[サム]
2010年7月15日 08:30
毎年7月13日から3日間行われる佃島の盆踊りは「念仏踊り」とも云われる。江戸期浜町にあった本願寺別院が明暦の大火後築地に移築されたが、これに関わった佃島の門徒が延宝8年(1680年)その完成を期して先祖の霊を慰めたのが始まりとされる。
江戸市中を巡り、お布施を受けてそれを築地本願寺に奉納していたが、天保2年に禁じられて以降、島内でのみ行われてきたという。
現代の一般的な盆踊りと比べ、単調な太鼓の音と哀調を帯びた盆歌。
戦後佃島盆踊保存会が出来、伝統が継承され、昭和51年に東京都無形文化財に指定された。
南無阿弥陀仏の掛軸をかけた祭壇にお参りした後、「秋の七草」を詠み込んだ唄や、最後は南無阿弥陀仏で終わる数え唄などに合わせ、「渡場通り」に設営された櫓を囲み踊りが続く。
最終日は、仮装をして踊る人も見られる。
[与太朗]
2010年7月13日 15:00
7月になりました。7月に生まれ死んだ谷崎潤一郎は、小説家として自分が成し遂げた仕事は幼少時代の環境に負うところが多大だと書いています。そこで文豪70才時の著『幼少時代』を片手に、幼年期・少年期を過した蠣殻町・茅場町界隈を歩いてみました。
生誕の地 谷崎活版所
谷崎は明治19年(1886)7月24日、日本橋区蠣殻町二丁目十四番地、谷崎家の繁栄を一代で築いた「偉いお祖父さん」久右衛門の家で生まれました。(7月24日といえば奇しくも同じ中央区生まれの文豪芥川龍之介の命日、河童忌ですね。) 「谷崎活版所」という巌谷一六(小波の父で明治の三筆といわれた)の隷書の看板が掲げられた黒漆喰土蔵造りの家の蔵座敷、この年は記録的な暑さで、そのまた暑いさかりの誕生でした。現在の住所でいうと日本橋人形町1-7-
10、人形町通りを西に折れた「玉ひで」の並びに「生誕の地」碑があ
るのでご存知の方も多いでしょう。 [写真 上]
当時、人形町通りの角は絵草紙屋の清水屋で、潤一郎少年は年方・月耕・清親など毎日のように眼を輝かして見惚れていた。生家の斜向いの東側一帯には矢場(楊弓店)が並んでいる。玉秀(現玉ひで)のかしわは「いかにも東京風にあっさりした、柔かで旨い鶏」で始終取り寄せていた。水天宮と大観音が子どもの恰好の遊び場になっていました。
南茅場町の最初の家
明治24年、一家は浜町に移るが、そこには長くおらず、さらに南茅 場町の四十五番地(現在の日本橋茅場町1-4あたり) [写真 右上]へ移転、日枝神社や薬師堂から一丁と離れていないところでした。ここから霊岸橋を渡った蒟蒻島の小岸幼稚園に短期間通い、翌明治25年の9月に阪本小学校[写真 右中]に入学します。
「薬師
の地内」には南から天満宮、翁稲荷、
浅間神社、 神楽堂、
日枝神
社、薬師堂、
閻魔堂、大師堂などがあり、
(これらの寺社は現在ずっと狭くなったり、
跡形もなかったりしている)飴屋、駄菓子屋、糝粉屋などの露天商が出て、いつも子供たちが集まっていました。
日枝神社は「お旅所だったから一年置きの六月十五日に盛大な祭礼がある外はひっそりとして」いましたが、
先月執り行われた神幸祭のにぎわい[写真 右下]
は昔と変わっていないようですね。
また、薬師堂に今も残る釜七の天水鉢は天保の作ですから潤一郎少年も当時目にしていたことでしょう。
阪本小学校
幼時から「人形町界隈に特に親しみを感じていたので、小学校といえば・・・有馬学校のことしか考えていなかった」谷崎ですが、24才の作『少年』でも作者と思しき主人公は蠣殻町二丁目の家から有馬学校へ通っています。(東華小は明治34年創立でまだない。)ところが南茅場町の家からは阪本小が「なるほど」「ずっと近い所」にありました。二学期から入学の一年生は甘えん坊の意気地なしで落第となりましたが、その後は先生にも恵まれ才能がどんどん開花していきます。阪本小では終生の友、笹沼源之助と同級になります。彼は東京における中華料理の元祖、偕楽園の跡取りでした。(偕楽園は現在
の日本橋茅場町2-10あたりらしい。 [写真 左上] ) 阪本小正門前の新場橋( [写真 左中]当時の橋は今よりもっと北寄りだった)で、美少年趣味の薩摩軍人に馬場先門まで拉致されてしまったのも、やり直し一年級のころでした。 [蛇足ながら、生誕の地の説明板では、阪本小入学後に住所を転々としたとあるので、蠣殻町生家から入学したと誤解されるかもしれませんね。]
南茅場町の二度目の家
商才のない父親の事業不振で、一家は蠣殻町一丁目米屋町裏通
りの父の店に移り、さらに没落して南茅場町五十六番地、明徳稲荷(現在の場所と違う)の路地奥に引っ込むことになります。明治27年でした。ここは幼少時代最も多くの年月を過ごす場所で、後に「電車道になってしまった。」と慨嘆していますが、現在の茅場町一丁目の交差点付近と思われます。( [写真 左下]は現在の明徳稲荷)
