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2016年1月16日 09:00
現在の霊岸島水位観測所
日本の水準原点を生んだ霊岸島水位観測所も、その後の東京湾の埋立てや隅田川の河川水の影響があり、水準原点の検証をするための観測所としては、理想的な位置とは言えなくなり、現在では神奈川県三浦半島油壺の観測所にその機能が移されています。
現在の霊岸島水位観測所は、荒川水系の工事実施基本計画や改修計画の策定及び改訂のための基礎データの観測を続けていますが、隅田川のテラス護岸の施行に伴い平成6年5月に元の位置から約36m下流に観測所を移設しました。
元の観測所の位置には、その歴史的経緯を長く後世に伝えるため、観測柱を正面にシンボル柱として設置しました。また、新しい観測所の3角形のフレームは、土木や建築の設計図などに高さを表す記号として用いられる▽をイメージし、その下端部はA.P.0mを指し、その一辺の長さは観測所位置のある東経139°47'にちなみ13.947mとしています。
観測室については、斜方十二面体という形で立方体それぞれの面に勾配45°の四角錐を付加したような形をしていて、川に沿って視点を移動していくと正方形、正六角形、八角形と変化して見えるものです。
南高橋(みなみたかばし)
所在地 中央区新川二丁目~湊一丁目(亀島川)
創架年代は、昭和六年(一九三一)に起工、同七年三月に竣工。
現在の南高橋の地には江戸時代には木橋は架橋されておらず、亀島川上流に高橋があったのみでした。大正十二年(一九二三)の関東大震災ののち、街路の大規模な区画整備が行われた時に当時の本湊町と対岸の越前堀一丁目との間の亀島川に新しく橋を架けることになりました。
東京市は、多くの橋を改架したため、予算も乏しくなりました。そのため明治三十七年(一九〇四)に改架され、大震災で損害を受けた隅田川の両国橋の三連トラスの中央部分を補強し、橋幅を狭めて南高橋として架設したのです。
都内において、珍しくも明治三十七年のトラス橋の一部が現在に残ることとなり、その意味でも近代の土木遺産として貴重です。都内に残る鋼鉄トラス橋としては江東区に移転した八幡橋(旧弾正橋)についで二番目に古く、車両通行可能な鋼鉄トラス橋としては全国で六番目に古い橋梁になります。区民有形文化財に登録されています。
平成十四年三月
中央区教育委員会
鉄砲洲稲荷神社
桜川公園と八丁堀跡説明版
江戸時代初期、京橋川の下流から隅田川へと流れ込む通船のための水路が開削され、この堀割を「八丁堀」と称していました。
八丁堀の開削年や名称の由来には諸説がありますが、『京橋区史』には、「南八丁堀一丁目と本八丁堀一丁目の間より東流し、桜橋、中ノ橋、稲荷橋を過ぎ亀島川に会いして海の入る。慶長17年(1612)に漕運の利を謀りこれを鑿つ、当時海口より凡そ八丁(約870m)なるを以ってこの名あり」と書かれています。
なお、地域名としての八丁堀は、堀を境に北側の一帯を本八丁堀(北八丁堀)、南側の河岸地一帯を南八丁堀と称し、広範囲にわたっていました。
通船堀としての八丁堀は、明治になって「桜川」と改称され、関東大震災後の復興事業を経て新桜橋・桜橋・中ノ橋・八丁堀橋・稲荷橋が架けられました。
昭和35年から昭和41年頃には、中ノ橋から稲荷橋までを残して桜川の上流が埋め立てられ、その後、桜川は完全に埋め立てられました。
埋立地の一部は、桜川公園として整備され、この辺りに堀割があったことをしのばせています。
八丁堀の与力・同心組屋敷跡(バックは京華スクェア)
所在地 中央区八丁堀一~二丁目
日本橋茅場町一~三丁目の一帯
