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2015年11月21日 18:00
女子学院発祥の地(明石町10)
「ジュリア・カロゾルスが1870年、
築地居留地6番にA 六番女学校を創設、
米国長老教会に所属した。
1999年10月24日 学校法人 女子学院 」
立教学院発祥の地(明石町10)
「1874C.M.ウィリアムズ主教立教学校を開く
すべての人に仕える者になりなさい聖マルコによる福音書 第9章35節
創立125年を記念してこの碑を建立する
1999年12月2日 ウィリアムズ主教記念日
立教学院 」
蘭学事始地碑(明石町11先)
「明和8年(1771)、豊前国(大分県)中津藩医の前野良沢が杉田玄白らと共に、オランダ解剖書「ターヘル・アナトミア」を築地鉄砲洲にあった中津藩奥平家下屋敷内(のちの明石町の地)で翻訳し「解体新書」が完成しました。
当時の翻訳の様子は、玄白の著書「蘭学事始」に記されており、この地は近代医学発祥の基礎を築いた場所といえます。
中央区教育委員会 」
慶應義塾発祥の地(明石町11先)
「安政5年福沢諭吉この地に学塾を開く。
創立百年を記念して昭和33年慶応義塾これを建つ
慶応義塾の起源は1858年福沢諭吉が中津藩奥平家の中屋敷に開いた蘭学の家塾に由来する。その場所はこれより北東聖路加国際病院の構内に当たる。この地はまた1771年中津藩の医師前野良沢などがオランダ解剖書を初めて読んだ由緒あるところで、日本近代文化発祥の地として記念すべき場所である。
1958年4月23日除幕」
聖路加国際病院(聖ルカ礼拝堂とトイスラー記念館)
「昭和8年、トイスラー記念館は隅田川畔の明石町19番地に聖路加国際病院の宣教師館 として建設されました。
設計者は米国人建築家のJ・V・W・バーガミニィーで、施行は清水組(現在の清水建 設株式会社)が行いました。建物の躯体は、昭和初期の住宅建築には珍しい鉄筋コンクリ ート造り一部木造の二階建てで、ヨーロッパの山荘を思わせる重厚な風格のある建物でし た。
平成元年に解体工事が行われ、平成10年2月に現在地へと移築復元されました。復元に あたり、創建当時の施工技術や構造上の特徴を精密に記録し、再利用可能な部材をできる 限り用いています。
外観は、外部に柱や梁を表現したハーフティンバー風の意匠です。室内はチューダー ゴシック風のデザインで、玄関ホールやリビングなどに重厚な木の内装がみられます。
この建物は、聖路加国際病院の歴史を物語るとともに、築地居留地時代から引き継がれ てきた明石町の歴史の一端を伝える貴重な文化財です。
平成18年3月 中央区教育委員会 」
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2015年11月21日 14:00
「ものしり百科」「第1章 中央区を歩く」を少しずつ踏破し、記録に残していきたいと思い立ちました。
とりあえずは、勝手知ったる「新富・明石町」からスタート。今日は3時半ごろ出発したものの、秋の夕暮れは早く、後半はもう日も落ちてきました。 また、写真、碑文の整理はかなり時間を食い、清貧老人の暇つぶしとはいえ、いつまで続くかおぼつかなく感じられますが、とりあえずは第1回。
いまさら新しい情報を提供できるわけではないことは言うまでもありませんが、ものしり百科も全ての地点の写真を掲載しているわけではないので、原則として全ての地点の現況を伝えると言う意味はあるかもしれません。なお、中央区教育委員会は、掲示板を英文を併記したものに取り換えつつあるようですが、下記には、一部以前のままのものもあります。悪しからず。
新富座跡(新富2―6-1)
「新富座は万治3年(1660)木挽町5丁目(現在の銀座6丁目、昭和通り西側)に創建された「森田座」を引き継ぐ歌舞伎の劇場でした。
森田座は代々森田勘弥(かんや)が座元で、天保14年(1843)浅草猿若町(現在の台東区浅草)に移り、安政5年(1858)に「守田座」と改めました。明5年(1872)には、守田座十二代勘弥が新富町に移転進出し、同8年(1875)に「新富座」と改称しました。
