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中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

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茅場町夏祭り!山王祭『神幸祭御旅所祭』

[達磨] 2018年6月15日 12:00

『山王祭』...京都の祇園祭、大阪の天神祭と並ぶ日本三大祭の一つのです。2018年行事日程は6月7日~17日(山王祭公式サイト参照!)。6月8日、山王祭最大の儀式『神幸祭』が行なわれました。御鳳輦2基、宮神輿1基、王朝装束をまとった神職、巫女、氏子、猿田彦、馬車、御幣、笠鉾、獅子、幟、高張り提灯...らが300mの大行列で氏子区域を巡幸。王朝絵巻の再現です。7;30本社―12:00皇居坂下門(参賀)―13:20『日枝神社日本橋摂社』御着輦です...本殿前には3基の御鳳輦と宮神輿が並び、神職氏子ら、報道、見学者で立錐の地もない境内となりました。摂社の裏手歩道際では巡幸馬が休憩中...此処から京橋―銀座―新橋―首相官邸前―16:45日枝神社御還御の巡路となります。

茅場町2神幸-240.jpg神幸祭茅場町1-240.jpg

摂社1-240紫陽花3.jpg摂社内5-240.jpg

摂社神輿4-240.jpg馬休養6-240.jpg

 

 

日本橋高島屋〜山王祭り下町連合半纏〜

[東京ダンボ] 2018年6月 5日 18:00

日本橋高島屋1階のロビーで山王祭「下町連合渡御」に参加する町会や団体の半纏が展示されています。

 

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下町連合渡御は6月10日(日)の9時〜14時頃にかけて、茅場町の日枝神社摂社を6基の神輿からスタートし、八丁堀で4基が合流後、京橋で山車や神輿17基が勢揃いし中央通りを日本橋まで向かい、高島屋GAOLするというまさに山王祭のクライマックスです。

 

街中でも提灯の準備が進んだりして、祭気分が高まってきましたね。

2年に一度の本祭りを楽しみましょう!!!

 

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楓川跡を歩く(2)

[ジミニー☆クリケット] 2018年6月 4日 14:00

楓川跡を歩く)」の続きです

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楓川は、昭和30年代まで中央区に存在し、日本橋川兜町付近から南へ分流して、京橋川八丁堀桜川合流地点に至る河川でしたが、埋め立てられて、現在は首都高速道路都心環状線がその跡を通っています

上の地図黄色の部分です

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)は久安橋です

この橋は、八重洲通りが「首都高速」(旧・楓川)を渡る橋です

現在の橋は、関東大震災復興事業により、八重洲通りの造成と共に架け替えられたもので、重量感のあるアーチ橋です

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久安橋は、江戸時代に桑名藩松平越中守の上屋敷前に架けられ「越中橋」と呼ばれていましたが、明治元年に江戸幕府の名残りである「越中」の名が取られ「久安橋」と改称されたそうです

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宝橋)です

宝橋は、京橋八丁堀を結ぶ一方通行の狭い通りが、 「首都高速」(旧・楓川)を渡る橋です

下の写真は、宝橋上から南側の高速道路を見たところです

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宝橋の名称は、当時の楓川西側一帯の「京橋区 宝町」という町名からきているそうです

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)は水色の鳥居の天祖神社宝橋のすぐ近く、ビルの脇の細い参道を進んだ先に本殿があります

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小さな神社ですが、歴史があり、江戸時代前期の寛永元年に、伊勢長官出口市之正伊勢神宮皇大神宮別宮である伊雑宮を江戸日本橋通3丁目に奉斎したことに始まるそうです

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寛永10年には、八丁堀松屋町替地300坪および門前地をもって幕府の命により遷座したそうです

