中央区観光協会オフィシャルブログ

中央区観光協会特派員ブログ

中央区観光協会実施の「中央区観光検定」に合格し、特派員登録をした観光ボランティアメンバーによる中央区の“旬な”情報をご紹介。

執筆者一覧

>>このブログについて

最近のブログ記事

成瀬己喜男監督映画「女が階段を上がるとき」

[CAM] 2015年6月 7日 18:00

 「女が階段を上る時」は昭和35年公開の作品です。我が国が戦後復興から高度成長の時代へと変貌し始めたころで、その頃、「バー」が全盛期を迎えようとしていました。題名にある高峰秀子演じる「女」は、夫を交通事故で亡くした30歳の未亡人で、銀座のバーで雇われマダムをしているという設定です。

 

 表通りから少し裏に入ったバー街が主たる舞台ですから、銀座の表通りなどの情景はあまり出てきませんが、高峰秀子と仲代達矢が三吉橋を渡るシーンがあります。三吉橋の向こうに見える橋は新富橋でしょうか。橋の下にはまだ築地川が流れています。

 

    この高峰秀子演じるヒロインの実家が佃島という設定です。体調を崩した「女」が実家で静養するという場面で、佃の家並み、佃の渡し舟風景、住吉神社の鳥居が登場します。その佃島の実家を見舞いに訪れたバー経営者細川ちか子は、「佃島なんてはじめて来たけど、このへんはなんだか昔の東京の名残りみたいなものがあるわね」と言っています。

 

 佃の渡しは、成瀬己喜男監督の「夜ごとの夢」(昭和8年)にも出てきます(You Tubeで見ることができます)。子供を抱えてカフェーで働くヒロイン栗島すみ子は佃島に住んでいるという設定で、戦前の佃島の情景を見ることができます。

 

    豊田四郎監督の「如何なる星の下に」(昭和37年)では、廃止直前の佃の渡し舟や埋立直前の築地川が頻繁に登場するそうですが、私は見ておりません。DVD化はされていないはずです。 著作権が消滅してYou Tubeで公開されていない限り、古い日本映画を見ることは難しいですね。

 

 

「幻の万国博覧会」

[CAM] 2015年6月 6日 09:00

 

 平成2741日から630日まで、「タイムドーム明石」で、「幻の万国博覧会」という記録映画が上映されています。

 

 昭和151940)年、月島4号埋立地(現在の中央区晴海)をメイン会場として日本初の万博(紀元2600年記念日本万国博覧会)が予定されていました。開催期間は315日~831日の170日間、想定観客数4500万人という大プロジェクトでした。

 

 しかし、この万博は戦争激化で開催直前に無期延期となったのです。

 

 本映画では、この行事に合わせて作られた勝鬨橋の建造中のようす、東京市庁舎を月島へ移転する計画なども紹介されています。築地ホテル館、銀座煉瓦街の建設なども描かれ、単なる"幻の万博"の資料紹介にとどまらず、幕末から明治・大正・昭和、そして今日にまで至る日本の近現代史を概観したものとなっています。

 

 この"幻の万博"については、サイデンステッカーさんが次のように簡明に述べています(『立ち上がる東京』:原書1990年)。

 

>博覧会の計画は、会場に予定していた隅田川の河口や横浜の海岸で地鎮祭を行うところまで進んでいたし、すでに入場券さえ売り出され、売れ行きも好調だった。隅田川のいちばん下流に架かる勝鬨橋が作られたのも、実は博覧会の準備の一環だったのである。使節団が海外に派遣され、宣伝も始めてもいた。ところが、オリンピックを辞退したのと同じ昭和13年、政府は博覧会も無期延期する方針を発表する。そこで東京市も、もっと安あがりな紀元2600年行事に切り替えた。市役所を、博覧会の会場に予定していた月島に移転する話も出たが、利権がからんでいるという報道があって沙汰やみになってしまった。(95

 

 

 

日本橋地区の地盤沈下と再興

[CAM] 2015年6月 4日 18:00

 