江戸初期に埋め立てられた八丁堀の地は、はじめは寺町でした。寛永十二年(一六三五)に江戸城下の拡張計画が行われ、玉円寺だけを残して多くの寺は郊外に移転し、そこに与力・同心組屋敷の町が成立しました。その範囲は茅場町から八丁堀の一帯に集中しています。
八丁堀といえば捕物帳で有名な「八丁堀の旦那」と呼ばれた、江戸町奉行配下の与力・同心の町でした。与力は徳川家の直臣で、同心はその配下の侍衆です。着流しに羽織姿で懐手、帯に差した十手の朱房もいきな庶民の味方として人々の信頼を得ていました。
初期には江戸町奉行板倉勝重の配下として与力一〇人、同心五〇人から始まってのち、南北両町奉行が成立すると与力五〇人、同心二八〇人と増加し、両町奉行所に分かれて勤務していました。与力は知行二〇〇石、屋敷は三〇〇~五〇〇坪、同心は三〇俵二人扶持で、一〇〇坪ほどの屋敷地でした。
これらの与力・同心たちが江戸の治安に活躍したのですが、生活費を得るため町民に屋敷地を貸す者も多く、与力で歌人の加藤枝直・千蔭父子や医者で歌人の井上文雄などの文化人や学者を輩出した町としても知られています。
平成十三年三月
中央区教育委員会
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2016年1月15日 12:00
永代橋
永代橋は、元禄11年(1698年)に隅田川の第四番目の橋として、現在の永代橋の場所より上流約150mに架けられていました。当時、橋の左岸を永代島と呼んでいたことから「永代橋」と名付けられましたが、一説には5代将軍徳川綱吉の50歳を迎えた記念として、その名を付けられたとも伝えられています。当時諸国の廻船が航行していたため、橋桁をを十分高く取ったので、「西に富士、北に筑波、南に箱根、東に安房上総、限りなく見え渡り眺望よし」といわれる程の橋上からの景観でした。
永代橋が現在の場所に移されたのは明治30年(1897年)のことで、わが国の道路橋としては初めての鉄橋に生まれかわりました。その後、関東大震災で大破し、大正15年(1926年)12月に現在の橋に架替えられました。その姿は、上流の清洲橋の女性的で優美な雰囲気とは対照的に、男性的で重量感にあふれており、隅田川の流れとともに広く都民に親しまれています。
新川の跡
所在地 中央区新川一町目地域
新川は、現在の新川一町目三番から四番の間で亀島川から分岐し、この碑の付近で隅田川に合流する運河でした。規模は延長約五百九十メートル、川幅は約十一メートルから約十六メートルと、狭いところと広いところがあり、西から一の橋、二の橋、三の橋の三つの橋が架かっていました。
この新川は、豪商川村瑞賢が諸国から船で江戸へと運ばれる物資の陸揚げの便宜を図るため、万治三年(一六六〇)に開削したといわれ、一の橋の北詰には瑞賢が屋敷を構えていたと伝えられています。当時、この一帯は数多くの酒問屋が軒を連ね、河岸にたち並ぶ酒蔵の風景は、数多くの挿絵や浮世絵などにも描かれました。
昭和二十三年、新川は埋め立てられましたが、瑞賢の功績を後世に伝えるため、昭和二十八年に新川史跡保存会によって、「新川の碑」が建立されました。
平成六年三月
中央区教育委員会
新川公園
於岩(おいわ)稲荷田宮神社の鳥居・百度石
所在地 中央区新川二ー二十五ー十一
於岩稲荷田宮神社は、四代目鶴屋南北の戯曲で、文政八年(一八二五)に初演された「東海道四谷怪談」の主人公、お岩の伝承を持つ神社です。社地は歌舞伎俳優の初代市川左団次の所有地であったと伝えられ、花柳界や歌舞伎関係などの人々の参詣で賑わいました。
境内の本殿横にある石造の鳥居は明治三十年(一八九七)一月に造立されました。花崗岩製のこの鳥居は、中央区に現存する中では二番目に古い鳥居です。鳥居の形式は「神明鳥居」に属し、柱下部には断面が花形の根巻と四角い台座が付いています。