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松幡橋)です

東側の松屋町、西側の因幡町から各町名の一字ずつを取って、名付けられたそうです

江戸時代には松屋橋とも呼ばれました

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楓川の一番南端に架かる橋が弾正橋鍛冶橋通りにある橋です

こちらも、現在の橋は、関東大震災後の帝都復興事業によって架け替えられました

江戸初期には、東側に島田弾正忠利の屋敷があり京橋川白魚橋三十間堀川真福寺橋と併せて「三ツ橋」と呼ばれたそうです

明治11年には、日本初)の純国産鉄橋が架けられています

この鉄橋は昭和4年に江東区内に移設され、八幡橋と改称されています

下の写真は、弾正橋から南側の高速道路を眺めたところです

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今回、楓川沿いを歩いてみて1キロちょっとの距離でしたが、「川と掘割」によって積み重ねられた歴史の重みを感じることができました

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楓川跡を歩く

 

 

楓川跡を歩く(1)

[ジミニー☆クリケット] 2018年6月 2日 09:00

先日(5月27日)、このブログでご紹介した「川と掘割"20の跡"を辿る江戸東京歴史散歩」(岡本哲志著、PHP新書)を読んで、かつて存在した楓川に興味を抱き、楓川沿いを歩いてみました

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楓川は、日本橋川兜町付近(現在の江戸橋ジャンクション付近)から南へ分流し京橋川八丁堀桜川合流地点(現在の京橋ジャンクション付近)に至る約1.2キロメートル の河川でしたが、1960年(昭和35年)から1965年(昭和40年)にかけて埋め立てられて、現在は首都高速道路都心環状線がその跡を通っています

下の地図黄色の部分がかつて楓川が流れていたところです

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そのスタート地点()は、かつて兜橋があったところ

下の写真は、兜神社前から兜橋が架かっていたであろう場所の眺めです

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兜神社です

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境内には、前九年の役で、源義家が立ち寄って戦勝を祈願したと伝えられる兜岩があります

これが兜町町名の由来となりました

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)は、海運橋の架かっていたところです

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江戸初期は髙橋、後に海賊橋将監橋と称されたとのこと

明治元年(1868年)、「開運」と掛けて海運橋と改称されました

現在は、2基の親柱のみが残されています

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千代田橋は、永代通り楓川を渡るのに架けられた橋です

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大原稲荷神社は、千代田橋の南側、歩いてすぐのところに、高速道路を背にして祀られています

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新場橋)です

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中之橋楓橋の別称もあったとのことで、延宝2年、西側に日本橋魚河岸に続く第二の魚河岸)として新肴場新肴場河岸)が設置され、新場と略されたそうです

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新場橋の橋上から北側高速道路を眺めると、高架から楓川川底に向かって道路が下って来ているのがよくわかります

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新場橋のすぐそば、さくら通りからちょっと入ったところにある鳥居稲荷神社です

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静かな場所に建っていて、「正一位」の文字が印象的です

楓川跡を歩くに続きます。〕

 

 

宝橋たもとのビヨウヤナギ

[ジミニー☆クリケット] 2018年6月 1日 09:00

宝橋は、既に埋め立てられてしまった旧楓川に架かっていた橋ですが、現在は下を首都高速都心環状線が走っています

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宝橋の交通量は多くありませんが、橋の下だけでなく、上にも高速道路が走っています

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この宝橋八丁堀側のたもとの植栽スペース一面にビヨウヤナギが咲いています

下の地図赤〇の場所です

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ビヨウヤナギ未央柳美容柳)は、オトギリソウ科半落葉低木です

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中国原産で、約300年前に日本に渡来したそうで、花期は5~7月頃で、直径5センチ程度の黄色5枚花弁のあるを咲かせます

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同じ時期に黄色い花を咲かせるキンシバイも同じオトギリソウ科の仲間で、遠目で見るとよく似ていてどちらのか区別がつかないのですが、近くで自体を見ると、ビヨウヤナギオシベは長く、よく目立ちます

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上の写真キンシバイ、下の写真ビヨウヤナギです。

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昨年6月、聖路加通りキンシバイビヨウヤナギを紹介したブログはこちら ⇒

/archive/2017/06/post-4378.html

 

 
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