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2016年2月25日 12:00
先日、「中央FM」"大好き中央区"に出演し、荷風の「日和下駄」、「断腸亭日乗」について少し語らせていただいた。 そこで、以前、このブログに投稿したのは何時だったかと思い、確かめてみると2015年11月30日付であった。
それから、約3か月、荷風の「日和下駄」や「断腸亭日乗」を座右において中央区内を散策していると、今はもう消えた昔の地名などにもかなりの馴染みとなってくる。
以前の文を、再度、収録させていただきたい。
荷風は言う、「私は別に此と云ってなすべき義務も責任も何にもない云はば隠居同様の身の上である。その日その日を送るに成りたけ世間へ顔を出さず金を使はず相手を要せず自分一人で勝手に呑気にくらす方法をと色々考案した結果の一ツが市中のぶらぶら歩きとなつたのである」。(13-301)
そして「日和下駄」は、荷風が日々の「ぶらぶら歩き」のなかで感じたことを綴った散策記である。
「序」で「大正三年夏のはじめころよりおよそ一歳あまり、月々雑誌三田文学に連載したりし」と書くのは、「此書板成りて世に出づる頃には、篇中記する所の市内の勝景にして、既に破壊せられて跡方もなきところ尠からざらん事を思へばなり。」からであり、「昨日の淵今日の瀬となる夢の世の形見を伝へて、拙きこの小著、幸に後の日のかたり草の種ともならばなれかし」という。
まさしく、その後、大正11(1923)年の関東大震災、昭和20年の米軍大空襲によって、さらには昭和39年の東京オリンピックによって、「此書板成りて世に出づる頃」から遥かに歳月を経た現在では、「篇中記する所の市内の勝景にして、既に破壊せられて跡方もなきところ尠からざらん」状態になっているので、この大正3年の散策記を読んでも隔世の感がある。
中央区内の情景はそれほど登場しないのだが、その中の何か所かを拾っておきたい。
「一体江戸名所には昔からそれほど誇るに足るべき風景も建築もある訳ではない。・・・・住吉を移奉る佃島も岸の姫松の少きに反橋のたゆみをかしからず・・・・其角は江戸名所の中唯ひとつ無疵の名作は快晴の富士ばかりだとなした。」(300)
「並木は繁華の下町において最も効能がある。銀座駒形人形町通の柳の木かげに夏の夜の露店賑ふ有様は、煽風器なくとも天然の凉風自在に吹通ふ星の下なる一大勧工場にひとしいではないか。」(315)
「鉄砲洲なる白河楽翁公が御下屋敷の浴恩園は小石川の後楽園と並んで江戸名苑の一に数へられたものであるが、今は海軍省の軍人ががやがや寄集つて酒を呑む倶楽部のやうなものになつてしまつた。」(320)
「日本橋の大通を歩いて三井三越を始めこの辺に競うて立つアメリカ風の高い商店を望むごとに、私はもし東京市の実業家が真に日本橋といい駿河町と呼ぶ名称の何たるかを知りこれに対する伝説の興味を感じていたなら、繁華な市中からも日本晴の青空遠く富士山を望み得たという昔の眺望の幾分を保存させたであろうと愚にもつかぬ事を考え出す。」(327)
「東京の水を論ずるに当ってまず此を区別して見るに、第一は品川の海湾、第二は隅田川中川六郷川の如き天然の河流、第三は小石川の江戸川、神田の神田川、王子の音無川の如き細流、第四は本所深川日本橋京橋下谷浅草等市中繁華の町に通ずる純然たる運河、第五は芝の桜川、根津の藍染川、麻布の古川、下谷の忍川の如き其の名のみ美しき溝渠、もしくは下水、第六は江戸城を取巻く幾重の濠、第七は不忍池、角筈十二社の如き池である。」(332)
散策、散歩とは、今風に言えば、ウォーキングということになろうか。荷風は金があってなお「金を使はず」と言っているのだが、私の場合は、まさに正真正銘金もない身として、「その日その日を送るに成りたけ世間へ顔を出さず相手を要せず自分一人で勝手に呑気にくらす方法」として、今後も中央区内をぶらぶら歩いていきたい。
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2016年2月24日 16:00
中央FM"大好き!中央区"に出演してきました。昨年6月に続く2回目です。放送される頃は、桜がもう満開を過ぎて散り始めているかもしれない。
出演前に提出した質問票を下記に公開させていただきます。
・自己紹介(近況報告やあなたの中央区の好きなところなど)
特派員になってからこの1年、区内をかなり歩き回りました。
昨年11月の「中央区まるごとミュージアム」にも参画させていただきましたが、そのための事前調査として、昭和通り、新大橋通りなども一貫して歩いてみて、区内の地名について「点と線」がかなり一致するようになりました。