鳥居の奥にある百度石は民間信仰である「お百度参り」のための石塔です。中央区内に現存する百度石のうちでは最古のものです。左側面には「大阪浪花座興行記念 四代目市川右団次」と刻しており、市川右団次がお岩の上演を記念して奉納したものです。戦前・戦後を経て、現在もこの百度石でお百度参りを祈願する人も少なくなく、庶民の信仰とともに生きています。
鳥居・百度石は共に中央区民有形文化財に登録されています。
平成十一年三月
中央区教育委員会
中央大橋上の「メッセンジャー像」
両都市と両河川をつなぐ有効を記念して、パリ市は東京都へオシップ・ザッキン作「メッセンジャー」を寄贈する。
1992年10月27日 東京にて ジャック・シラク
「メッセンジャー」(Le messeger)
本作品は、1937年オシップ・ザッキン(Ossip ZADKINE)47才の時の作品である。
この都市に開かれた「パリ万国博覧会」に出品された作品であり、オシップ・ザッキンの作品の中でも大作の一つのに数えられている。
当時の万国博覧会の案内書によるとこの作品は「希少木材を求めて海外に船を派遣するフランスの守護神を表したもの」とされている。
「メッセンジャー」は、パリ市の徽章にも描かれている帆船を思わせる船を描いている。
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2016年1月14日 12:00
堀部安兵衛武庸之碑
越後新発田五萬石溝口藩中山弥次右衛門の子寛文十一年生れ元禄元年江戸之念汽堀内道場へ入門元禄四年玉木一刀斎道場師範元禄七年二月高田の馬場に於て叔父菅野六郎左右衛門之仇討其の後も京橋水谷町儒学者細井次郎大夫家に居住浅野家臣堀部家の妙と結婚堀部安兵衛武庸となる禄高二百石元禄十四年十月本所林町に於て長江左衛門の名で剣道指南元禄十五年十二月十四日赤穂義士の一人として吉良邸に乱入仇討す元禄十六年二月四日歿三十四歳
法名 刀雲輝剣信士
(裏面)
昭和四十四年八月建之
中央区八町堀一町目町會建内
代表者 奥山 喬一
亀島川と亀島橋
霊岸橋
河村瑞賢屋敷跡
所在地 新川一丁目八番地域
江戸時代、この地域には幕府の御用商人として活躍していた河村瑞賢(一六一八~一六九九)の屋敷がありました。
瑞賢(瑞軒・随見とも書く)は、伊勢国の農家に生まれ、江戸に出て材木商人となりました。明暦三年(一六五七)の江戸大火の際には、木曽の材木を買い占めて財をなし、その後も幕府や諸大名の土木建築を請負い莫大な資産を築きました。また、その財力を基に海運や治水など多くの事業を行いました。
瑞賢の業績の中でもとくに重要なのは、奥州や出羽の幕府米を江戸へ廻漕する廻米航路を開拓して輸送経費・期間の削減に成功したことや、淀川をはじめとする諸川を修治して畿内の治水に尽力したことがあげられます。晩年にはその功績により旗本に列せられました。
斎藤月岑(げっしん)の『武江年表』によると、瑞賢は貞享年間(一六八四~一六八八)頃に南新堀一丁目(当該地域)に移り住み、屋敷は瓦葺の土蔵造りで、塩町(現在の新川一丁目二十三番地地域)に入る南角から霊岸島半丁一円を占めていたと記されています。表門は今の永代通りに、裏門はかつて新川一丁目七番・九番付近を流れていた新川に面し、日本橋川の河岸には土蔵四棟があり、広壮な屋敷を構えていたようです。
『御府内沿革図書』延宝年間(一六七三~一六八一)の霊岸島地図を見ると、瑞賢が開削したとされる堀割に新川が流れ、その事業の一端を知ることができます。
平成十五年三月
中央区教育委員会
船員教育発祥の地