 近年の「日本橋」について、矢田区長は「日本橋から大企業の本社機能の転出が始まったのは昭和50年代前半のことである。流通機構の変化が叫ばれ、日本橋に集積していたさまざまな問屋に陰りが感じられるようになったのは50年代後半である。・・・・そして平成10年以降には、バブル経済の崩壊や金融再編の流れの中で日本銀行の周辺から地方銀行など金融機関が消えていった。・・・・・・このような変遷と・・・変化によって、いつのころか誰言うともなく『日本橋の地盤沈下』がささやかれるようになったのである」(「日本橋ルネッサンス」『日本橋トポグラフィ事典』2007年)と述べておられる。

 

 「日本橋は今日でも東京の、さらには日本全体の金融の中心と呼べるかもしれない。日本銀行も証券取引所も日本橋にある。けれども大企業は、ほとんど日本橋からほかの土地に出ていった。三井銀行や第一国立銀行も...本店はもう日本橋にはない」(サイデンステッカー『東京下町山の手』ちくま学芸文庫:261頁)

 

 

 「東京一極集中」の抗しがたい流れの中で、経済を含むすべての面で「地盤沈下」を余儀なくされ、本社機構の「東京への流出」が続いている「大阪市(中央区)」の出身者としては、上記のような状況には心から同憂の感を持ちます(なお、この間の『大阪市解体論』は、否決されてよかった、と私は考えています)。現在では、大手銀行、金融機関で大阪に本店を置く社は絶無になった。上記の矢田区長の文章など、「日本橋」の部分を「大阪市(中央区)」に入れ替えて、年代を少し変えると、そのまま通用します。

 

その東京日本橋地区ですが、最近はコレド日本橋、日本橋三井タワー等もできて、再興への動きが著しいですね。最大の象徴的事業は、日本橋をまたぎ、景観を破壊している高速道路の地中化でしょうが、なんとか実現させたいものです。

 

 

 

成瀬己喜男監督映画 「秋立ちぬ」

[CAM] 2015年6月 1日 18:00

 

「秋立ちぬ」は昭和35年の作品ですが、築地川周辺がロケ地になっています(作品は、You tubeで見ることができます)。

 

 父親が亡くなった後、母親(乙羽信子)に連れられて東京へ出てきた男の子のひと夏の物語です。冒頭で、母子は銀座4丁目交差点から、銀座通り、昭和通りを渡り、築地方面へ向かいます。もう交通量は相当のものです。二人は当時の「京橋小学校」を通りすぎ、築地川にかかる新富橋を渡ります。この京橋小学校は平成4年に築地小学校に統合され、校舎跡は、現在では「京橋プラザ」になっています。

 

 夏のある日、男の子(小学6年生)は、知り合いになった女の子といっしょに銀座へでかけ、松坂屋屋上に上ります。当時は、屋上から東京湾方面を見ることができたのですね。それからしばらくの後、二人はタクシーで、勝鬨橋を経て晴海の埋立地まで海を見に行きます。

 

 映画では、埋立て以前の築地川を見ることができますが、かなり水質汚染が進んでいたことは子供の会話でもわかります。 銀座も戦後しばらくまでは、東に築地川と三十間堀川、西に外濠川、南に汐留川(新橋川)、北に京橋川と四方を川に囲まれた「島」だったのですね。 戦後、昭和24年に戦災瓦礫によって三十間堀川が埋め立てられたのを最初として、次々に埋め立てられていき、三十間堀以外はすべて高速道路に変わってしまっています。 最後まで残ったのが築地川ですが、東京オリンピックの前に埋め立てられています

 

 当時の皇太子殿下(現在の今上陛下)のご成婚が昭和34年で、その頃からテレビが急速に普及しました。ミゼット(三輪車)が走っているのもなつかしい。日本経済もこの頃から本格的な高度成長期に入り、昭和39年のオリンピックに向けて、東京のインフラは大改造(少なくとも部分的には大改悪)されていくのですね。

 

 私は、当時は大阪市中央区(当時の南区、平成元年に東区と統合)にいましたが、船場、島之内を囲んでいた川をはじめとする市内の相当部分の河川が埋め立てられました。それはやはり昭和35年頃から始まっています。