明徳稲荷のお神楽堂では、毎月八日の晩に茶番狂言が行われ、熱気のこもった詳細な思い出話からは歌舞伎などとともに谷崎文学に深く大きな影響を与えたことが感じ取れます。
鎧橋
南茅場町へ来てからも、母やばあやに連れられて毎日のように鎧橋を渡り、本家(活版所)に遊びに行ったり、風呂を貰いに行ったりしていました。
鎧橋は明治5年に木橋が架けられて鎧の渡しがなくなり、明治21年には鋼製トラス橋に替わります。「その頃市中にそう多くはない鉄橋の一つで」「往き復りに橋の途中で立ち止まって、日本橋川の水の流れを眺め」「上流の兜町の岸にある渋沢邸のお伽噺のような建物を、いつも不思議な心持で飽かず見入ったもの」でした。現在の橋は昭和32年に架け替えられたもの。 [写真 下] 井上安治の版画にもある渋沢邸の場所は現在日証館ビルが建っています。(なお、茅場橋は昭和4年の創架です。)
谷崎は後年、変貌していく東京を慨嘆し、もはや自分の故郷とは思っていない、むしろ京都・大阪の旧市街に忘れていた故郷を見つけた気がする、と言っていますが、彼の文学の素となった幼少年期を70才になって『幼少時代』で情熱的に再現しました。さらにそれから50数年もの歳月が流れ、そのままに残るものはほとんどありませんが、明治20~30年代、昔の江戸のおもかげを残していた明治の東京を著者の興奮に導かれて歩き、しばし楽しい夢が見られました。
[またまた蛇足ですが、芥川龍之介の墓は染井の慈眼寺にあります。ここは谷崎家の菩提寺でもあり、京都法然院に墓のある潤一郎も分骨されています。時には二人、生前の文学論争の続きを楽しんでいるのでしょうか。]
[ゆりかもめ]
2010年7月11日 22:11
今年も下町情緒あふれる月島草市が開かれました。
約500mの月島西仲通り商店街では屋台がギッシリ埋め尽くし歩くのがやっとになります。
懐かしい、かき氷・たこ焼き・金魚すくい・玉すくい・宝籤・輪投げ・焼きとうもろこし等の店が並び大勢の大人・子供達で賑わっていました。
金魚すくい
玉すくい・・・・浴衣姿の女の子は可愛かった。
去年は7月12・13・14日と3日間でしたが今年は10・11日と2日間になっていました。
盆踊りの踊り子さんも昨年の様に子供達が多くなくライトの関係で上手く写真が撮れませんでした。
昨年の12・13・14日の写真の方が上出来でした。
[ゆりかもめ]
2010年7月11日 20:34
梅雨明けはまだなのに浜離宮では秋の七草が咲きはじめました。
モンシロチョウ・モンキチョウ・クロアゲハ等が遊んでいます。
桔梗(キキョウ)
女郎花(オミナエシ)
撫子(ナデシコ)
「ミソハギ」と「モンシロチョウ」
秋の七草・・・萩(はぎ) 薄(すすき) 葛(くず) 撫子(なでしこ) 女郎花(おみなえし)
藤袴(ふじばかま) 桔梗(ききょう)
キバナコスモス(秋の七草ではありません)
3000平方メートルの土地の全体がコスモス畑になるのはもう少し先ですがその片隅に
しっかり咲いて居りました。
花畑になる場所は江戸時代の奉行役宅跡ですが大戦後の昭和23年頃よりテニスコート
にした時期もありました。
浜離宮は7月16日(金)より8月14日(土)までの金曜日と土曜日は10日程ですが、朝は8時より開園いたします。
外国からの御客様が朝早くお見えになるのに応じる為です。
8時に入園すると朝の清清しい気分と共に英会話の練習が出きるかもわかりません。
[銀造]
2010年7月11日 10:48
すっかりおなじみの、東京メトロ主催の「ぶらり 東京新発見!」のスタンプラリーですが
6月11日から8月9日までの期間は、銀座駅から東銀座駅の間にあるポイントでスタンプを
押して、応募すると、
抽選で388名に、みつばちハッチのぬいぐるみと、銀座でとれた蜂蜜のお菓子が
当たるという大変うれしい企画です。詳細はこちらです。
http://stamprally.seesaa.net/
そんな理由で、東京メトロの駅でスタンプラリーの用紙を貰って、勇躍出かけました。
東銀座にある東劇ビル。ここの3階でスタンプを貰います。ミツバチハッチのシールも貰えたよ。
映画も見てね。
次は、三愛ドリームセンター、9階のリコーフォトギャラリー。
このビルは、リングキューブって呼ばれているのだそうです。
女性の水着とかファッションで有名だったので、入ったことはありませんでした。
あとで知ったのですが、このビルの左右には、モニュメントがあります。
「銀座の恋の招きネコ」、COICORIN
ビルに向かって右側がオスの「ごろべえ」です。
左側のは、メスで、「のんき」です。
地下に降りて最終の銀座駅のスタンプを押して、氏名、住所などを記載して応募。
楽しかったなぁ
お昼はすずらん通りで、 美味しく頂きました。