新富座は市川団十郎・尾上菊五郎・市川左団次などの名優を集めて積極的な興行を行いました。劇場は近代的な様式を取り入れた大規模な建物で「東京第一の劇場」と称され、周辺には歌舞伎関係者が多く居住し、一帯は芝居町となっていました。
明治22年(1889)に歌舞伎座が開場するまで芝居興行の中心的存在でしたが、大正12年(1923)の関東大震災で焼失しました。
明治期の錦絵には海鼠壁(なまこかべ)の上に絵看板を並べた大劇場の様子が見え、往時の繁栄ぶりがうかがえます。
平成16年3月
中央区教育委員会 」
靴業発祥の地(入船3-2-10)
「明治3年(1870)3月15日 西村勝三が 伊勢勝・造靴場を創建したのは 旧築地入船町5丁目1番のこの地であった。勝三は 佐倉藩の開明進取の風土に育ち 時の兵部大輔 大村益次郎の勧めと, 藩主堀田正倫 並びに渋澤栄一の支援を得て 靴工業を創成し これを大成した。斯くてこの地は 日本に於ける製靴産業の原点であるので こゝに建碑事績を記す
昭和60年(1985)3月15日
日本靴連盟 」
浅野内匠頭屋敷跡(明石町10・11地域一帯)
「常陸笠間(茨城県笠間市)藩主浅野長直(1610~72)は、正保2年(1645)、播磨赤穂(兵庫県赤穂市)に領地替えとなり、5万3,500石を領して内匠頭と称しました。子の長友の代に分与して5万石となります。
ここから北西の聖路加国際病院と河岸地を含む一帯8,900余坪の地は、赤穂藩主浅野家の江戸上屋敷があった所で、西南二面は築地川に面していました。
忠臣蔵で名高い浅野内匠頭長矩(1665~1701)は、長友の子で、元禄14年(1701)、勅使の接待役に推されましたが、3月14日、その指南役であった吉良義央を江戸城中で刃傷に及び、即日、切腹を命ぜられました。この江戸屋敷および領地などは取り上げられ、赤穂藩主浅野家は断絶しました。
平成7年3月
中央区教育委員会」
芥川龍之介生誕の地(明石町10)
「明治16年(1883)ごろ、この付近(当時の京橋区入舟町8丁目1)に「耕牧舎」という乳牛の牧場がありました。作家芥川龍之介(1892~1927)は、明治25年3月1日、その経営者新原敏三の長男として、ここに生まれました。
龍之介は誕生後七ヶ月にして、家庭の事情から母の長兄芥川道章に引き取られて、本所区小泉町(現、墨田区両国3丁目)に移り、12歳の時、芥川家の養子になりました。
東京帝国大学在学中から文筆に親しみ、夏目漱石の門に入り、『地獄変』、『羅生門』、『河童』、『或阿呆の一生』など、多くの名作を遺しましたが、昭和2年7月24日、35歳で自害しています。
平成8年3月
中央区教育委員会 」
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2015年11月20日 12:00
先に、池田弥三郎氏の著書『日本橋私記』から、「歴史的には、江戸っ子とは、もし、将軍のおひざもとの江戸の町の出生者ということになれば、今の中央区の、旧日本橋、京橋区内の人々が、その中心をなしていて、ごく古くは、神田も芝も、江戸ではなかった。もちろん、浅草も江戸の外だ。しかし、時代とともに、芝で生まれて神田で育った者も、江戸っ子となって来たし、川向うの本所深川も、江戸の中にはいってきた。」(88)という主張を引用、紹介した。
これは、「もともと」という意味であって、「江戸」の範囲はどこまでであったか、ということを明確に定義することはかなり難しい。少なくとも時点の特定が必要であろう。例えば、いわゆる「朱引」というものが行われたのは1818(文政元)年であるから、家康入府以来200年以上も経過した後のことであった。
雑誌『東京人』(都市出版)の2015年5月号が「『東京35区』の境界線を歩く」という特集を組んでいる。この中で、「石原たきび」という方が「江戸の町割りからはじまる、東京23区の成り立ち」という記事を執筆されている。簡明にまとめられているので、この内容を紹介しておきたい。
豊臣秀吉から関東地方開拓の命を受けた徳川家康が、江戸城に入城したのが1590(天正18)年。1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いで全国制覇を果たすと、地方の寒村に過ぎなかった江戸は幕府の所在地として急速に発展する。