政府の自主的な海運政策を進めるにあたり、船員教育の急務を提唱し、三菱会社長岩崎彌太郎に命じて、明治八年十一月この地に商船学校を開設させた。当初の教育は、その頃隅田川口であり、海上交通の要衝でもあった永代橋下流の水域に、成妙丸を繋留して校舎とし全員を船内に起居させて行われたが、これが近代的船員教育の嚆矢となった。
爾来百年、ここに端を発した商船教育の成果は、我が国近代化の礎となった海運の発展に大きく貢献してきたが、その歴史的使命は幾変遷をへた今日、江東区越中島にある現東京商船大学に継承せられている。
昭和五十年十一月
東京都中央区教育委員会
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2016年1月12日 20:00
本日(1月9日)の日経新聞朝刊地方経済面で、築地市場の跡地利用案について、「水の都へ名所づくり 都が改造計画、築地、大型船も接岸/豊洲、遊歩道を整備」という記事が出ていますね。2020年のオリンピックに向けて、そしてさらにその後、特に築地、晴海地域は大きく変貌しそうです。
上記記事では、次のように述べられています。
東京都は川や海などの水辺に観光客らが利用できる親水拠点を整備する。築地の隅田川沿いには2024年までに船着き場やテラスを設置する計画だ。両国にも小型船用の船着き場を新設し、舟運の利用促進につなげる。急増する訪日外国人観光客らに「水の都」としての魅力を発信する狙いだ。
都は11月に移転する築地市場の隅田川沿いの荷揚げ用桟橋を解体し、船着き場を新設する。大型観光船が利用できるターミナルを想定。カフェなどが出店できるテラスも設置する方針だ。
都は築地エリアを「隅田川の玄関口」と位置付けている。東京スカイツリー(東京・墨田)などの観光スポットと、20年の東京五輪に向けて開発が進む臨海部をつなぐ舟運ルートの整備に力を入れる考えだ。
・・・・・・・
都は築地と両国のほか、浅草と佃・越中島エリアを水辺のにぎわい創出拠点に選定している。これまで法改正によって河川敷にオープンカフェが設置できるようになったほか、イベントなどを開いて集客している。
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2016年1月 9日 18:00
新橋演舞場(撮影は1月5日16:00ごろ)
(松竹サイトから) 新橋演舞場の新築開場は大正14年4月のことでした。京都や大阪には立派な演舞場や歌舞練場があるのに、東京にないというのは残念だという川村徳太郎(芸者屋屋号森川家)の発案で、五業組合の協賛のもとに資本金200万円の新橋演舞場株式会社を設立したのが起源といいます。
新橋演舞場が建てられたのは、当時の東京市京橋区木挽町10丁目14番地(のちの6丁目9番地、そして現在の中央区銀座6丁目18番2号)で、この場所は、偶然にも芝居狂言「加賀見山旧錦絵」のお初が、主人尾上の敵である岩藤を討った松平周防守の下屋敷跡でした。
建設以前は、狭い川に面した荒れ果てた空き地で、草木もうっそうと茂り、夜は道行く人も珍しい実に不気味なところだったといいます。そこに定員1,679人の三階建ての立派な劇場が建てられたのです。
多くの優れた専門家が結集し大正12年に着工。その途中で関東大震災に遭い、一時工事を中止するハプニングもありましたが、20ヶ月にわたる全工事を完了し開場にこぎつけました。当初目的だった新橋芸者の技芸向上を披露する場として春秋二季に「東をどり」を主に公演。昭和15年新橋演舞場は松竹株式会社と興行契約を結び、松竹が興行面を受け持って松竹傘下の主要劇場となりました。そして長い歴史の中で観客に親しまれながら、歌舞伎、新派、新喜劇、新国劇、前進座を演舞場のカラーとして定着させていったのです。
第二次世界大戦では空襲のため、外周りを残して焼失。昭和23年に復興されましたが、終戦直後の再建のため、舞台の規模を生かす舞台機構や諸設備が新しい時代の要請や消防法などにこたえられなくなりました。