清貧生活を送る老人として、区内の旧跡などを訪ねて写真撮影を行うことは、ついつい億劫となりがちな外出への「誘因」となっています。 荷風の境地に魅かれています。
荷風は、「私は別に此と云ってなすべき義務も責任も何にもない云はば隠居同様の身の上である。その日その日を送るに成りたけ世間へ顔を出さず金を使はず相手を要せず自分一人で勝手に呑気にくらす方法をと色々考案した結果の一ツが市中のぶらぶら歩きとなつたのである」(『日和下駄』13-301)と述べています。
「中央区」は、元来の「江戸」であり、東京としては名所旧跡が豊富であるうえに、日本橋・銀座という先端的な繁華街をかかえているという新旧二面における深さを内蔵する地域であることが魅力ですね。
・本日のブログご紹介(どこに、どんな理由で取材されたのか?場所など取材先の紹介)
書物や写真だけではなかなか実感としてとらえられない建造物等を、実際に見て観察するために、現地に足を運んで写真撮影しています。
・ 今回の取材を通しての感想を教えてください(オススメの見どころ、裏話など)
「ものしり百科」では、区内で17のウォーキングコースを紹介していますが、これらを実際に歩いてみると、区内の地名を身をもって認識できるようになります。
・ 次に行きたいと思っている場所は?(気になっているお店やイベント、名所などを紹介)
区内の名所をさらにまわって、その歴史などについての知見をさらに深めたい。
東京スクウェア地下にある、中央FMのスタジオ
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2016年2月23日 12:00
重要文化財
築地本願寺 本堂一棟
附 正門・北門・南門(各一所)、石塀(五基)
所在地 中央区7築地3丁目15番1号
浄土真宗本願寺派(京都西本願寺)の直轄寺院・築地本願寺は、江戸時代初期の元和3年(1617) 、浅草近くの横山町に創建されました。
江戸浅草御坊と称された当寺院は、明暦3年(1657)の大火で消失した後、現在地に移転・再建されました。 特に本堂の大屋根は、江戸湊に入る船の目印であり、江戸庶民によく知られた名所の一つでした。
江戸時代から明治期にかけて何度か再建された木造の本堂は、大正12年(1923)の関東大震災で焼失した後、昭和9年(1934)に現在の本堂(鉄筋コンクリート造、地上二階、地下一階)となりました。
西本願寺22世宗主・大谷光端の依頼を受けた設計者の建築家・伊藤忠太(1867~1954)は、日本の伝統的な寺院様式ではなく、仏教の発祥地であるインドの建築様式を独自の解釈で外観に取り入れ、特異な雰囲気をもつ伽藍を創出しました。
花崗岩が用いられた建物中央の本堂は、上部に銅板で葺いた巨大な円形屋根がのせられ、左右対称にのびた翼部には鐘楼と鼓楼の塔屋を置き、正面中央と左右の入口には独特の曲線による破風を設けています。内部は伝統的な浄土真宗寺院の本堂形式でありながら、外観各部にはインド風の建築手法が見られ、入口の破風(はふ)・柱頭飾り・屋根上の尖塔、さらに細部の装飾が一体となり、全体として調和のある外観を創り出しています。
当寺院本堂は、建築家・伊藤忠太が最新の技術を用いて東洋的な建築を追求した典型例であるとともに、秀逸な建築デザインを保持する震災復興期の貴重な建造物といえます。また、本堂とほぼ同時期に建築された外周の石積塀や石造柱門(正門・北門・南門)も共通のデザインを踏襲しており、本堂と一体をなす貴重な建造物となっています。
これらの建造物は平成26年に重要文化財として、指定されました。
平成27年3月
中央区教育委員会
国指定重要文化財についての標示版
敷地内にある、石灯籠(これは重要文化財ではない)
敷地内にある親鸞聖人像 (これは重要文化財ではない)
重要文化財の一部である正門と石積塀
重要文化財の一部である南門
敷地内にある第一伝道会館、喫茶室や宿泊施設もある。
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2016年2月22日 09:00
2月13日の日経新聞が、築地の商業施設「築地魚河岸」の開業予定などについて報じていますね。
>「築地魚河岸」10月15日開業、場外にぎわい維持へ61業者、中央区、移転前後にネズミ駆除。
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2016/02/13 日本経済新聞 地方経済面 東京 15ページ 704文字
