤すエリアとして親しまれてきました。
今では〔地域安全センター〕となっていますが、平成19年まで現役交番だった建物はこの通りのシンボルマークのようになり地元の人たちに愛されています。
〔西仲通り〕はアーケードやブロックを数字で表示した暖簾などが掲げられ、オシャレなテーマストリートになりました。しかし商店の屋根のほうを見上げると、かつての屋号や商売の図柄が刻まれた様子があちこちに伺えます。ぼくが始めて住み始めた20数年前は、まだ〝もんじゃ焼き専門店〟も数えるほどしかなく、この通りも様々な店が軒を連ねていたものです。その当時の姿が屋根の上に残っているんですね。味噌屋さん、おもちゃ屋さん、洋食屋さん・・・当時の姿が偲ばれます。
この通りの名物と言えば、毎年7月中旬に催される〝草市〟です。そもそもは、この時季に、お盆の道具(麻幹、筵、溝はぎ、など)を売る店が屋台を並べたのが始まりとか・・・。(写真は4年前のもの)
その後、縁日のように多くの露店が並ぶようになりました。地元の古老に聞くと、かつては〔西仲通り〕ではなく、それに直行する路に露店がひしめいていたものだということです。
今では商店街や町会の皆さんが中心となってコミュニティー主導の〝手づくりの縁日〟という感じで行われています。子どもたちにとっては、夏休み前の楽しみの一つです。今年は7月14日(土)、15日(日)の2日間に行われます。是非お立ち寄り下さい。
このような下町情緒豊かな味わいを残す月島の町をさらにいろいろご紹介したいと思います。引き続きよろしくお願いします。
続きを読む: 月島七不思議~第1話「西仲通りと草市」