そこで昭和57年に新装されたのが、日産自動車本社ビルと複合した現在の演舞場です。新装には最新システムの導入だけでなく、ゆとりある客席空間、正面玄関のレンガなど、旧演舞場設計の精神が大切に受け継がれています。
東京商工会議所発祥の地
明治維新の国是をふまえ 欧米諸国の制度文物を採り入れ 時の産業界の指導者が相携えて 明治11年3月12日 商工業発展のための総合的団体として東京商法会議所(東京商工会議所の前身)を創立しその事務所を置いたのがこの地である
ここには明治24年以来 農商務省 次いで商工省が昭和18年まで所在し 明治 大正 昭和の3世代にわたって 日本産業発展のための官民協力の場ともいうべきところとなった
昭和53年3月12日 東京商工会議所創立100周年にあたり ここに記念碑を建てて後世に残すものである
東京商工会議所会頭 永野重雄
佐久間象山塾跡
所在地 中央区銀座6丁目15番地域
この地域には、江戸時代後期の思想家で、信濃国(現在の長野県)松代藩士佐久間象山(1811~1864)の私塾がありました。
象山は初め儒学を修め、天保10年(1839 )神田お玉ヶ池付近に塾を開き、さらに松代藩の江戸藩邸学問所頭取などを務めました。
後に海防の問題に専心して西洋砲術や蘭学を学び、嘉永4年(1851)、兵学及び砲術を教授し、海防方策の講義などを行う目的で、木挽町5丁目(現在地付近)に塾を開きました。嘉永6年改正の絵図によると、「狩野勝川」(幕府絵師木挽町狩野家の画塾)と向かい合う場所に「佐久間修理」(象山)の名が見られます。この塾は20坪程度の規模で、常時30~40人が学んでいたといいます。
その門下には、勝海舟・吉田松陰・橋本佐内・河合継之助など、多くの有能な人材が集まり、土佐藩士坂本龍馬の名も門人帳に確認することができます。龍馬は、嘉永6年に江戸へ最初の剣術修行に出て、その最中である12月1日に象山に入門しました。
木挽町の塾には、諸藩から砲術稽古の門下生が急増しましたが、嘉永7年に門人の吉田松陰がアメリカ密航に失敗した事件に連座して、象山は国許に蟄居を命ぜられて、塾も閉鎖されました。
平成22年3月 中央区教育委員会
狩野画塾跡(昭和通りに面する。後部の建物は電源開発ビル)
江戸幕府の奥絵師であった狩野四家は、いずれも狩野探幽(守信)、尚信、安信の三兄弟を祖とし、鍛冶橋・木挽町・中橋の三家と木挽町の分家浜町と、四家全て区内に拝領屋敷がありました。
木挽町狩野家の祖、狩野尚信は寛永七年(一六三〇)に江戸に召し出され、竹川町(銀座七丁目)に屋敷を拝領して奥絵師になりました。のち、安永六年(一七七七)六代典信(栄川)の時に、老中田沼意次の知遇を得て、木挽町の田沼邸の西南角に当たるこの地に移って、画塾を開きました。
奥絵師四家のなかでも最も繁栄した木挽町狩野派は、諸大名などからの制作画の依頼も多く、門人もまた集りました。門人のほとんどは諸候のお抱え絵師の子弟で、十四、五歳で入門し、十年以上の修行を要しました。修行を了えた者は師の名前から一字を与えられて、絵師として一家を成す資格を持つといわれました。
この狩野画塾からは、多くの絵師が輩出しましたが、明治の近代日本画壇に大きな貢献をした狩野芳崖や橋本雅邦はともに、木挽町狩野最後の雅信(勝川)の門下生です。
平成九年三月
中央区教育委員会
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2016年1月 9日 12:00
商法講習所跡
明治八年(一八七五年)この地に
商法講習所を開設す
これ現在の一橋大学の発端なり
昭和五十年九月二十四日
百年記念に当り
一橋大學之を建つ
