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2015年11月12日 18:00
(少し、ブログの主題からは外れるかもしれませんが)
特派員交流オフ会の案内をいただきました。
開催場所が銀座の某居酒屋ですが、日時が土曜日の昼になっているので、
最近の世間の情勢に疎くなっている老人としては「?」と思っていました。
ところが、今日の日経新聞で、下記の記事を発見、納得しました。
>居酒屋、お昼に行こう―シニア・親子連れが楽しむ(トレンドサーチ)
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2015/11/10 日本経済新聞 朝刊 15ページ 782文字
・・・・・・・「かんぱ~い」。祝日の昼、東京都渋谷区の居酒屋「北の味紀行と地酒 北海道 恵比寿ガーデンプレイス店」で声が響いた。学生時代のサークル仲間25人が集まった宴会だ。席の脇にはベビーカーが並び、子どもたちが大人に交じりジュースを飲む。幹事の男性(41)は「夜の宴会に子連れで来てもらうのは難しいから昼にした。ただ、この人数を受け入れてくれる場所は少なく、ここを見つけた」と話す。 北海道各店では午前11時から午後5時まで「昼宴」メニューを用意する。通常2時間1200円の飲み放題メニューが無料。「シニアや昼の宴会需要をとりこみたい」(運営するコロワイド)・・・・・
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2015年11月12日 14:00
あまり見たことがないTVチャンネルなのですが、「BS11」の「古地図で謎解き!」「家康が描いた商業都市東京の原点がそこに・・・・尾上松也が日本橋を探訪」という番組(毎週火曜日夜8:00~8:54)が目にとまって、見てみました(11月10日)。
1時間弱の番組ですから、それほど深い切込みがあるわけではないものの、古地図を挙げながら、映像で平易に説明される有益な番組でした。
「各都市の古い地図をもとにしてその土地を探るところが、普通の歴史探索番組とひと味違うみどころです。年代ごとに異なる地図と現在の実際の場所と見比べ、変化を想像しながら歴史をひも解いていきます。」ということです。
今日(11月10日)は、日本橋河岸と徳川家康との関係、その関連として佃島の由来が説明され、日本橋の老舗店として「弁松」、「伊場仙」、「小津屋(小津和紙)」等が登場していました。
次回のテーマは「築地・時代と共に歴史を築いた町」ということです。
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2015年11月11日 08:00
「鎧橋」際の掲示板には、谷崎潤一郎の『幼少時代』が引用されています。この引用された部分の前後で周辺の風景がよく描写されていると思うので、挙げておきます。
鎧橋は、その頃市中にそう多くはない鉄橋の一つで、まだ新大橋や永代橋などは古い木橋のままであったように思う。私は往き復りに橋の途中で立ち止まって、日本橋川の水の流れを眺めるのが常であったが、鉄の欄干に顔を押しつけて橋の下に現れて来る水の面を視詰めていると、水が流れて行くのでなく、橋が動いていくように見えた。私はまた、茅場町の方から渡って、上流の兜町の岸にある渋沢邸のお伽噺のような建物を、いつも不思議な心持で飽かず見入ったものであった。今はあすこに日証ビルディングが建っているが、もとはあの川の縁の出っ鼻に、ぴったりと石崖に接して、ヴェニス風の廊や柱のあるゴシック式の殿堂が水に臨んで建っていた。明治中期の東京のまん中に、ああいう異国の古典趣味の邸宅を築いたのは誰の思いつきだったのであろうか。対岸の小網町河岸には土蔵の白壁が幾棟となく並んでい、あの出っ鼻をちょっと曲れば直ぐ江戸橋や日本橋であるのに、あの一廓だけが石板刷の西洋風景画のように日本離れのした空気をただよわしていた。だがそれでいて、周囲の水だの街だのと必ずしも不釣合ではなく、前の流れを往き来する荷足船や伝馬船や達磨船などが、ゴンドラと同じように調和していたのは妙であった。(73)
鎧橋は明治5年(1872)年に架橋。明治21年(1888)には鉄骨製のトラス橋に架け替えられ、昭和32年(1957)に現在の橋に架け替えられた(ものしり百科;26頁)。
