[みど]
2018年2月15日 14:00
2年後にオリンピックを迎える東京ですが、前回(1964年)の東京五輪 の頃に銀座にアイビールックの服を着た男性やロングスカートの女性が 大きな紙袋を抱えて歩く「みゆき族」が誕生しました。 ご想像の通り、皇居そばの日比谷公園から、銀座の中心部を抜け、築地市場 の手前辺りを結ぶ「みゆき通り(全長約1.2km)」に因んだ名前です。 しかしこの通りは元の名前を「山下橋通り」と言っていたそうです。
戦争で幻となった1940年の東京五輪招致が決まったその数年前に、東京を 世界に通用する美しい街にと考えた画家の藤田嗣治、詩人の西条八十など の文化人らが銀座を美化して、世界に恥ずかしくない街にしようと企画した そうです。 その結果、明治天皇が皇居から築地にあった海軍兵学校、海軍大学校の 卒業式などに臨席する際に行幸路とされた場所を『みゆき通り』と命名した とのことです。従って「みゆき」の漢字は「御幸」となります。
銀座みゆき通りはこういった人々の熱意から生まれ、愛されて根付い たストリートなんでしょうね。
[ジミニー☆クリケット]
2018年2月14日 18:00
[中央小太郎]
2018年2月12日 09:00
「祈りの幕が下りる時」を見てきました。特派員としては見逃せない映画ですね。
日本橋と人形町が、(お店もスポットも)これでもかというくらい出てくるので、それだけでもわくわくしますが、ストーリーも感動ものです。同じシリーズのドラマ「新参者」の内容も時々出てくるので併せてご覧になるとより楽しめます。
※新参者を見てなくても全然大丈夫です。念のため。
さて、久しぶりのブログになります。去年(2017年)銀座のスイーツツアーという同一企画のガイドを3回もやったので、今回はそのことについて触れたいと思います。
【概要】
このツアーは、7月と9月と11月にそれぞれ1回ずつご案内しました。全部で4回(7月が2回)でしたが、そのうちの3回でガイドを引き受けたことになります。参加者が多い回はガイド2名で、2班に分かれます。9月の回のみ私一人で対応しました。
木村屋でアンパン作りを体験した後、歌舞伎座の寿月堂でスイーツを楽しみます。両店舗間を移動する際に、1時間強、銀座の街を案内するというのがガイドの役目です。
好評だったらしく、当初、夏の2回だけだった企画が、秋にも追加されました。
ツアーの参加者の方々は情報に敏感な女性が多く、街歩きの中でも、積極的に質問やコメントを頂きツアーを盛り上げて下さいました。コースを考えるときも、特派員ならではのトリビアを提供できるように頭を悩ませました。
【コース】
参加者の方には関係ありませんが、自分の中でマンネリにならないよう、コースは3回とも違うものにしました。
(1回目)
木村屋スタートで、1丁目~4丁目を東銀座も含め網羅的に寿月堂まで案内しました。
(←クリックすると大きくなります)
(2回目)
木村屋スタートで、5丁目~8丁目の中央通りから西側を案内後、三原小路を経て寿月堂まで案内しました。
(←クリックすると大きくなります)
(3回目)
歌舞伎座スタートで、新橋演舞場を回った後、三原小路を経て中央通の西側を5丁目~3丁目を通り、木村屋まで案内しました。
(←クリックすると大きくなります)
【見所】
スイーツネタは必ず入れるようにとの要望があったので、それは盛り込むとして、
その他のトリビアも積極的に混ぜるようにしました。個人的には以下の話題が好みです。
・銀座とはどこから何処までか?
・銀座は路地を歩くと"通"っぽい
・三十間掘がもともとの海岸線
・歴史を押さえて歌舞伎をもっと楽しむ
・銀座のクラブは金春屋敷が源流といっても差し支えないと思う
・銀座のグルメを場所とともに確認する
・銀座にもたくさんの神社がある
・銀座の歴史は4つに分けて理解する(江戸時代⇒煉瓦街⇒震災後⇒戦後)
・などなど。。。
【所感】
銀座は伝えたい内容が多く、また変化も激しいので案内しがいがあります。
ご紹介した情報量が多すぎて参加者の方々がオーバーフローしていないことを祈るばかりです。。。
ただ、何人かの方からは面白かったですとのコメントを頂けたので、なんとか楽しんで頂けたものと信じたいです。
また機会を頂けたら全力でやりますよ~。
[銀造]
2018年2月 9日 12:00
銀座シックスの屋上には沢山の植物が植えられていて、私たちを楽しませてくれます。
2月6日現在、カワヅザクラが2本、満開なのを楽しみました。
メジロも三羽ほど飛来して、蜜を吸っていました。
海外からのお買い物客、熊本からのご婦人方も歓声を上げていました。
一足早い春を、お買い物、お食事とともにお楽しみ下さい。
[滅紫]
2018年2月 8日 18:00
話題の高麗屋三代同時襲名公演も2か月目に入り、益々の人気でチケット手配も大変。漸く友人たちにチケットを渡して私もやっと歌舞伎座に。入り口の番頭さんと呼ばれる役者さんのマネージャー役の方たちの受付の後方にずらりと並んでいるのは出演俳優の奥様方20人近く。流石に華やか、圧巻です。客席に足を踏み入れた途端目を引くのは草間彌生デザインの祝幕。黒地にカラフルな3点が凄いインパクト。あちこちで写真を撮っているお客様が目立ちます。