金春屋敷跡
所在地 中央区銀座八-六~八地域
江戸時代、幕府直属の能役者として知行・配当米・扶持を与えられていた家柄に、金春(こんぱる)・観世(かんぜ)・宝生(ほうしょう)・金剛(こんごう)の四家がありました。能楽は室町時代に足利幕府の保護奨励を受けて発達し、安土桃山時代には熱心な愛好者であった豊臣秀吉の保護を受け大いに興隆しました。
とくに、金春家は秀吉の強力な保護を受け、能楽の筆頭として召しかかえられました。江戸幕府も秀吉の方針を踏襲して能楽を保護し、金春・観世・宝生・金剛の四座を幕府の儀礼に深く関わる式楽と定めました。
元禄六年(一六九三)頃の江戸市中の状況を記した「国花万葉記」によると、金春大夫は山王町(現在の銀座)・観世大夫は弓町(現在の銀座)・宝生大夫は中橋大鋸町(現在の京橋)・金剛大夫は滝山町(現在の銀座)に屋敷を拝領していたとされています。
金春家は、寛永四年(一六二七)に屋敷を拝領したといわれ、寛永九年(一六三二)の江戸図『武州豊嶋郡江戸庄図』には「金春七郎」の名を確認することができ、現在の銀座八丁目六・七・八番地全体を占めていたように図示されています。後に、この屋敷は麹町善国寺寺谷(千代田区麹町三・四丁目)に移りましたが、跡地には芸者が集り花街として発展していき「金春芸者」といわれるようになりました。金春の名は、「金春湯」・「金春通り」などとして、今もこの地に残っています。
平成十五年三月
中央区教育委員会
銀座柳の碑
西条八十作詞、中山晋平作曲「銀座の柳」の歌碑。明治二十年頃街路樹として銀座の街に植えられた柳は街の発展と共に銀座の名物となった。その柳を歌ったこの歌は全国を風靡した。これを記念して昭和29年4月1日、銀座通聯合会がこの碑を建立した。
芝口御門の跡
所在地 中央区銀座八-八・九・十付近
ここの南方、高速道路の下には、もと汐留川が流れ、中央通り(旧東海道)には、昭和三十九年まで新橋が架かっていました。
宝永七年(一七一〇)、朝鮮の聘使(へいし)の来朝に備えて、新井白石の建策にもとづきわが国の威光を顕示するため、この新橋の北詰に、現に外桜田門に見られるような城門が建設されて、芝口御門と呼ばれ、新橋は芝口橋と改称されました。
城門は橋の北詰を石垣で囲って枡形とし、橋のたもとの冠木門から枡形に入って右に曲がると、渡櫓があって堅固な門扉が設けられていました。しかしこの芝口御門は建築後十五年目の享保九年(一七二四)正月に焼失して以来、再建されず、石垣も撤去され、芝口橋は新橋の旧称に復しました。
昭和五十二年十月
中央区教育委員会
三十間堀
所在地 中央区銀座八-十一-十三先
三十間堀は京橋川から汐留川にいたる横堀川でした。慶長十七年(一六一二)江戸の船入堀を整備するため、西国大名に開削工事を命じて完成しました。堀幅が三十間あったために三十間堀と呼ばれました。文政十一年(一八二八)に幅を十九間に狭めたといわれています。
江戸時代初期の『寛永江戸図』に三十間堀と見え、堀の南側は紀伊徳川家をはじめ、京極、加藤、松平などの諸大名の屋敷が並んでいました。延宝七年(一六七三)の図では西岸は三十間堀町一~八丁目、東岸は木挽町一~七丁目で、河岸場があり、舟運の荷物の揚げ場でした。
幕末から明治時代にかけて、船宿が並んで屋形船や屋根船が往来し、明治三十四年(一九〇一)の『新撰東京名所図会』にも、その賑わいの様子が描かれています。
明治十七年(一八八四)、三十間堀には真福寺橋、豊蔵橋、紀伊国橋、豊玉橋、朝日橋、三原橋、木挽橋、出雲橋等多くの橋が架けられていました。
三十間堀は戦後、灰燼の山を処理するために、昭和二十三年から埋立てが始まり、同二十七年七月に完了したあとは次第に商店やオフィスなどの立ち並ぶ街になりました。
平成十年三月
中央区教育委員会