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2016年8月29日 18:00
本日(8月28日)昼の「クールジャパン」(NHK・BS1)のテーマは、「築地」でしたね。
>11月に移転を控えた築地市場。世界的な旅行ガイドブックでも「世界中の新鮮な魚介類が集まる場所」として紹介されている。そんな築地の最後にあたって「築地の何が外国人に愛されるのか?」を外国人観光客へのアンケートで徹底調査!「外国人の見た築地のクールランキング」を作成。築地のどこが魅力的なのか、海外と日本の市場は何が違うのかなどを探る。
築地クールランキングは以下の通りでした。
① 寿司
② 築地市場
③ 浜離宮庭園
④ 玉子焼きの店
⑤ 和包丁の店
⑥ 築地本願寺
⑦ 果物の店
⑧ 波除神社
⑨ 乾物の店
⑩ ターレット(運搬車)
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2016年8月14日 14:00
野口富士男著『私のなかの東京』(昭和53年6月、文藝春秋)の中で、築地小劇場跡の記念碑設置の際の「東京新聞」夕刊記事(昭和52年8月16日付)が紹介されている。
>大正末から昭和にかけ、新劇のメッカとなった築地小劇場(昭和20年戦災で焼失)をしのぶ記念碑が東京都中央区築地の同劇場跡地に完成、15日、演出家千田是也氏、女優岸輝子さんら演劇人や地元関係者ら約百人が集まり除幕式が行われた。
完成した記念碑は、同劇場跡地に建設された電電公社ビルの壁面に埋め込まれており、縦横1メートルの小松石製のレリーフ。焼失前の劇場像が彫り込まれ、作家里見弴氏の碑文が添えられている。
「焼失前の劇場像が彫り込まれ」というのは厳密には誤りである。レリーフに彫刻されているのは大正13年創設当時のもので、昭和8年にいったん新築し直されている。なお、『ものしり百科』69頁でも述べられているように、電電公社ビルはNTTデータ築地ビルに変わっている。
野口氏は、「築地といえば、すぐ明石町の居留地が連想されるが、私たちがただ『築地』といった場合、それは私が中学1年生であった大正13年6月13日に開場されたといわれる築地小劇場をさしていた。」と書き、「学生時代に私は築地小劇場の帰途、何度となく築地川にかかっている亀井橋をわたって銀座へ出た。橋のたもとには小林多喜二が虐殺された築地署があった。川の正面は新橋演舞場で、その左手が東劇である。」という昭和42年に書いたという自らの文章を紹介している。
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2016年8月10日 09:00
「築地小劇場」は、『ものしり百科』68頁でも紹介されているように、日本で最初の新劇の専門劇場で、1924年(大正13) 6月、東京市京橋区(現,中央区) 築地2丁目に新築開場した。
永井荷風は、1924年(大正13) 6月23日の『断腸亭日乗』で次のように記している(岩波文庫の『摘録』には収録されていない)。
>夜お栄を携へ銀座を歩み築地に出づ。籾山氏邸址の一隅に築地小劇場なるもの建てられたり。土方輿志小山内薫二氏の経営する所なり。之に隣接して活動写真館の如きものあれど夜中にて判明せず。震災後籾山氏の屋敷には樹木鬱然たりしが今は倉庫の如きもの建連りて見るかげもなき處となれり。庭後君曾てこゝに住せし時その庭を眺めて、枝かはすなつめざくろや庭の秋。また枇杷に木によき小禽来る冬日哉など吟じられたり。子が令閨もいまは亡し。庭後子が遅日鶯など題したる著作は皆この築地の邸にて筆執られしなり。其等の事を思へば倉(氵偏)桑の感に堪えず。
以下は、現在の姿。 大正13年当時をしのばせるものは全くない。
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2016年8月 6日 12:00
> オヤヂ系特派員ガイドに多く見られるのが、歴史や文化のうんちくを紹介するタイプ。これに終始するとつまらない案内になってしまうのですが、・・・・しかし、講釈ばかりたれていないでお客さんの関心を引き込むような斬新なネタを仕込みたい!
ジジイ系特派員としては、ブログも「歴史・文化」ジャンルに特化しております(笑)。
先日、築地社会教育会館で、「江戸」に関する、ガイドではなく専門家による講義を聞いたのですが、求めていた内容とは少し違いましたな。
「江戸時代」なる時代区分、幕府成立(1603)から大政奉還(1867)までとしても、260年以上もある。アメリカ憲法起草(1787)から現在までより30年以上も長い。そして、中央区は元来の江戸であって、米国で言えば原初の13州のようなもの。 そうした事情を十分に踏まえた上での講義であればよかったのだが。
>先日、特派員の中でも特に優秀な人材を集めた「実地研修」なるものに参加して来ました。
私は「お客さんの関心を引き込むような斬新なネタ」を提供できる自信もないので、申し込む勇気がおきませんでした。
通訳案内士(英語)の資格も少しは生かしたいと思って、先日、区報に載った中央区の研修に申し込んだら、あえなく抽選で外れ。
こんな抽選にも外れるようでは宝クジなど当たるわけがない。
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2016年8月 3日 14:00
先に、池田弥三郎氏が『日本橋私記』の中で、次のように述べて、「日本橋」の名は、原初には「二本橋」であったという主張の根拠とされていることを記した。
>『紫の一本(ひともと)』という著作には「一ツ橋、日本橋(二本橋)があって三本橋がないのはどうしたことか」と書かれている。 このような「戯語」めかして書いてあることの背景に、日本橋はもともと「二本橋」であったのだが、それがいつか、同音連想で日本橋となってしまったという、その当時の人々がまだ知っていた巷間の「知識」が隠されているとみることは、決してこじつけではない。 (50)
この『紫の一本』が「日本古典文学全集」(小学館)の第82巻「近世随想集」(2000年発行)に収められていることを発見したので、原文等を紹介しておきたい。
『紫の一本』は、近世前期の和学者・戸田茂睡(とだもすい)が著した江戸の地誌、随想である。戸田茂睡は、宝永3年(1706)に78歳で没している。この書の成立は奥書によると天和2年(1682)である。御城巡り、古城、山、坂・・・などの景地、景物による分類ごとに江戸の名所を類聚し、それぞれ長短自在に記述したものである。戸田茂睡は、和歌においても地名に特別な関心を寄せていたように見受けられる。
この中で、「日本橋」については、次のように記述している。
>「一ツ橋、日本橋ありて、三橋のなきは如何に」といへば、・・・・が云ふ。「一石橋、両国橋ありて三石橋のなきがごとく」・・・・・・・・・かぞふれば一石からは二本橋江戸橋からも二ほん橋哉・・・・・
(数えてみると、日本橋は西方の一石橋から二本目であり、東方の江戸橋からも二本目で、なるほど道理にかなった名であることだ)
池田弥三郎氏の主張には、かなりの説得力があるように私は思う。