夜の部は新幸四郎さんの「熊谷陣屋」、襲名披露口上を芝居仕立てで上演する「木挽芝居賑」、奥様方勢ぞろいの理由がわかりました。菊五郎、仁左衛門、吉右衛門そして藤十郎さんまで両花道を使っての俳優総出演です。襲名公演ならではの豪華さ、贅沢です。そして今月話題になっているのが「七段目」の平右衛門とお軽を仁左衛門・玉三郎と海老蔵・菊之助が奇数日と偶数日交替で演じるというもの。1月からどちらの組み合わせで見るか仲間内では大騒ぎになっていました。両方見たいのは山々ですが、チケットも通常よりお高く、また手配も大変なので悩ましい所です。今日は奇数日で仁左衛門・玉三郎の組み合わせ、「孝・玉コンビ」の久しぶりの復活ですが流石、息の合った名コンビ。いい雰囲気です。新染五郎(大星力弥)と新白鸚(由良之助)が37年前の先代たちと同じ役を勤めるのも話題。新染五郎さんは中学生ですが、「歌舞伎の名門の御曹司」を画にかいたような姿の品のよさと美しさで隣の方と「お父さんより更に美男」と盛り上がりました。襲名記念グッズもたくさん揃っています。これは一筆箋3種類あるうちの一つです。
25日までですが、日にちによってはまだ取れる日もあるようです。歴史的な三代同時襲名公演是非ご覧ください。
昼の部は「春駒祝高麗」「一條大蔵譚」「暫」「井伊大老」です。
千穐楽は25日 チケットのお問い合わせはチケットホン松竹0570-000-489(10時~18時)
[yaz]
2018年2月 8日 09:00
木下杢太郎シリーズ第一回「木下杢太郎と八重洲橋」で、鎧橋の脇に開かれた「メゾン 鴻ノ巣」にパンの会メンバーと共に足しげく通っていたことを書きました。
/archive/2017/12/post-4762.html
パンの会は明治末期の耽美主義文芸運動の拠点となった談話会です。 1908年 12月(明治41年)に発足、メンバーとしては『昴』系の木下杢太郎、北原白秋、吉井勇らの詩歌人,美術雑誌『方寸』出身の木村荘八などの美術家,自由劇場の小山内薫,市川左団次らから構成されます。永井荷風なども出席し,東京をパリに,隅田川をセーヌ川になぞらえた青春放埒の宴を続けました。日本橋川をセーヌ川になぞったという説もあり、「メゾン 鴻ノ巣」も重宝がられました。(日本橋小網町には「メゾン鴻ノ巣」について説明する看板が設置されています)
この絵は木下杢太郎記念館(伊東市)に飾られているものを撮影したものです。絵は杢太郎の作です。
「鴻之巣」の名は、「メゾン 鴻ノ巣」のオーナー奥田駒蔵のふるさと"久世郡寺田村(京都府城陽市)近くの丘「鴻ノ巣山」"(埼玉県の鴻ノ巣市は無関係)に因んでいます。「メゾン 鴻ノ巣」開店時の駒蔵は若干三十六歳でした。
大正四年ごろ、「メイゾン鴻之巣」は日本橋木原店(きわらだな・かつての白木屋の横町、いまも「木原店跡」の札がかかっている)に移転します。
一階は庇のような狭いバア。煉瓦のあらわに出た壁が地下室を思わせる感じでした。二階の食堂はかなり広く、さまざまな文芸団体の集会場として、小網町時代よりも一層利用されるようになりました。芥川龍之介の『羅生門』の出版記念会の写真が残されていて、鴻之巣の店内の様子が判ります。
大正九年の末ごろになると、店は再度移転します。こんどはフランス料理「鴻乃巣」として、本格的なレストランを名乗ります。場所は京橋の南伝馬町二丁目12、現在地下鉄京橋駅上の明治屋の位置です。もと田村帽子店のあった四階建てのビルとのこと。
一階は天井の高いホールのような造りで、曲木細工の椅子に円いテーブルが数組。冬にはだるまストーヴが赤々と燃え、カウンター背後の棚には洋酒の瓶がズラッと並び、鼻をくすぐるコーヒーの香りが店先にまで漂い、客を誘います。二・三階には大小の宴会場が数間あり、四階は従業員の休憩所や家族の住居になっていたようです。
大正十二年九月一日、関東大震災で店は倒壊してしまいますが、駒蔵一家は無事でした。
しかし、震災からわずか二年後の大正十四年十月一日、駒蔵は四十三歳の若さで急死します。
パンの会はいろいろの店を使って集会を続けますが、「メゾン 鴻ノ巣」以外で馴染みにしたカフェーが銀座のプランタンです。東京美術学校(現 東京芸術大学美術学部)出身の松山省三が、パリのカフェーのような、文人や画家達が集い芸術談義をできる場所を作りたいと、1911年3月にカフェープランタンを開業しました。所在地は京橋区日吉町20番地(現銀座8丁目6番24号、銀座会館付近)で銀座レンガ街の一角。煉瓦の建物を改装し、小山内薫が「プランタン」と命名しました。類似の店は存在していましたが、プランタンの登場によって、洋行帰りの人たちが口にしていたような意味での(サロン形式の店としての)カフェーが登場した訳です。
プランタンなのか鴻ノ巣なのかは特定できませんが、木下杢太郎から聞き取って木村荘八が絵筆をとった絵が残っています。楽しそう!
銀座のカフェーはその後いろいろの変遷を経て、一つの形として「バー」という形式を生み出し、銀座全体(1丁目から8丁目)で約350軒に上っています。木下杢太郎や太宰治などのカフェー体験の一部でも、銀座のバーを訪ねて感じてみませんか?