[皐月の鯉の吹き流し]
2018年6月28日 18:00
勝鬨橋と佃大橋との間に「月島の渡し跡」の碑があります。この碑は、隅田川テラスを少し離れた堤防の内側 「わたし児童公園」にあるので少々分かりにくいかと思います。昭和15年に勝鬨橋が架橋され渡船の利用者が 減少したため月島の渡しが廃止されたことは、確か今年の観光検定試験に出題されたと思います。
この月島の渡しは月島と南飯田町(現築地7丁目)との間当初手漕ぎで私設渡船であったとのことですが、 この南飯田町ゆかりの物があったと思うので見つかりましたらこのブログに掲載します。
このあたりは佃大橋とその先の中央大橋のワイヤーケーブルと東京スカイツリーが重なって見えます。
佃大橋は昭和39年東京オリンピック時に架橋されました。それ以前は「佃の渡し」があり最後運航に乗船した記憶があります。
<<< 手前は佃側 このあたりに「佃の渡し」がありました >>>>
<<<< スッキリした橋の下 >>>>>
<<<<< 耐震工事は再度行われ現在は完了しています >>>>>>
橋の下を見るとここも耐震補強が施されています。
佃大橋はスピード違反の取り締まりを行っていることがあるので車で渡るときは注意してください。
前回掲載した月島川水門工事は6月末の時点でまだ終わっていません。歩行者用橋梁の工事案内はなく通行止になっています。これが出来るととても快適なので楽しみにしていたのですが、工事の進捗はどうなったのでしょうか??
次回は中央大橋です。
[kimitaku]
2018年6月28日 09:00
アーバンゲートブリッジから晴海高層マンション群のはるか向こうに
晴海大橋 レインボーブリッジが重なって見えます。
歩くうちにこれらの橋や高層ビル群が見え隠れしたり。
楽しみながら歩けます。聖路加国際病院 佃の高層マンション
:::春海運河の水面が足元まで迫ってくる感じで
心も安らぎます。;:::
最後は 晴海大橋(結構な上り坂です)を渡り勝どき駅へまっすぐです。
お気をつけて。
所要時間 ゆっくり歩いて1時間20分 ウオーキングでは50分
[佃のうさこ]
2018年6月27日 09:00
石川島公園の隅田川テラスで野鳥の定点観察をしている佃のうさこです。今年もカルガモの親子が3組やって来ました!今回、写真でのご紹介は、そのうち2組です。
まずは、6月10日の雨の日、隅田川テラスの葦の草むらで、メス親に連れられた雛4羽を発見。そぼ降る雨で、テラスに人の影はありません。ちなみに、鳥は両親で雛を育てるものも多いのに、カルガモはメスだけです。メス親に見守られて柱についた藻を食べているようで、生後2,3日といったところ。
隅田川には頻繁に船が通るので、池や川で育つ雛よりも、波に揉まれて羽の浮力を失ってしまう危険性が高いのですが、上手く寄せる波にも乗っていました。安心ですねー。
カメラを持っていても、じっとしているうさこは、岩に思えたのでしょう、近くにやって来ました。
愛らしい姿をこんなに間近で見れるのは、隅田川テラスならでは。川との接点を非常に近くに配置してあるテラスの魅力です。
もう1組は、6月14日の朝。ランナーの方々も足を止め、携帯電話のカメラで撮影されていました。だって、こんな大家族!しかも、雛と言えるか?の大きさですから。
雛は9羽です。手前のやや大きいのが親です。雛と言っても、この大きさですから生後2,3週間でしょうか?ここまで9羽一緒に育ったというのは、カラスに狙われる頻度が高いことを考えると、大変優秀なメス親・お母さんです。
親は、後ろの羽が一部青色なのが見えます。これがカルガモの特徴で翼鏡・ヨクキョウと言います。雛には、ありませんから全体にこげ茶色です。そんな観察をのんびりしていたうさこですが、突然、本当に突然、親が飛び立って行ってしまいました。雛を残してなんて、今まで観察していてありえない出来事です!
体は大きいですが、まだまだ雛ですもの、みんな一斉に鳴き始めました。ここは、「泣き」!!
この後、30分ほどもしてやっと親が合流しました。その間に他のペアのカルガモが来て「お前たちの親じゃないよ」とばかりにあしらわれる場面も。これは、もうすぐ巣立ちの予行演習だったのでしょうか?
今年のカルガモ親子は、どの親子も一日だけの観察で、翌日には姿がありませんでしたが、去年と今年と、2年連続でご報告出来ました。「隅田川テラスの朝散歩、雨の日には何かが起きる」これがうさこの決まり言葉です。
[しばしばしばた]
2018年6月23日 18:00
[yaz]
2018年6月22日 09:00
東京という都市は、今なお東京湾口に向けて伸び続けています。お台場の沖合で今も中央防波堤外側埋立地の造成が続いていますが、この事業は昭和52年(1977)に開始され、未だ事業半ばです。家康が埋め立てを開始して今なお続けるこの事業は、明治時代に入ると月島から始まりました。江戸時代には陸で壕や河川を造成するとき発生する土砂を廃棄して埋め立てましたが、明治時代には海底を浚渫して発生した泥土を埋め立てて陸地を造りました。
明治25年(1892)の東京湾澪浚(みおさらい)事業で海底泥土を浚って積み上げて生まれたのが月島1号地です。続いて2号地、3号地(現在の勝鬨、豊海)、4号地(現在の晴海)と沖合に細長く伸ばしていきました。この澪浚事業は、同時に隅田川河口改良工事でもありました。長年、隅田川が海底に運んだ泥土を取り除いて航路を整備したのです。
月島・佃島の川筋には、伝馬船や達磨船あるいは発動機船などの艀(はしけ)が多くみられました。貨物船で運ばれてきた品物を大艀と呼ばれる比較的大きな船で集配し、品物を積み替えた小艀で陸揚げしたら、川筋を輸送します。大正から昭和にかけて東京市とその周辺を流れる河川は69あり、輸送には水運が便利でした。水運に従事する艀の数は昭和2年(1927年)末の水上署の調査によれば11,290隻で、艀は所帯ごとの仕事場でもありました。その人口は31,036人(男性20,600人、女性10,436人)であり、その半数以上が陸上に家を持たない水上生活者でした。仕事場であり生活の場である艀は、大きくても50トン、小型では10トン以下でした。寝起きする部屋の大きさは2~3帖という小ささでした。ここで家族3人~4人が生活していたわけです。こうした住民の福利厚生を行うために水上会館や水上学校(陸上に建てられた寄宿形式の学校)が建てられたほか、治安を担当する水上警察署などが設置されました。昭和2年当時の中央区(=日本橋区・京橋区)の正確な人数は不明ですが、グラフからすると24万人程度でしょうから、水上生活者だけで10%以上を占めていました。
2018年2月現在の月島地区(月島・勝どき・晴海)の人口は72,780人・世帯数は37,443です。中央区の人口(=157,388人)46%を占めています。いつの時代も中央区の人口はウォータフロントで持っていると言っても過言ではないでしょう。
水上生活者の方々には戸籍のない人も多くいたようですので、実際の割合は上記数字以上であったと予想されます。
1960年代後半になると、貨物船のコンテナ船化が進み、物流における艀の需要が減って職住一体となった艀は減少し、水上生活者も転職などにより激減します。一方で、艀の廃船を係留して住宅の代替として利用するケースが多くなりましたが、1980年代になると艀の老朽化が進み、使用に耐えられなくなりほぼ見られなくなりました。