[ゆりかもめ]
2010年7月27日 08:30
7月25日(日)「名橋 日本橋を洗う会]が開催されました。
昭和43年に地元有志により「名橋日本橋を洗う会」が発足しこのイベントは保存会、地元町会、地元企業ほか各行政庁等 多くの参加者が協力して毎年、実施されています。
一時的には道路の通行もストップさせて伝統ある日本橋を磨き上げます。
大人の作業はほぼ終わっていますが子供達はまだ一生懸命に磨いています。
平素は橋の中央にあり見る事の出来ない本物の道路元標ですが子供達がしっかり磨いています。
日本橋の銘板を消防車のリフトに乗って大人の指導の下に小学生がデッキブラシで洗っています。
仕上げにもう一度、日本橋の銘板に放水します。
日本橋の上は4台の放水車が並んで道路に水を撒きながら二往復しました。
最後に日本橋の中央で「交通安全祈願」をして全てが終わります。
[サム]
2010年7月23日 16:30
"路地"に郷愁を感じるようになって久しい。
現在の月島1丁目~4丁目は近代以降の最初の埋立地として明治24年(1882年)に造成された人工の島。
名前の由来は観月の名所に因んでつけられたとか、「築島」が転じて月島になったとか諸説ある。
幅員10.91m(6間)及び5.45m(3間)の道路が碁盤目状に走り、歴史的街割である60間(約109m)四方を2分割したものが標準的な街区サイズとなっている。
当該地区に続々立地する工場・倉庫等で働くワーカー向け長屋を建設するに当たり裏敷地有効活用の観点から街区の中に所謂"路地"を細かく通したとされる。
明治37年に水道・電気が敷設されるが、当時は水道は共同、台所は玄関脇で火は七輪を"路地"に出しておこしていたと記録にある。
関東大震災後に町家や長屋が再建される頃には各家に水道・ガスが敷かれ、台所が奥に移動したと云われるが、街割は大きく改編されることなく、"路地"には植木鉢・盆栽が並べられ、洗濯物が干され、窓や軒先には簾が下がる光景はそのままに、時を刻んできた。
そして植栽空間に住みついた陶製の小さな住人たち。
戦災の被害並びに東京オリンピックを前にした再開発の波も殆ど免れ、典型的な歴史的街割がまとまって見られる月島の"路地"空間は、近年周辺を超高層マンション群に囲まれつつあるものの、都内でも震災後復旧した昭和初期の風景を色濃く残す稀少な地域となっている。
ゆったりと流れる時間。"路地"には猫がよく似合う。
[小江戸板橋]
2010年7月23日 13:30
梅雨明けあとの、午後の昼下がり、「江戸バス(中央区コミュニティバス)」に乗車しました。
中央区役所の玄関前に、南循環、北循環と2台の小型バスが前後に並んでいました。
鮮やかな赤のボディが、かわいらしさを際立たせます。
始発の地の利を活かして、まだお客さまが誰も乗っていない車内へ、100円玉をコインボックスに入れて乗車。
目指す座席は、一番後ろの進行左端の席です。最後部の席は、ノンステップの車内の中で2段ほど高いため、外の見晴らしが良いことと、肘置きの部分がふっくらしていて、ささやかな「お得感」があります。
座席は11席。つり革が8本。太目の握り棒も掴みやすく配置されています。
ほとんど無意識に乗った北循環は、東京駅、新日本橋駅、浜町駅、水天宮前駅などの28箇所に停車します。
「発車します。」、「左に曲がります。」
『わーい。何てソフトな声の運転士さんなのでしょう。』
お客さまの姿をしっかり確認してのやさしい声かけ。
この丁寧な心配りならば、通院に利用しているお年寄りも安心です。
なんせ、炎天下の平日の午後ですから、外の暑さを逃れたOLさんが、仕事疲れのためか、つかの間の眠りについています。
浜町周辺を通ると、反射的に「絶対、和服姿の女性が歩いているはず」と妄想するのですが、期待にたがわず、歩く姿もキリッとしたお姉さんが、姿を見せてくれました。
わたくし的に、一番印象に残ったシーンは、右折した交差点の中ほどの位置から見えた清洲橋です。ほんの一瞬なのですが、橋がグッと迫ってくるようで、オオッと目を見張りました。
途中の東京駅、区民センター、病院、取引先の会社・・・。乗ること自体が目的だった私には、お客様に移動手段として定着している江戸バスが、何か貴重な存在に感じられました。