江戸の範囲は明確に決まっていなかったが、1818(文政元)年に幕府の正式見解が示される。これはおもに寺社奉行の管轄範囲を指し、地図上に朱色の線で囲んだことから「朱引」と呼ばれた。また、その内側には町奉行の管轄下とされるエリアが黒線で囲まれ、こちらは「墨引」という。
江戸市中(御府内)とされる朱引内のエリアは、現在の千代田区、中央区、新宿区、文京区、台東区、墨田区、江東区、渋谷区、豊島区、荒川区のほぼ全域と、品川区、目黒区、北区、板橋区の一部。山手線エリアの約二倍の面積である。
1878(明治11)年には「郡区町村制」が施行。東京府15区が制定された。その内訳は、麹町区、京橋区、芝区、麻布区、赤坂区、四谷区、牛込区、小石川区、本郷区、下谷区、浅草区、本所区、深川区である。
やがて、昭和になると東京市部は「35区」時代に突入する。1932(昭和7)年に周辺の5郡82町村(荏原郡、奥多摩郡、北豊島郡、南足立郡、南葛飾郡の各全域)を編入し、新たに20区を制定。それまでの15区とあわせて35区となった。さらに、1936(昭和11)年には、北多摩郡の千歳村と砧村を新市域の一つである世田谷区に編入。このエリアは、現在の東京23区にほぼ相当する。
その後、1947(昭和22)年3月には、戦災復興の中で35区は22区に整理統合され、さらに同年8月、板橋区から練馬区が分離して23区となった。
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2015年11月18日 20:00
先の小津監督作品「秋刀魚の味」の紹介で、森永の地球儀ネオンが1ショットだけ映されて、その場所が銀座近辺であることを示していると述べましたが、このネオン塔が姿を消したのは昭和58年(1983)のようですね。
銀座といえば映画に必ず登場したのが服部時計店(和光)の時計塔かこの森永地球儀ネオンでした。時計塔はいまだに頑張っているのですが、森永の地球儀ネオンは老朽化のため解体され姿を消してから30年以上も経っているのですから、現在30歳以下の人は目にしたこともないでしょう。
(wikipediaからコピー、public domain 確認済)
「精工舎・服部時計店」のサイトで、この森永広告塔や服部時計店時計塔が写った昭和30年代の絵葉書などが紹介されています。
http://www.kodokei.com/ch_013_d.html
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2015年11月18日 09:00
11月15日(日)、「日本橋まち歩きー近代建築物を訪ねてー」に参加してきました。朝方は小雨まじりの天候でしたが、有益な見学でした。
(1) 日本橋野村ビルディング
(2) 旧三菱倉庫江戸橋倉庫ビル
(3)日証館
休日にもかかわらず、内部に入れていただき、家主である平和不動産の方から説明を受けました。
正面に向かって左隣りには、兜神社が。
(4) 山二証券株式会社
(5)フィリップ証券
近くには、「銀行発祥の地」という表示が。
「海運橋親柱」もすぐ近くです。
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2015年11月17日 20:00
11月15日(日)の日経新聞「美の美」は「小林清親(きよちか)」の特集。「激動をみつめて・上」とあるから、2週にわたって特集されるよう。
本日の紙面では、「陰影豊かな表現で浮世絵版画に新時代を開いた小林清親(1847~1915年)の東京名所図には、謎めいた絵が多い。文明開化の街に注ぐ清親のまなざしには、他の絵師にはみられない際だった個性があった」として、「海運橋第一銀行雪中」「駿河町雪」「日本橋夜」「東京新大橋雨中図」などを紹介している。
サイデンステッカー氏が「東京下町山の手(LOW CITY, HIGH CITY)」で小林清親の絵をかなり多く紹介しているので、自分にとっては親しく感じる上に、本日(11月15日)、「近代建築を訪ねて」で、海運橋近くを探索しただけに、特に親しく感じられた。
来週はどのような絵が紹介されるのか楽しみ。