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東京都中央区は同区にある築地市場の場外で整備中の商業施設「築地魚河岸(うおがし)」について、開業日を10月15日に決めた。61事業者が入居。市場本体が11月7日に豊洲市場(江東区)へ移転した後も、「築地」のブランド力を生かし、場外地区のにぎわいの維持をめざす。
・・・・・・・
また、中央区は移転の前後に築地市場の周辺でネズミの駆除作業に着手する。5月と8月に巣穴への薬剤の投入や巣穴の封鎖作業に取り組む。植え込みなどに捕獲用のボックスを設け、下水道のマンホールへ薬剤を散布しネズミを捕る機器も設置する。近くに住む区民には9月以降、ネズミを捕る粘着シートを配る。約8万枚を用意し、来年3月まで配布を続ける。
工事が進む「築地魚河岸」
築地場外の地帯はかつて本願寺の門前町であった。今でもビルの階上にある「妙泉寺」
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2016年2月13日 14:00
聖路加国際病院 トイスラー記念館
所在地 中央区明石町10(聖路加国際病院)
昭和8年(1933年)、トイスラー記念館は隅田川畔の明石町19番地に聖路加国際病院の宣教師館として建設されました。
設計者は米国人建築家のJ・V・W・バーガミニィで、施工は清水組(現在の清水建設株式会社)が行いました。建物の躯体は、昭和初期の住宅建築には珍しい鉄筋コンクリート造一部木造の二階建てで、ヨーロッパの山荘を思わせる重厚な風格のある建物でした。
平成元年に解体工事が行われ、平成10年(1998年)2月に現在地へと移築復元されました。復元にあたり、創設当時の施工技術や構造上の特徴を精密に記録し、再利用可能な部材をできる限り用いています。
外観は、外部に柱や梁を表現したハーフティンバー風の意匠です。室内はチューダー・ゴシック風のデザインで、玄関ホールやリビングなどに重厚な木の内装がみられます。
この建物は、聖路加国際病院の歴史を物語るとともに、築地居留地時代から引き継がれてきた明石町の歴史の一端を伝える貴重な文化財です。
平成18年3月 中央区教育委員会
アメリカ公使館跡石標
アメリカ公使館は安政6年(1859年)ハリスにより港区元麻布1-6、善福寺に開設されたが、明治8(1875年)12月築地の外国人居留地内のこの地に新築され、はじめて形容を整えた。 のち明治23年(1890年)3月赤坂の現在地に移転され、現在の大使館になっている。
最後の移転により、この地には8個の小松石の石標が残された。石標には、白頭鷲、星条旗、星の3種類の彫刻が施されており、白頭鷲はアメリカの国鳥であり、星条旗に彫られた13の星は同国初期の13州を示す。
8個の石標のうち3個は昭和59年(1984年)10月に日米友好のシンボルとして、赤坂のアメリカ大使館に寄贈され、現在同大使館の前庭に配置されている。残る5個の石標は、築地の居留地時代を伝えられるものとして中央区民文化財に登録されており、うち3個をここに、2個を聖路加ガーデンに設置する。
1998年5月 聖路加国際病院
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2016年2月13日 09:00
カトリック築地教会聖堂
所在地 中央区明石町5-26
カトリック築地教会は、明治四年(1871)にパリ外国宣教会のマラン神父が、鉄砲洲の稲荷橋付近の商家を借りて開いた「稲荷橋教会」がその前身とされます。明治七年(1874)、神父は宣教会の名義で築地居留地三五・三六番を借り受け、ここに司祭館と聖堂を建てました。明治十一年(1878)には、ここにゴシック様式の聖堂が献堂されますが、この聖堂は関東大震災で焼失し、現在の聖堂が昭和二年に再建されました。聖堂は石造りに見えますが、実は木造建築で、壁画をモルタル塗りとしています。
また、旧聖堂で使用された鐘は、1876年(明治九年)にフランスのレンヌで製作され、当時の司祭であるマレシャル神父から「江戸のジャンヌ・ルイーズ」と名付けられたもので、現在も教会に保管されています。
教会聖堂と鐘は、かつて外国人居留地のあった明石町に残された貴重な文化財として、中央区民文化財に登録されています。
平成十三年三月
中央区教育委員会
屋根正面のバラとチューリップの彫刻
築地教会聖堂は、区民有形文化財(建造物)であるとともに、東京都選定歴史的建造物にも指定されている(「ものしり百科」152頁)。手前が区民有形文化財、その先が都生活文化局による都選定歴史的建造物指定の標示板。
門の真正面にある、「暁星学園発祥の地」の碑。背景は明石小学校で、左に「ガス街灯の柱」(「ものしり百科」65頁)が少し写っている。