谷崎潤一郎は、明治19年(1886)7月24日 -昭和40年 (1965)7月30日。 「幼少時代」の筆を執ったのは、昭和30年(1955)、数え年70歳のときであった。
日本橋川の船上から見た鎧橋
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2015年11月10日 12:00
「まるごとミュージアム」で、外堀通りと昭和通りにおいて、銀座7~8丁目で交差する花椿通りを少し探査しました。この近辺には資生堂関係のビルがいくつかあります。
銀座7丁目の本社ビルです。神主さんが集まってなにやら儀式を行っていました。11月1~3日に行われる「銀座八丁神社めぐり」で、屋上に鎮座する「成功稲荷神社」(ものしり百科;53頁)を公開する準備ではないかと推測しました。
近辺には、「すし椿」という店もありますが、「おまかせ18,000円より」となっています。「椿と名のつく店、どれでも好き」の私ではありますが、まだ、入ったことはありません。
椿屋珈琲店なら、何度も利用しています。レトロな雰囲気です。
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2015年11月10日 12:00
いよいよ、明日(11月1日)は、「まるごとミュージアム2015」の開催日です。今日(10月31日・土曜日)は朝から曇り空で雨が降りそうな雰囲気なのですが、明日のコースを、もう一度自転車で回って見ました。
以下では、「晴海エリア」の情報を少し増補します。
勝鬨橋方面から来る晴海通りと、晴海1~2丁目方面から来る通りが交差する地点、元のホテル浦島の前の道路標示(下記)にあるように、勝鬨橋から直進する道路は、ここから「有明通り」となります。
有明通りの少し先には、晴海大橋があります。晴海大橋は、東京都中央区晴海と江東区豊洲を結ぶ道路橋で、橋長は580m、最頂地点での晴海運河水面までの高さは24.2m、2006年3月25日に完成しました。
中央清掃工場、ほっとプラザはるみを右に見ながら、月島警察署新庁舎を過ぎて晴海通りをさらに進みと、晴海ターミナルに着きます。
晴海ターミナル横から、レインボーブリッジを臨む。
オリンピック選手村予定地です。
帰路。勝鬨橋へ向かう晴海通り、黎明橋の右に「晴海トリトンスクエァ」がありますが、黎明橋の横に朝潮運河を渡る屋根付きのトリトンブリッジが架かっています。
「まるごとミュージアム」では、「晴海トリトンスクエァ」は「インフォメーション&抽選会場」となるとともに、「わくわく・すいすい『水辺探検』」「フラワーカーペット晴海2015」の会場にもなっていました。
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2015年11月 8日 09:00
昭和5年(1930)に建てられた旧三菱倉庫江戸橋倉庫は、事務所機能を備えた都市型倉庫であった。 新ビルは、水辺に浮かぶ船を思わせる外観になっており、都選定歴史的建造物である。(ものしり百科;151頁)
外から見ると、地上5階までの、石造りでいかにもクラシカルなデザインの部分が残された一部であることがわかる。新しい建物は、古い建物の上に載っているのではなく、古い建物の内側に建っており、古い建物は、外壁の7割など外側の一部だけが残されているそうである。
三菱グループの創業者・岩崎弥太郎がこの地に倉庫を構えたのは明治9年。以来、この場所は三菱の倉庫として使われてきた。美術品や着物を預かることもあり、歌舞伎役者が、ここで着替えてから東銀座の歌舞伎座へ出かけたというようなこともあったという。
工事は、古い建物の地下をくりぬくところから始まった。そして、基礎固めのために地下に埋められていた松杭を引き抜いた。その数、約1500本。埋まっていた数の合計はもっと多くて約4000本だという。敷地面積は約2900平方メートルだから、1平方メートルに1本以上は松杭が打たれていたことになる。そして、抜いた松杭の代わりに現代的な杭を打って基礎を補強してから、残す部分以外を解体し、新しい建物の建設を始めたそうである。
(以上は、東洋経済オンライン「成毛真の技術探検」に拠った。)
日本橋川から見た日本橋ダイヤビルディング