小さな車体で、狭い道路にもするりと入り込め、デブ猫マーク、・・いやいや福招き猫がキュート。
アニメの猫バスのやさしいイメージが漂っていました。
一周約65分。JR山手線一周の時間とほぼ一緒。
「中央区のぐるり旅」はいかがでしょうか。
[巻渕彰/写楽さい]
2010年7月23日 08:30
八重洲通りを北へ行ったところに「養珠院(ようじゅいん)通り」がある(写真上左)。八重洲一丁目の外堀通りから日本橋三丁目の昭和通り手前までの東西を結んでいる。道路標識も少ないので見過ごしがちの道である。その由来は「於満稲荷神社」にある(写真上右)。家康の側室・お万の方を祀ってあり、院号が養珠院であることから、平成16年(2004)に中央区道路愛称が付けられた。
お万の方(1577-1653)は家康の十男である紀伊徳川家開祖・徳川頼宣(よりのぶ)と十一男の水戸徳川家開祖・徳川頼房(よりふさ)の生母である。尾張徳川家とともに御三家となった。同神社の由緒書によると、「養珠院は代々日蓮宗を信仰し、ここ日本橋あたりで神仏寄進の物資調達をしたそうで、その遺徳に恩義を寄せた商人たちがこの稲荷社を建立した」という。
江戸期の古地図では、この社は上槙町(かみまきちょう=現八重洲一丁目)に存在していたことが分かる。草分名主の檜物町(ひものちょう)の南隣で元祖下町の一帯。現在の於満稲荷はビル脇に再建されていて、人ひとりがやっと入れる狭いところであるが、旧江戸城(皇居)方面を向いているのは往時を偲ぶかのようだ。
このお万の方とゆかりの寺が渋谷区千駄ヶ谷にある。日蓮宗の法運山仙寿院で、赤坂の紀伊徳川屋敷にあったものを正保元年(1644)に現在地に移転して開山したもの。同院の沿革によると、お万の方の発願により紀伊徳川家、伊予西条松平家の江戸での菩提寺祈願所として10万石の寺格だったという。壮大な堂宇と庭園で、『江戸名所図会』には〈新日暮里(しんひぐらしのさと)〉として、「谷中日暮里に似てすこぶる美観たり、弥生のころ爛漫たる花の盛りには大いに群衆せり」とある。
ここは何と、墓地の真下を人と車が通っている。昭和39年(1964)の東京オリンピック道路拡張工事によって墓地が切り取られる計画であったが、墓地をそのまま生かすためにその下部を掘り下げて切り通しのトンネルにして、その上に改葬したそうだ。このトンネルは「千駄ヶ谷トンネル」で、"心霊スポット"ともささやかれている(写真下左)。今の本堂(写真下右)は昭和40年(1965)に再建されたもので、その屋根には由緒の象徴である徳川葵の御紋が輝いていた。
[まぴ★]
2010年7月22日 08:30
氷点下の『アサヒスーパードライ』エクストラコールドが銀座で飲めます。
3連休の3日目はむちゃくちゃ暑かったのですが、ものすごい行列が出来ていました。
銀座通り、1丁目の交差点、ダイヤモンドシライシの隣です。
8月末までの期間限定のアンテナショップだそうです。
表にいたスタッフさんに聞いてみました。
特殊なサーバーを使っていて、現在マイナス2度になってるそうです。
これから色んなお店に飲めるようになるらしいです(*^^*)
私はビールが苦手なので、取材のみでしたが(^^;
缶500mlでは約5分間、缶350mlでは約3分間の所要時間で
氷点下(ー2℃~0℃)の温度帯に冷却される家庭用の機器もあるみたいです。
詳しい記事はこちらで
[サム]
2010年7月21日 09:00
漸う梅雨明け。早速猛暑到来、いよいよ夏本番です。
水と緑の癒し・・・水辺がもつ冷涼効果、街なかの樹木・草花・路地植物の蒸散作用・緑陰効果による体感的な冷涼環境が有難味を増します。
前回に引き続き、今回ご紹介するのは、街なかで見かけた″水のせせらぎ″第2弾。
水辺アメニティ。安らぎの空間です。 (左は浜町小便小僧)
<日本橋 滝の広場> <晴海トリトン> <マンダリン オリエンタル ホテル>
<箱崎公園> <坂本町公園> <あかつき公園>
<箱崎日本IBM> <築地新興ビルディング> <聖路加国際病院>
<佃公園①> <佃公園②> <佃リバーシティ>
<築地川公園> <勝鬨橋袂①> <勝鬨橋袂②>