[TAKK...]
2015年2月 2日 14:00
銀座ニューメルサが「ビル耐震改修工事のため、今月末の営業を最後に休業」ということを聞きつけ、「銀座 古川」へカレーを食べに行きました。
妻はカツカレー。
「特製チキンブイヨンをベースに32種類のスパイスが効いた欧風カレー。」だそうで、とてもコクがあり、酸味が感じられる奥深い味わいです。
私は海老フライとドライピラフクリームカレー添え。
まずは、カレーピラフにカレーをかけて食べるという、カレー好きにはたまらない夢の逸品です。
カレーピラフだけで食べても、完璧なおいしさ。
クリームカレーもその名のとおり、クリーミーで単体でも完璧においしいです。
「完璧においしいもの同士がであったら、どうなってしまうのか? よりおいしくなるのか? ケンカしてしまうのか?」
期待と不安が入り混じる気持ちで、カレーピラフにクリームカレーをかけます。
......、
当然、よりおいしくなります。
カレーにカレーを足しているようなものなのですが、不思議とマイルドになるのです。
エビフライも絶品です。
銀座ニューメルサも、「銀座 古川」も、これでお別れというわけではありません。
今秋、リニューアルオープンするということです。
新たなスタートに期待しましょう!
[りょうきち]
2015年2月 1日 20:00
東京マラソンに当たり、がんばって練習していたんですが、12月の後半くらいから体調を壊し思うように走れない日々が続きました。そんな感じで仕上がりが遅れていて心配です。
よく知っているコースですが、練習と試走を兼ねて適当につまみ食いしてみました。都庁、靖国通り、皇居と進み、品川方面に進まず、銀座方面へ。適当に休憩したくなったところで歌舞伎座に寄りました。
本来、階段を駆け上りたいところですが、エレベータに乗って庭園に。そういえば、最近は歌舞伎座の記事は一時ほどではなくなってしまっていますが、オープンの頃はたくさんの紹介記事がありました。そこで覚えていたのがこれです。
幸せの鳳凰です。瓦の鳳凰が並んでいますが、左の鳳凰だけ左の方を向いています。全体でここだけなんですよ。
私は鳳凰のように走れるよう祈願してその場を去りました。
考えると歌舞伎座周辺はレース本番では最も厳しい35km辺りでこんな気楽な気分では走り抜けられないことでしょう。でも東京マラソンのコースの中でも日本橋から銀座、築地と進む辺りは最も盛り上がっている地域でもあります。最も苦しいところを盛り上げてくれる辺りがこのマラソンの人気の秘密かもしれません。
私の練習はこの寄り道で気合いが抜けまして、築地の銭湯で終わりとなりました。このままではいけないですね。
2月22日までもっとがんばって鳳凰のように軽々と走り抜けたいと思います。
[与太朗]
2015年2月 1日 09:00
赤穂浪士が本所吉良邸に討入り、上野介の首級をあげたのは元禄15年12月15日の未明、西暦では1703年1月31日、312年前のちょうど今時分のことでした。この年はとりわけ寒気が厳しかったそうです。
ところで四十七士の中で首領大石内蔵助と並んで知名度No.1、人気投票・総選挙をすればトップ当選確実なのが堀部安兵衛武庸(たけつね)(1670-1703)。彼はご存知高田の馬場の決闘助太刀のヒーロー、赤穂事件でも仇討急進派として奮闘、死後は芝居・講談・映画の世界で生き続けます。最近も企業PRのテレビCMにタイムスリップして登場し、ビックリさせられました。
そんな彼の事績を刻した『堀部安兵衛武庸之碑』を当中央区、亀島橋西詰でご覧になった方も多いことでしょう。(八丁堀1-14) 昭和44年、八丁堀一丁目町会が建てたものだそうです。なぜここに建っているのでしょうか。碑には、「安兵衛が京橋水谷町の儒者細井次郎大夫家に居住したとあるので、どうやらそれが基のようです。八丁堀一丁目・二丁目には江戸時代、「水谷町」がありました。ただし「京橋水谷町」というのはそこではなく、現在の銀座一丁目にありましたが(水谷橋公園のあたり)、火事になり、享保4年(1719)八丁堀に移転になります。したがって安兵衛存命の元禄時代にはまだ八丁堀の水谷町はありませんでした。八丁堀一丁目町会の方々は水谷町の故地、京橋の水谷町に安兵衛が住んだことがあるということで(おそらくごく短期間だと思われますが) 建碑したのでしょうね。
堀部安兵衛というと「けんか安兵衛」とか大酒呑みのイメージがありますが、至極柔和で小児を可愛がり、言い尽くせないほど貞実な人物、とか、義父弥兵衛に血のつながりはないのに手蹟、物腰、志までよく似ている、とかの評が残されており、決して伝えられるような粗暴な若者ではなかったようです。(弥兵衛同様下戸だったという説もあります。) そんな人柄が周囲に愛されて人気者となり、後々の昭和の建碑にもなったのでしょうか。
さて、京橋水谷町に住んでいたと碑文にある細井次郎大夫(号は広沢)(1658-1735)ですが、儒学者、書家、篆刻家として歴史に名を留めていますが、その他天文・測量、剣術、柔術、弓術、馬術、軍学、鉄砲・火術、彫金、和歌、謡、能、俳句、等々 文武全般にわたり極意をきわめたスーパーマルチ人間でした。12歳年下の安兵衛とは剣術念流の堀内源左衛門道場で知り合い、以後変わらぬ深い親交が続きます。討入りに際しても徹底サポートで、堀部父子に討入りの趣意書「浅野内匠家来口上」の文案について意見を求められています。討入り当夜は深川八幡町の自宅の屋根に上り、本所吉良邸に(不首尾の場合の)火の手があがりはしないかと明け方まで起きていたそうです。義士切腹後には重要史料の「堀部武庸筆記」や安兵衛の遺品(籠手)などが広沢に託されました。
細井広沢一族の墓は世田谷等々力の満願寺にあります。(国指定史跡) 山門の扁額「致航山」は広沢の書、本堂の「満願寺」は子の書家九皐の書。この寺は世田谷吉良氏の開基、彼が支援した討入りの仇役上野介と同族なのは奇縁? です。勝海舟は晩年、江戸時代以降の傑出した人物の一人に細井広沢をあげ、「書に隠れたから人が知らない」と評し、書家としての名声のみ高くて人物が正しく評価されていないと、彼を高く評価しています。若い頃、日本橋馬喰町に住んでいたのは確かなようですから、区内に彼の顕彰碑も建つといいですね。
【蛇足】 細井広沢の屋敷が京橋水谷町にあったということ、また堀部安兵衛がそこに住んだということ、広沢の伝記、年譜や義士関係の書に見つけられませんでした。碑の文章を裏付けられるものをご存じの方、ご教示ください。
【写真上】 亀島橋西詰の『堀部安兵衛武庸之碑』
【写真下】 満願寺の細井広沢の墓